第82話 それぞれの役割
月華は人垣を抜け、騒ぎの中心に出た。
そこにはまるで戦場のような光景が広がっていた。
半壊する出店、横たわる大勢の人々、子どもの泣き声だけでなく大人の悲鳴も聞こえる。
月華が周囲を見渡し愕然としていると、破壊された出店の近くに膝をつく楓に声をかけられた。
「月華殿っ」
振り向くと楓の腕の中には弟の悠蘭がいる。
駆け寄って声をかけようとすると、後ろからさらにふたりが合流した。
「月華!」
「月華様!」
現れたのは李桜と椿だった。
椿は青ざめた顔で悠蘭を見下ろした。
「悠蘭様、大丈夫なの!?」
「椿、何があったか見たの?」
李桜にそう問われ、椿は驚愕しながら何度も頷いた。
「え、ええ。見たわ。悠蘭様、刀の柄で肩を突かれて勢いよく飛ばされたのっ」
月華はその場に膝をついて弟の顔を覗き込んだ。
意識は落ちているが、斬られてはいないようである。
「悠蘭は以前、肩を斬られたことがある。もしかしたら古傷に打ち込まれたかもしれないな。だが、どうしてそんなことになったんだ?」
月華が眉間に皺を寄せていると、椿は縋るように月華の腕を掴んだ。
「百合、百合よっ! 百合を連れていこうとした男を退けようとして返り討ちにあったの。どうしよう、月華様っ。私、何とか止めようとしたのに——」
椿は涙声になり、両手で顔を覆うとそれ以上二の句を継ぐことができなくなった。
李桜の胸に顔をうずめ、肩を震わせている。
「一体、何があった!?」
「悲鳴を聞いて僕が戻ってきた時には確かに知らない男が百合殿を連れていこうとしてた。止める間もなく、暗闇に消えていったよ……」
苦虫を嚙み潰したように悔しそうにする李桜に楓も続いた。
「私も悲鳴を聞きつけてここへ来た時に見た。月華殿、奥方を連れていったのは——」
「もしかして白檀の供をしていた隻眼の武士か?」
「そ、そうだ。よくわかったな」
「遅かったか……どこへ向かったか見たか?」
「祭りの明かりから遠ざかるように向こうの暗闇へ消えていった」
月華は腕を組み、顎に手を当ててしばらく考えた。
隻眼の武士が輪廻の華を欲しているとするなら、今のところ百合の命がすぐに危険に晒されることはないだろう。
生きていてこそ価値がある輪廻の華なのだ。
であればまずは事態を収拾する方法を考えなければならない。
気絶している悠蘭、置いてきてしまった榛紀、杏弥の処遇、そして突如として現れた白檀。
彼らを同時にどうにかしなければならなかった。
月華はまず李桜に言った。
「李桜、悪いが悠蘭のことを頼めるか。負傷した楓殿の腕では悠蘭を運ぶことはできない」
「わかった。僕が負ぶっていくよ」
「ここからなら九条邸まで行くよりも六波羅へ行った方が近いかもしれないな」
「そうだね。でも鬼灯様がいらっしゃるかどうかわからないんじゃないの」
「大丈夫だ。この人混みの向こうに菊夏殿がいる。彼女であれば六波羅御所には自由に出入りできる。だから菊夏殿と一緒に行ってくれないか」
李桜は黙って頷くと涙を流す椿を手放し、楓から受け取った悠蘭を背負った。
歩き出す李桜について行こうとして椿は振り返ると月華の腕を掴み、
「必ず百合を連れ戻して、月華様」
そう言って先を行く李桜を追いかけた。
李桜たちの背中を見送り、月華は楓に向き直った。
「それから楓殿、あなたにも頼みたいことがある」
「何でも引き受けよう」
楓は立ち上がると膝の砂埃を払いながら答えた。
「実は走り出した榛を追いかけていたら、白檀が現れた」
「何だって!?」
「こちらに敵意はないようだったが放っておくわけにもいかない。しかも榛はまた具合が悪くなったようだった」
「弾正尹様が? ではどうする、月華殿」
楓は意外と冷静な月華に驚きを隠せなかった。
かつて横恋慕したという前の陰陽頭を殺しかけたと聞くほど妻を溺愛していると紫苑から聞いていただけに、その妻が攫われてもなお落ち着いている月華に楓は感心していた。
「楓殿は榛が走っていった方へ向かってくれないか。紫苑は俺の後を追いかけてきたから、その道筋のどこかであいつに合流できると思う。紫苑に会ったら、悪いが榛と白檀を九条邸に連れていくように伝えてくれないか」
「そなたの邸に?」
「ああ。白檀はともかく榛ならば父が必ず受け入れてくれる」
「……右大臣様と弾正尹様はずいぶんと親しいのだな」
「まあな。それに榛の行くところに白檀もついて行くはずだ」
「どういう意味だ?」
「深い意味はない。それからあのふたりを紫苑に任せて、あなたには鷹司杏弥を捕まえておいてほしい」
「刑部少輔を? 結局、発見したのか」
「ああ。杏弥はこともあろうか百合を連れていったという隻眼の男と結託して百合を白檀に献上しようとしていたらしい。だが隻眼の男の方は百合を別の者のところへ連れていきたいようだ」
「どういうことだ……?」
「わからない。だが隻眼の男は今、白檀の命令で動いているわけじゃないってことだけは確かなようだ。白檀本人がそう言っていた」
「それで、刑部少輔を捕らえてどうするのだ」
「牢にでもぶち込むか」
「は……?」
「理由はどうあれ、女子をかどわかそうと謀っていたのだから十分重罪だろう」
確かに一理ある。
楓はふたつ返事で月華の頼みを聞き入れた。
「さて、あとはこの状況をどう収拾するかだな。騒ぎをどうやって収めようか——」
すると彼らのやり取りを近くで見ていた商人の榊木が話に割って入ってきた。
榊木は星祭りの主催者として半壊した出店で被害を受けた店の主に事情を聞いていたのであった。
「——楓様、この騒ぎの収集だったら俺に任してくれませんかね」
「榊木殿……?」
「みな突然のことで驚いてるだけなんでさぁ。俺たち平民はこんなことくらいじゃ、へこたれませんぜ。ちゃんと事情を説明して騒ぎを治めますから」
月華と楓は互いに顔を見合った。
騒ぎを起こしたのはむしろ月華たちの関係者なのに、それをまるで自分がしでかしたことのように尻ぬぐいをすると言う。
ふたりは榊木に丁重に礼を言うとそれぞれの向かうべき方向へ散った。
月華と別れた李桜は悠蘭を背負ったまま、椿と菊夏を伴ってみつ屋の近くまで辿り着いた。
時々背中で軽くうめき声を上げる悠蘭を心配そうに見つめる菊夏と、百合を目の前で連れ去られたことへの自責の念に苛まれる椿のせいで、李桜の周りはまるで葬式のような雰囲気が充満している。
重苦しい空気がまとわりつくような中、李桜がどんよりと暗い気分で歩いていると能天気な声が聞こえ顔を上げた。
そこには親友の紫苑が同じように誰を背負って立っていた。
「おい、李桜。お前、どこに行くんだ」
「どこって六波羅に向かってるんだよ。紫苑、あんたこそ誰を背負ってるの」
「あ? ああ、この人か? これは弾正尹様だ」
覗き込むと確かに見覚えのある顔がそこにはあった。
何があったのか問いただそうとしたその時、李桜は後ろに控える人物に思わず声を荒げた。
「ち、ちょっと何であんたがここにいるんだよ!?」
「李桜、久しぶりですね。私を覚えていてくれたとは光栄です。三の姫もお元気そうで何より」
まるでふたりの間には何ごともなかったかのように普通に振舞う白檀に、李桜は我慢の限界だった。
まさに一色即発の状態であった。
一方、楓は月華に言われたとおり、弾正尹と突然現れたという白檀を探しに行った。
みつ屋の前まで戻るとその近くから大声が聞こえてくる。
聞きなれた声のする方へ楓は急いで向かった。
声の主はよく知る李桜だった。
対する相手を見て、李桜が声を張り上げている理由に納得した楓だったが今は揉めている場合ではない。
ふたりの間に割って入ると楓は双方の顔を交互に見た。
「李桜、気持ちはわかるが今は悠蘭殿を六波羅へ届けるのが先決ではないか?」
「…………」
納得していないのは表情を見ていてもわかったが、長年付き合いのある楓は彼がわからず屋ではないことを知っている。
常に合理的で自分の感情を押し殺してでも最善の方法を選択するのが西園寺李桜なのだ。
だからこそ彼は朝廷一の切れ者と称される。
じっと楓を見つめてきた李桜だったが、やがてため息をつくと椿と菊夏を伴ってその場を去っていった。
楓は胸を撫で下ろし、次に紫苑に向かって言った。
「紫苑殿、月華殿からの伝言がある」
「月華から?」
「ああ。今背負っているのは弾正尹様か?」
「よくわかったな。この人、熱があるみてぇなんだ。このまま放っておくわけにもいかねぇしな」
「月華殿は弾正尹様と白檀殿を九条邸へ連れていってほしいと言っていた。右大臣様は必ず弾正尹様を受け入れてくださる、と。それに白檀殿は弾正尹様の行くところについて行くはずだ、とも言っていた」
「そうなのか?」
楓と紫苑は同時に白檀の顔を見た。
月華が言った、という話を聞き白檀は一瞬、面食らっていたがすぐに持ち前のしたたかさで素が出そうになるのをごまかした。
「月華も面白いことを言いますね。まあ、私は今のところ行く当てもない身なので行けと言うのならついて行きますよ。彼が倒れたところに出くわしたのも何かのご縁でしょうからね」
紫苑に背負われた榛紀の顔を覗き込む白檀はどこか柔らかい表情をしているように楓には見えた。
「俺たちは月華の言うとおり九条邸に行くとして、楓殿はどうするんだ?」
「私は刑部少輔のことを任された。そなたたちは会ったのだろう?」
「ああ。あいつなら俺たちが来た道の先にまだいるんじゃねぇかな」
紫苑はそう言いながらこれまで歩いて来た道を指さした。
「楓、杏弥をどうするのですか」
「さて……どうするかな」
そう答えて楓は紫苑たちと別れた。
示された道を歩きながら、道すがら楓はふと思った。
かつては「楓様」と呼ばれていたが、自分の素性が知られているとすっかり開き直ったのか「楓」と呼び捨てにされたことにあまり違和感を感じなかった。
その雰囲気が弾正尹である榛紀によく似ている気がしたのは気のせいだろうか——。