第8話 玉座にふさわしいのは
とうとう見つけた——。
世の中が寝静まった夏の暮夜。
虫の声が静寂に溶け込む中、内裏の清涼殿で帝——榛紀は1冊の書を眺めていた。
榛紀は兄の白椎が京を追放されることになった事件を長い間、調べていた。
まだ幼かった頃、この清涼殿でともに暮らしていた兄、白椎。
京を追われ西国へ送られたと聞くが、いくら文を送っても返事があったことは1度もなかった。
今はどこで何をしているのか。
腫れ物に触るかのように誰もその行く末を教えてはくれない。
無事であってほしいと願うばかりだった。
榛紀が眺めているのは橄欖園遊録という書である。
白椎が京を追われるきっかけになった事件が記録されているこの書を発見したのは偶然だったが、これを読み進めて行けばなぜ父が兄を宮中から追い出したのかわかるに違いない、榛紀はそう考えている。
かつて宮中には風早橄欖という著名な茶人がいた。
その茶人は、身分は羽林家でそう高くない公家の出であったが、その茶の湯の素晴らしさから宮中では重宝されていた。
宮中での茶会は必ず橄欖の仕切りで行われ、帝や帝の客人をもてなすのは橄欖の役目だった。
彼は弟子を取らなかったが、唯一、皇家の第1皇子である白椎には喜んで茶の湯を教えていたという。
この橄欖園遊録は、そんな橄欖が10年ほど前に宮中で開いた茶会で起こった事件が記録されている。
榛紀は再び開いていた書に目を落とした。
朝廷の書庫の禁書棚から持ち出してきたものであったが、忙しさにかまけてなかなか読み進めることができずにいた。
もう少し読み進めようと頁をめくりかけたその時、室内に急に吹き込んできた夜風で何枚もの頁がめくれてしまった。
長い黒髪が視界を遮ったため、それを払ってめくれた頁を戻したところで、近づいて来る足音が聞こえた。
星明かりが逆光となり顔は見えなかったが、その足音だけで榛紀には誰だかわかっていた。
「榛紀様、まだ起きておられるのですか」
呆れた様子で清涼殿に現れたのは右大臣である九条時華だった。
榛紀が幼少期より世話になっている実の叔父である。
時華は右大臣として、また九条家当主としても忙しいはずだが2日に1度は必ずこの清涼殿に現れる。
まるで母親のように苦言を呈しにやって来るのだ。
「叔父上、私はもう子どもではないのですよ。しなければならないことは山ほどあるのです。おちおち寝ている間などありませぬ」
榛紀は近づいて来る相手にそう零した。
時華は文机を挟んで榛紀の向かいに膝を折ると、彼が読んでいたと思しき書物を覗き込んだ。
榛紀の口にした不満など時華にとっては詮無いことのようだった。
「こんな時分まで何を読んでおられたのです?」
「これは——大したものではありませぬ。もう書庫に戻そうと思っていたところです」
榛紀は何ごともなかったかのようにそれまで読んでいた書を閉じた。
本当はまだ読み終えていなかったが、持ち出し禁止の禁書がここにあることが時華に知れては面倒なことになると咄嗟に思った榛紀は話題を変えて注意を逸らすことにした。
「ところで叔父上こそ、こんな時分にどうされたのですか」
「私はあなたが夜更かしをしておらぬか監視しに来たのですよ。あなたは目を離すとすぐに無理をするゆえ、心配でなりませぬ」
「ははっ。あなたの息子の悠蘭だって同じではありませぬか。彼だっていつも徹夜している」
「あれは……好きでやっている仕事ですので放っておいてよいのです」
「冷たい父上だな。新婚なのにろくに邸にも戻れず、気の毒なことではありませぬか。妻が朝廷で仕事をされていることが唯一の救いとも言うべきか……少し休暇を与えてはどうですか」
「帝の地位にあるあなたが心配することではありませぬ。あなたが考えるべきは国の安寧についてでございましょう」
榛紀は苦笑した。
確かにそのとおりである。
自らの両肩に民の安寧と未来を乗せているようなものだ。
だがひとりで抱えきれるものではない。
本当なら兄の白椎がこの地位にいるはずだったが、今はそれも叶わなくなった。
「叔父上。これでも私はすべての官吏について把握しているつもりですよ。文官、武官問わず彼ら官吏が公僕として働いてくれているからこそ、朝廷が成り立っていると思っています。国の安寧は彼ら官吏の助けがなくば成り立ちませぬ」
時華は面食らった様子だったが、後に声を上げて笑った。
「まあ確かにおっしゃることにも一理ありますな。官吏たちには一層励むよう尻を叩きましょう」
「い、いや叔父上、そういうことを言いたかったわけではなく……これ以上彼らを苦しめるようなことは……」
時華が有言実行な男であることを榛紀はよく知っている。
やると言ったからには、官吏には一層負担を強いることだろう。
榛紀は少し余計なことを言ってしまったと大いに反省した。
「そうだ、叔父上。最近、官吏たちが不満を漏らしているのをご存じですか」
「いえ、知りませぬな。そもそも官吏の者たちは、家柄はいろいろあるものの公家の者たちですからな。わがままな者も多く、いつも不平不満を漏らしておるでしょうが」
「それが、ただの不満ではないのですよ」
「どういうことでしょうか」
「最近、人手不足が深刻なようですね。どの部署でも人が足りていないと少輔たちが騒いでおります。何とかなりませぬか」
「人手不足なのは慢性的なものです。今に始まったことではありませぬ」
「…………糠に釘だな」
榛紀はぽつりと呟いた。
右大臣が官吏たちに厳しいことは朝廷でも有名である。
取り付く島もない状況に榛紀は肩を落とした。
「何かおっしゃいましたかな?」
「いえ、何も……」
威圧的な叔父の態度に委縮して榛紀は二の句を継ぐことができなかった。
朝廷は慢性的な人手不足に悩まされていた。
公家出身の官吏の中には働かない者も多く、役に立つ者と役に立たない者にはれっきとした差がある。
使える人材を配属してもらえるか、そうでないかは管理職にとってはあみだくじのようなものだ。
人材の選択権はない。
使えない者ばかりを抱えることになった部署は、頭数がいても職務が一向に進まないという悪夢に悩まされていた。
「まあ——西園寺李桜や今出川楓のような器量の者はなかなかおりませぬ。だからこそあの者たちを最も過酷な中務省に置いておるのですからな」
不気味に口の端を上げる時華に、榛紀は身震いした。
優秀なふたりであるからこそこなせるような仕事量を振られているに違いない。
同情する以外に成す術がないことがもどかしかった。
左大臣であった近衛柿人がいなくなった今、左大臣の座は空白のままである。
よって右大臣である時華を止めることができるのは帝である自分しかいないが、実の叔父へ苦言を呈することなどできるはずはなかった。
「月華が朝廷にいないことが本当に残念でなりませぬ」
「何ですと?」
「叔父上だってそう思っているのではありませぬか? 将来、官吏となって朝廷に戻って来てくれる可能性は残されているものの、今は鎌倉の武士の身。月華が優秀であることは漏れ聞こえております。あの西園寺李桜が認めた相手なのですから、官吏であればさぞ心強いでしょう」
「榛紀様、残念ですがあれは当分、鎌倉を離れることはないでしょう」
冷たく突き放したような言い方だったが、時華自身が誰よりもそれを望んでいることは榛紀にも伝わってきた。
誰もが望んでいながら、それは現実にはなり得ないのである。
その後、時華は朝廷内で起こっている近況を榛紀に報告したが、そのどれも彼にとっては把握している情報に過ぎなかった。
すべての報告に対し、「知っている、聞いている」と答えた榛紀を恨めしく見つめ、
——もう弾正尹の職はお辞めになった方がよろしいのでは?
と、時華は最後に言い置いて去っていった。
弾正尹とは二官八省から独立した弾正台の長官のことである。
官吏の不正を監視し治安維持を目的としている。
榛紀は日ごろから弾正尹として朝廷の官吏たちを監察しているため、時華以上にあらゆる情報に精通していた。
彼が弾正尹を務めているのは、国を支える官吏たちの力になるためであり決して弾圧するためではない。
弾正尹を続けるためには自分が帝であるという正体を隠さなければならなかった。
そのため朝議には帝として出席することはなく、謁見する際も御簾を降ろし、替え玉を座らせてやり過ごしてきたのだった。
時華はかねてから帝としての役割を全うするために弾正尹の職を降り、するべきことをしろと言い続けていたが、榛紀はどうしてもそれには賛同できなかった。
それは自分よりも聡明で博識な兄の方が玉座にふさわしいと思っているからだった。
「……叔父上の言うこともわかりますが、玉座にはもっとふさわしい方がいるのですよ」
榛紀は去っていった時華の背中に向かって小さく吐き出したが、それが時華に聞こえていることはなかった。
何とかして兄を取り戻し、玉座に据える方法はないものか。
そのためにはやはりなぜ追放されたのかを調べなければならない。
時華の苦言にどっと疲れを感じた榛紀は、閉じてしまった橄欖園遊録を再び開くこともなく文机にそのまま伏した。