第75話 朔月の夜に集う
朔月の夜。
日が落ち、星が瞬き始める頃、店の軒下には提灯が下がった。
夜の出店営業を始める店が民衆であふれ返り活気づく様子を、久我紫苑はみつ屋の前で榊木とともに感慨深げに眺めた。
春の毒殺事件が起こってからというもの、事件が解決したにも関わらず街の中に暗い雰囲気が尾を引いていることを気に病んでいた榊木は京に暮らす人々が以前の活気を取り戻してくれることを願っていた。
商売の実益は後からついてくるもの。
まずは人々が気兼ねなく出歩ける環境を用意すること。
それを商人としての使命だと思って取り組んできたのが榊木であった。
一方、紫苑も榊木と似たようなことを考えていた。
連続して起こった毒殺事件に怯えた民は、犯人が捕まり平静を取り戻したかのように見えていたが、実際は以前と同じように暮らしているわけではないことを知っていた。
夜は外出しなくなり、どの店も早く店じまいをするようになったことで、夜の京は以前にも増して静寂に包まれていることを気に病んでいた。
新装開店したみつ屋が、夜になると酒を出すようになったことで多少の賑わいを取り戻していたことが唯一の救いだった。
もっと早く事件を解決できていればこんなことにはならなかったのではないか。
柄にもなく、そう自分を責めたこともあった。
だが、榊木の声掛けによって実現した星祭りに集まる民の表情を見ていると、その後悔が少し薄まるような気がした。
「紫苑様、楓様も来られるでしょうな?」
「もちろんだ。楓殿だけじゃない。俺の友人たちはみんな来るよ」
特に打ち合わせたわけでもなかったが目印になる場所はここしかない、そう思った紫苑はみつ屋の前で全員が揃うのを待っていた。
鷹司杏弥は苛立ちながら遠巻きにみつ屋を見ていた。
夜に星祭りの会場で会う約束をした山吹はどこへ行ったのやら見当たらない。
辺りをぐるっと見渡すが、人混みに紛れられれば見つけることはできないだろう。
輪廻の華を捕らえるためには山吹の協力が不可欠である。
彼が月華の相手をしてくれなければ、輪廻の華に接触することは難しい。
待っても現れない山吹に杏弥の苛立ちは頂点に達していた。
朝、出仕すると朝廷の官吏たちはなぜか星祭りの話題で持ちきりだった。
それもこれも、実は官吏の中でみつ屋はかなり人気のある店で、みつ屋を中心に近隣の店で出店が出るとあって、期待に胸を膨らませる官吏が多いせいであった。
月華は輪廻の華を連れて来るだろうか。
みつ屋の前には兵部少輔——久我紫苑がいる。
傍らにいるのは先日、今出川楓たちに声をかけてきた商人のようである。
ほどなくしてその楓と中務少輔——西園寺李桜が妻を伴って合流した。
そしてすぐに九条悠蘭とその妻である鎌倉の薬師が到着する。
だが月華と輪廻の華はまだ到着していないようだった。
まさかこれだけ面子が揃っていて月華だけが来ないなんてことはないだろうな……?
などと苛立ちを醸し出しながら、杏弥は組んだ腕の上で落ち着きなく指を何度もばたばたと動かす。
こんなにも見知った者たちが集まる中で輪廻の華を捕らえるなど、可能なのだろうか。
こんなことなら山吹の首に縄を付けてでも邸にとどめておくべきだった。
そんな後悔がよぎった時、背中に気配を感じて杏弥は振り返った。
「お、お前、どこに行っていたのだ!? 探したではないかっ」
思わず声が出た杏弥は唐突に現れた山吹に怒りをぶつけた。
山吹はどこ吹く風といった感じで相手にしていなかった。
「俺はあんたの家臣じゃないんでね。どこへ行こうと俺の自由だ。ちゃんと約束したとおり祭りには顔を出したんだから文句は受け付けない」
「ぬぅぅぅ!」
変な唸り声が零れるほど、山吹に怒りを覚えている杏弥だったが、彼の代わりを見つけることはできない。
ここは我慢するしかなかった。
「ところで、肝心の九条月華と輪廻の華は来ているのか」
「……いや、まだだ」
「本当に来るんだろうな?」
「何度も言わせるな、来る保証はどこにもない。だが今朝、朝廷はこの星祭りの話題で持ちきりだった。あのみつ屋の前にいる面々を見てみろ。あれは——」
杏弥がみつ屋に集まる者たちを解説しようとすると、山吹は当然のことのように答えた。
「あれは西園寺李桜とその妻になった椿、月華の弟の悠蘭と鎌倉の薬師だった菊夏、それに今出川家の嫡子と久我家の嫡子である久我紫苑だな。おまけにおしゃべりな商人の榊木まで揃っているとは……ある意味、みつ屋の常連じゃないか。雁首揃えて何か始めようとしているのじゃないだろうな?」
「…………」
冗舌に語る山吹に面食らった杏弥は開いた口が塞がらなかった。
「どうした、杏弥殿? 俺の顔に何かついているか? 昼間、みつ屋で草餅をたらふく食べたからな。口に白い粉がついているかもしれない」
山吹はわざとらしく着物の袖で口を拭って見せた。
当然、杏弥が硬直していたのは山吹の口に粉がついていたからではない。
「お前、ずいぶんと朝廷の官吏に詳しいのだな。ますます怪しい」
「そうか? こんなの常識だろう?」
「そんなわけあるかっ。公家とは関係ないというお前がなぜ公家の事情に詳しいのだ? おかしいではないか」
「隠しとおせる情報ってのは意外と少ないものだ。少し調べればわかる。ついでに言えば西園寺李桜の妻は先の左大臣だった近衛柿人の3番目の娘で三の姫と呼ばれていた。それに九条悠蘭の妻になった鎌倉の薬師は六波羅探題である北条鬼灯の姪だ」
「あー、もうやめろ。これ以上聞かされると本当にお前とは手が組めなくなる……」
やたらと公家に詳しい武士。
その得体の知れない存在が杏弥の頭を悩ませた。
「もしかしたらその辺に月華がいるのかもしれないな、俺が少し様子を見てくるとしよう」
山吹は音もなく消えていった。
神出鬼没な男にうんざりしながらも、それでもその力に頼らざるを得ない不甲斐なさを杏弥は呪った。
月華は華蘭庵から出てきた百合に手を差し伸べた。
少し前に邸へ招いた商人が持参した着物のうち、夏に着られる素材のものを急ぎで仕立てさせたのが功を奏し、百合はいつも以上に浮かれた様子でそれを着て現れた。
淡い空色の着物は見る者の目にも涼しさを分け与えるかのようだった。
「百合、似合っているな」
はにかんだ百合が月華の手を取ると、ふたりは指を絡ませて手を繋ぎ邸を出た。
体調は良好だという百合の手を引いて月華は星祭りの会場まで歩くことにした。
こうして京を彼女と並んで歩くのは初めてのことかもしれない。
百合の身を案じて邸から連れ出すことを躊躇っていたが、実際に歩いてみると想像していたような危機が訪れるようには思えなくなっていた。
「月華様、本当によろしいのですか」
百合の見上げる瞳に月華は首を傾げた。
「何がだ?」
「あんなに私が星祭りに行くことを反対されていたのに、急にどういう風の吹き回しかと……」
「……ある人に、言われたんだ。俺もある程度、折れなければならないと」
「ある人?」
「ああ。きっと祭りに来ると思うから、後で紹介するよ」
「月華様を諭す方がいらっしゃるなんて。お会いするのが楽しみです」
「……正直なところ、百合に危険が及ぶようなことを俺は今でも許容できない。だが、それ以上に俺は百合が喜ぶ顔が見たいんだ、たぶん。だから百合が望むなら俺はそれを止めることはできない」
「月華様……」
百合の存在は月華にとってすべてである。
彼女がいたからこそ、何度死にかけても生き延びることができたとも言える。
彼女がいたからこそ、深い愛を知ることができたし、愛娘を授かることができた。
百合が喜ぶことが自分の喜びであり、望むことは何でも叶えたいと思う。
百合の寿命が縮まっていることによる体調不良が続くたびに、彼女にもしものことがあってはという不安にさらされ、大事なことを見失いかけていたような気がする。
月華は百合の手を強く握り直した。
この温もりを誰でもなく、自分が守るのだと強く思った。
「月華様、私、とても幸せです」
「どうしたんだ、急に?」
「以前、月華様の着物を仕立てるために反物を一緒に買いに行った日のことを覚えておいでですか」
「もちろんだ。俺はあの時、あの反物屋の店主に憧れたんだ。妻子を大事に平穏に暮らす様子を見て、俺もああなりたいと思った」
「私もです。月華様のお傍にいることができて、花織を授かることができて、これ以上に望むものは何もありません。ですから、星祭りのこともあなたがお許しにならなかったら本当に行かないつもりでした。それでよいのです。私はあなたが望まないことを強行してまでするつもりはありません。あなたは私のすべてなのですから」
月華は思わぬ百合の告白に不覚にも赤面してしまった。
照れ隠しに顔を見られないよう、百合を強く抱きしめる。
するとその様子を見かけた人物がふたりの前に現れた。
「公衆の面前でそのように熱く抱擁を交わすとは、よほど仲の良さを周りに見せつけたいらしい」
そこへ現れたのは、月華を諭したという稀有な人物だった。