第69話 輪廻の華と常闇の術
輪廻の華——月華が妻に迎えた女がかつて戦場でそう呼ばれていたと鬼灯から聞いたことがある。
黄泉の国のような不思議な世界と繋がり、死にゆく者に安らぎを与える異能を使うという。
話を聞いた時は大して興味もなく聞き流していたが、頭の片隅には残っていた。
月華は棗芽にとって可愛い弟のような存在である。
紅蓮寺から鬼灯が鎌倉へ連れて来た時のことは今でも鮮明に覚えている。
荒々しさの欠片もない上品な立ち居振る舞いをする者だったが、自分の主張はしっかりとするところが棗芽には生意気に映ったものだ。
思えばそれは白檀に少し似ているかもしれない。
ろくに剣術を体得していないうちから、鬼灯は月華を戦場に連れていった。
雪柊のもとで武術の修業をしていたと言うが、棗芽から言わせればそれはかじった程度に過ぎなかった。
月華を戦場に連れて行くことは足手まといになると何度も鬼灯に進言したが、彼は「命がけで守れ」の一点張りで聞き入れようとはしなかった。
おかげで何度、戦場で死にかけた月華を助けたことか。
鬼灯にそこまで大事にされる月華に嫉妬したこともあった。
だがいくら死にかけてもめげることなくついてくる月華をいつの間にか愛しく思うようになっていった。
北条家の末っ子である棗芽には弟はいない。
だから気がついた時には、月華が弟のように可愛い存在になり、棗芽は自らの持てる剣術のすべてを伝授したのだった。
そんな月華が妻を迎えたと聞いた時には心から喜んだものだが、その後に妻となる相手のことを聞いて不満に思ったことを覚えている。
月華ほどの裁量があればもっと普通の女子を妻にできるものを、何を好きこのんで不幸を背負ったような相手を迎えるのだろう、と。
だが人の巡り合わせとは不思議なもので、出逢ってしまったら最後。
相手の不運や不幸を知っていても、自分とはうまくいかないかもしれないとわかっていてもその相手からは離れられなくなってしまう。
今の自分も紅葉に囚われているように。
棗芽は輪廻の華を妻に迎えた月華の胸中を今なら何となく理解できる気がした。
「棗芽、輪廻の華については知っていますか」
白檀の問いに棗芽は首を振った。
「それほど詳しくは知りません。兄から話を聞いた程度です」
「そうですか——百合が輪廻の華と呼ばれることになったのは常闇の術を使える異能を樹光という僧侶から受け継いでしまったからなのです」
「常闇の術?」
棗芽が困惑していると白檀は懐にしまってあった書を取り出し、棗芽に差し出した。
受け取った書は少し湿っているものの、奇跡的に墨は滲んでおらず読むには問題ない状態が保たれている。
表紙には『常闇日記』と書かれていた。
「これは何ですか?」
「それは朝廷にある書庫から持ち出したもので、持ち出し禁止の上に閲覧制限のある書です」
「そんなものがどうしてここに?」
「その『常闇日記』は私の母が書いた物でしてね。幼い頃、それを悪戯心で書庫から持ち出し、写本して書庫のものとすり替えました。すり替えたことはおそらく誰も気づいていないでしょう」
白檀は笑いをかみ殺していた。
「私の母はね、私が京を追い出されることになったきっかけの事件の折、倒れた父を助けて亡くなったのです。だから謀らずもその書が私にとって母の形見になってしまったのですよ」
「どういうこと、ですか」
「その書を開いてみてください。その中にすべての秘密が書かれています」
白檀に言われるがまま、棗芽は頁をめくった。
ぱらぱらとめくっていると適当に止めた頁に目が留まった。
『常闇の術は大きく5つに分かれる。
常世渡たり
常世戻し
業縛り
業解き
解
この5つは異能を受け継いだ術者が自由に使うことができる』
「これは……?」
頁を白檀に見せながら棗芽は眉根を寄せた。
突拍子もない話に頭がついていかない。
「異能を受け継いだ者は、もともと5つある常闇の術を使うことができたようです。その先をめくるとそれぞれの術の詳細が書かれていますが、私の母が父に使ったのは常世戻しの術だと思うのですよ。毒入りの茶を呑んで危篤になった父と入れ替わるように母が急死したと聞いた時に、母は命を賭けて常闇の術を使ったのだと思いました。そうでなければ説明がつかない」
頁をめくると白檀の言うとおり、常世戻しについて書かれてある。
『常世戻しとは常世へ渡りかけた魂を引き戻す術である。
川を渡り切っていなければ、常世戻しの術で現世へ導くことができる』
つまり白檀は死にかけた先帝を助けるために、彼の母が常世戻しの術を使ったと言いたいのだろう。
「ではあなたの母上は——」
「ええ。私の母は常闇の術を使う異能を持っていました。でも私は実際に母がその異能を使っているところを見たことがありませんでしたがね。父が母に異能を使わせなかったようなので」
「使わせなかった? それは帝の妻としてふさわしくないと思われたからですか」
「いいえ。そこに書かれてあるでしょう? おそらく業縛りの術のせいです。この異能には業縛りの術というのが本人の意思とは関係なくかけられているようです。術を使えば使うほど命が削られるらしいので、父は母を守るために術を使わせなかったのだと思います。そうして、人知れず奥に隠し続けた」
『業縛りとは常闇の術を使う術者にかけられた術である。
人ならざる術を使えば使うほど術者の魂は自らの制御を失うことになる。
術を使うごとに命が削られ、また術に縛られて自ら命を絶つことを許されず、
また自らの輪廻に干渉できない』
棗芽は少し事情が見えてきたような気がしていた。
白檀の存在があまり公にされていなかったのは、その母の存在そのものが先帝によって隠されていたからではないだろうか。
だが異能を持っていることを知っていてそれを利用するのではなく、使わせなかったのはなぜだろうか。
いくら命を守るためとはいえ、利用すれば有用なものに思えるが……。
先をめくると他の術についても書かれていた。
『業解きとは身命を賭した者をすべての業から解き放つ術である。
身命を賭した者が来世でも望んだ世界へ生まれ変わることは容易ではない。
人ならざる術で輪廻を改変する。
それが業解きの術だ』
「これがもしかして……」
頁を白檀に見せると、彼は力強く頷いた。
「それは百合が戦場で使っていたという業解きの術ですね。術を使って戦場で死んでいく兵たちを看取っていたと聞ききます。そのせいで彼女は輪廻の華と呼ばれるようになった。どのくらい術を使ってきたのかはわかりませんが、もしかしたらすでに相当命を削ってきたかもしれません」
そこで棗芽はふと疑問が沸いた。
白檀の母が異能を持っていたとしても、この書の最初には異能は血で受け継がれることがなく人から人へ受け継がれていくもの、と書かれてある。
輪廻の華は樹光という僧侶から異能を受け継いだと白檀は言ったのだ。
棗芽は彼の母と月華の妻との接点がわからなかった。
「ちょっと待ってください、白檀殿。先刻、月華の妻は樹光という僧侶から異能を受け継いだと言ったではありませんか。あなたの母上とは繋がらないように思えますが」
「ああ、言っていませんでしたね。樹光というのは母と親交のあった僧侶でした。雪柊に聞いたことがありませんか? 樹光は晩年、紅蓮寺を開いて住職をしていて雪柊は彼の導きで仏門に入ったのですよ。晩年、と言ってもおそらく樹光もまた異能を使い過ぎて若いうちに亡くなったのだと思いますが」
「でもそれならどうしてその樹光和尚が輪廻の華と接触できたと?」
「さあ、そこまでは私も……雪柊なら知っているのではないですか」
雪柊は訊いたことにはおよそ答えてくれるが、自ら語ることはない。
百合を紅蓮寺に引き取ったことは聞いていたがそれは異能を受け継いだことを知っていたからなのかもしれない。
殺されたという妻子の面影を求めて引き取ったのだと思い込んでいたが、すべてを知っているのは雪柊なのではないだろうか。
「それにしても——この常世の国というのは何なのですか」
「何なのでしょうね。我々の常識では測れない世界なのではないですか」
「…………」
棗芽は肝心なところは意外と投げやりなのだな、と内心思ったがあえて口にはしなかった。
呪術使いである御形なる人物が輪廻の華を執拗に追っているというのは、この異能そのものに関係しているのはないだろうか、と棗芽は漠然と思った。
だがこの異能については、今手元にある『常闇日記』以外から情報を得ることは難しそうである。
棗芽は小さく息を吐いた。
白檀を助けたのはほんの気まぐれだった。
彼の無事を祈っていた紅葉の顔がふと浮かんでしまったのだ。
接してみて実に面白い人物だと思ったのも嘘ではない。
もしこんなに厄介な事情を抱えていると知っていたら助けただろうか。
何だかとんでもなく面倒なことに首を突っ込んでしまったような気がして、棗芽は急にげんなりしたのだった。