第67話 馬が合うのか合わないのか
牢獄のような部屋を出た白檀は北条棗芽に従って妹尾家の外へ出た。
時折、邸内の見知った者に見つかりそうになりながら、それでも難なく抜け出せたのは神がかった棗芽の野生的な勘によるところが大きかった。
よほど耳がいいのか物音がする前から誰か来る、と予言者のように棗芽が呟くたびに隠れてやり過ごした。
そうやって何度も危機を乗り切って無事に邸を脱出したのである。
白檀は窓のない牢獄のような部屋に閉じ込められていて、しばらく昼夜もわからない生活をしていたために外が嵐になっていることにも気がついていなかった。
打ち付ける雨から逃れるように、邸から少し離れた高台の山の中でふたりは一旦歩みを止めた。
生い茂る木々の葉が天然の傘となり、雨露をしのぐことができる。
高台からは迷路のように複雑に建てられた妹尾家の全貌が一望できた。
邸を見下ろすと、まだ夜中だというのにあちこちで明かりが灯り始めている。
騒然としているのは離れていてもよくわかった。
「……おかしいですね。こんなに早く見つかるはずはないのに」
隣に立って同じように邸の様子を眺めている棗芽は首を傾げていた。
「見つかるって何がですか」
「あなたのところに行くまでに排除した者たちの死体です」
「…………」
「あの部屋にたどり着くまでに出くわした者たちが何人かいたのですが、騒がれては面倒だと思ったので始末して隠して歩いたのですよ。すぐには見つからないように隠したつもりなのに、こんなに早く騒ぎになるとは残念ですね。これでは誰か私たちを追ってくる者が現れるかもしれません」
棗芽は戦となれば何人も殺めることがある武士である。
彼は人の命を奪うことに抵抗がないのかもしれない。
邪魔だったという理由だけで排除したと、棗芽は淡々と語った。
表情ひとつ変えずに言う彼に白檀はため息をついた。
「どうしました? ため息なんてついて」
「……先が思いやられると思っただけです」
「何の冗談ですか? 約束したとおり、あなたを邸から出してあげたではありませんか。この先も私があなたのそばにいる限り、必ず目的地まで送るつもりですが」
目的地である京に行くまでにあとどのくらいの血が流れるのだろうか。
妹尾家には世話になった恩義がある。
できれば穏便に邸を出たかったが、こうなっては敵対することもやむなしだろう。
「ありがとうございます。頼もしいですね、棗芽は。ですができれば血が流れない方法でお願いします」
「変なことを言う人ですね。あなただってかつては附子を横流しして人殺しの手助けをしていたのに今さら命を重んじるのですか」
棗芽の言葉は白檀にぐさりと刺さった。
皐英の危機を知り、いても立ってもいられず備中国を飛び出した途中で大切な友の死を知った時、すべてがどうでもよくなってしまったことを思い出す。
京を追われ、拾われてやって来た備中国は決して居心地がいいところではなかった。
必要になった時のために生かされていることもわかっていたし、余計なことをすれば周りに害が及ぶことを理解していた。
だからこそ都合のいい傀儡を演じてきたのである。
生きている意味がないような生活も、皐英や山吹、紅葉がいたからこそ続けることができた。
その大切な皐英を失ったことはまるで自分の人生の幕を他人の手によって降ろされたようなものだった。
半分、自暴自棄になっていたのかもしれない。
だから京へ向かう途中で出遭った、同じように打ちひしがれていた安芸国の武士に同調してしまった。
雪柊に叱られたように、少しやりすぎだったと今では反省している。
「……返す言葉もありませんね」
「まあいいでしょう。あなたがどう思っていようと私には関係のないことです。私はあなたを死なせるわけにはいきませんから、これからも立ちはだかるものがあれば排除するだけです」
「棗芽。なぜそうまでして私を助けてくれるのですか」
「あなたに何かあれば彼女が悲しむから」
その名は口には出さなかったが、「彼女」とは紅葉のことを指しているのだと白檀にはわかった。
紅葉とはどういう関係なのか、すっかり聞きそびれてしまったが京までの道中はまだまだある。
白檀は折を見て聞いてみるつもりでいたため、今は深く追求しなかった。
「さて、これからどうしましょうか、白檀殿。このまま嵐の中を走ってもよいが、あなたは見るからに体力がなさそうですね……この近くに雨宿りできる場所がないか探してきますから、あなたはそこを動かないように」
そう言って棗芽は風のごとく速さで山の奥へ走り去った。
北条棗芽——何とも不思議な男である。
ただ顔を拝みに来ただけだと言いながら、宣言どおり邸から連れ出してくれ、おまけに京まで送ってくれると言う。
紅葉が悲しむからと命まで守ってくれると言うのだ。
北条家の人間でありながら幕臣ではないと言うが、本当は何者なのだろうと白檀は思った。
雪柊の1番弟子だと言うからには、背中の太刀がなくても相当に強いのだろう。
彼の助けがあれば何とか京に辿り着けるに違いない。
これまで旅に出る時はいつも傍らに山吹がいたが、今はいない。
だが先に旅立った山吹よりも先に輪廻の華に接触しなければならない。
見下ろす妹尾家の邸はどんどん明かりの数が増し、騒がしくなっているように見える。
これ以上不幸になる者を増やさないためにも、輪廻の華に解の術を使わせてあの忌々しい異能をこの世から消さなければならない。
そうしなければ、いつまでも恐ろしい追手から逃れることができないのである。
山奥で空き家となっている小さな民家を発見し、戻ってきた棗芽は白檀を連れて雨宿りすることにした。
ぽつんと1軒だけ立っている民家で、中に入ると人が住んでいたと思しき道具や古い薪などが残されていたがどれも埃をかぶっており、長年使われていないようだった。
ふたりはとりあえず中に入った。
ところどころ雨漏りはしているが、雨をしのぐという意味では外よりもずっとましだった。
残された道具の中から火打ち石と古い薪を取り出すと棗芽は慣れた手つきで火を熾し始めた。
「火は点きそうですか」
「どうでしょう。たとえ古くても濡れていなければ点くと思いますが」
そう言っているうちに火が点き、民家の中は明るくなった。
ふたりは火を囲むように向かい合って腰を下ろす。
「この家の持ち主はどこへ行ってしまったのでしょうね」
白檀は室内をぐるりと見回しながら言った。
「どこかへ行ったというより、死んでしまったのではないですか」
「え……?」
「別に珍しいことではありませんよ。狼や熊に襲われたのかもしれませんし、夜盗に襲われた可能性もあるでしょう」
棗芽の言葉に白檀は絶句してしまった。
もし備中国に拾われることなく、京を放り出されていたら一体どうなってしまっていたのだろう。
彼が言うように野生動物に捕食されたり、夜盗に襲われたりしていた可能性も十分にあるのだ。
居心地がよくなかったとはいえ、それでも守られていたことを改めて痛感する。
「さて、では白檀殿。話の続きでもしましょうか」
暗い室内に揺らめく炎が照らす棗芽の顔は爛々とした好奇な表情に満ちていた。
棗芽の問いに嘘偽りなく答える約束である。
白檀に逃げ道は残されていなかった。
一方、妹尾家の邸は騒然としていた。
最初に声を上げたのは夜の見回りをしていた妹尾家家臣のひとりだった。
廊下に布の端切れのようなものが落ちていることに気がついた彼がその布を拾おうとしたところ、それは端切れではなくすぐ横の部屋で倒れている者の着物の裾であった。
慌てて襖を開けるとそこには首をへし折られ絶命した家臣のひとりが横たわっていた。
至急、ことの顛末を当主である菱盛に報告したのだった。
菱盛は嫌な予感がして、風雅の君を閉じ込めている部屋へ向かった。
襖を開けると鉄格子の錠はかかったままなのに中はもぬけの殻と化していた。
「……っ! なぜおらぬのだっ」
菱盛が鉄格子を掴んで叫んだところへ嫡子の敦盛が現れた。
「父上、これは一体何の騒ぎ——ふ、風雅の君はどこへ行ったのですか!?」
「知らぬっ! それは私が訊きたい」
「……ま、また用が済めば戻ってくるのではありませぬか? これまでも長旅に出ても必ず戻ってきたではありませぬか」
「これまでは山吹という監視役がいたからこそ戻ってきたのだ。今回は誰もそばについておらぬ。戻ってくる保証はどこにもない」
「……た、確かに。一体どうやってここから出たのでしょうか」
父の剣幕におどおどする敦盛を尻目に、菱盛は苛立ちを隠さず、握った鉄格子を大きく揺らした。
するとその時、菱盛が掴んだ鉄棒がぐらりと揺れた。
その反動で切り取られた格子が外れる。
ひと一人通れるほどの穴が開き、親子は呆然と互いの顔を見合わせた。
「な、何だこれは!? これを風雅の君がやったとでも言うのか」
「そんなはずはありませぬ、父上。これは侵入者の仕業ではありませぬか。邸内で次々と家臣の遺体が発見されているようです。それと関係があるのでは?」
「侵入者だと!? 一体誰が——」
その晩、妹尾家では数々の遺体が発見された。
風雅の君を連れ出したと思われる侵入者の目撃情報はなく、邸内は朝まで菱盛の怒号がとどろき続けたのだった。