第64話 正体を隠して
「常闇日記の続きだ。風雅の君が持っているかもしれぬ」
「なぜそうと言い切れる?」
「……勘だ、ただの」
榛紀はあからさまに視線を逸らした。
「勘? ずいぶん適当だな」
月華は榛紀を訝しげに見たがそれ以上は追及しなかった。
適当に言っていると思われても仕方ない。
本当は、風雅の君が持っているかもしれないと思う明確な理由がある。
だが真実を打ち明けるわけにはいかない。
真実を打ち明ければ、自分の立場を知られることになる。
そうなれば今のように気さくに話すことができなくなり、月華も悠蘭も離れていくような気がするからだった。
3人はしばらく黙って酒を呑み続けた。
榛紀は黙々と酒を呑む月華、遠慮しながら口に含む程度の悠蘭、対照的な兄弟を見ていてなぜこんなことになったのだろうと思い始めていた。
険悪な雰囲気にしたかったわけではなかった。
ただ月華の力になりたかった。
酒を呑んで気が緩めば心の中を見せてくれると勝手に思い込んでいたのだ。
友になり、少しは信用してくれていると思っていたが、実際にはまだ月華の信用を得るには至っていないということだろうか。
確かに疑われても反論はできない。
本当の名や身分を含めた真の姿をさらしていないのだから。
ふと榛紀が庭に目をやると変わらず雨が降り続けていた。
昨夜、ずいぶんと雨に打たれたことを思い出す。
榛紀は雨の庭を見ていて、みつ屋で起こったことを朧げに思い出してきた。
風雅の君の話をしていたところで、鷹司杏弥が逃げ出したため、咄嗟にそれを追いかけたせいで土砂降りの中で彷徨ったのだ。
後を追ったのは何か知っているのではないかと直感的に思ったからである。
杏弥が最近、何度も書庫に出入りしていることは知っていた。
何を調べていたのかまでは掴めなかったが、野心家の鷹司家のことだ。
空席となっている左大臣の座か、九条家当主が左大臣になった後の右大臣の座を狙っているに決まっている。
そのためには強力な推薦を必要としているはずだ。
消去法でいけば、鷹司家が目を付けるとしたら風雅の君だろう。
みつ屋にいたのは偶然かもしれないが思いもよらず、接触を試みる風雅の君が話題に出たことで話に聞き入っていたのではないか。
そうだとすれば、杏弥は風雅の君と接触する方法を知っているかもしれない。
庭から視線を戻し、月華に向き直ると榛紀は言った。
「月華、やはりそなたは明日の星祭りに行くべきだ」
「だからそれは——」
「いいから私の話を聞かぬか。星祭りには私も行く。悠蘭、そなたも奥方を連れて来るのだ。できれば何とかして李桜も連れて来てほしい」
「……一体何を考えているんだ?」
「餌を蒔いて標的を捕獲するには罠にかけやすくするための偽装が必要だ」
「ど、どういうことでしょうか」
悠蘭の問いに榛紀は意気揚々と説明を始めた。
「明日の朝、我々は出仕した後、星祭りの噂を大々的に広める。そして何としても鷹司杏弥を星祭りの場に引きずり出す」
「鷹司……杏弥? なぜあいつがここで出てくるんだ」
「昨夜、月華が店を出た後に偶然店にいた杏弥が我々の話を耳にしていたらしくてな。存在が知れるとすぐに店から逃げ出したゆえ、追いかけたのだが途中で見失った」
「それで雨の中、父上に拾われたのか」
「拾われたとは……まあ、そのとおりだな」
月華の物言いに榛紀は苦笑するしかなかった。
あの時、杏弥を捕まえられていれば状況はもっと変わっていたかもしれないと思うと何とも悔やまれる。
「でも何で追いかけたんですか? 杏弥のやつが何か知っているとでも?」
「いや、確証はなかった。だがやましいことがないのであれば、逃げる必要はなかろう。きっと杏弥は我々が知らない何かを知っているのだ」
「何か知っているというのなら、本人を締め上げた方が早いんじゃないか?」
澄ました顔で言う月華に呆れた悠蘭は諭すように言った。
「兄上、締め上げるって一体どこでそんなことをするつもりですか。御所の中で問題を起こせば官吏同士の争いと見られて、余計に面倒なことになるのですよ?」
「それなら、外で行えばいい」
「外ってどこですか!? 大路でそんなことをして杏弥に騒がれればそれこそ一大事ではありませんかっ。それに兄上は杏弥に顔が割れていますよね? 痛めつけるようなことをすれば鷹司家に責められるのは兄上だけではなく、この九条家そのものなのですよ。よく考えてください」
取って食うほどの剣幕で言い放った悠蘭に、月華は唖然としていた。
酒のせいなのか、遠慮がない関係性なのか榛紀にはわからなかったが、ふたりのやり取りが滑稽に見えて彼は腹を抱えて笑った。
「榛、何がおかしい?」
弟に諭されたことがよほど恥ずかしかったらしく、月華は顔を赤らめながら手酌でひたすら酒を呑む。
「これは弟に1本取られたな、月華。だが悠蘭の言うとおりだ。相手は摂家の嫡子。簡単に締め上げることはできぬ。それに鷹司家はどの家とも友好関係にない。だから誰かを使って探ることもできぬ。杏弥が自発的に行動を起こすよう仕向けるのが手っ取り早い」
「それで星祭りに来させるということですか? ですが、祭りに来たところで何か行動を起こすとは思えませんが……」
「だから百合殿に来てもらいたいのだ。昨夜、李桜は輪廻の華の話から始めた。先の左大臣が前の陰陽頭と輪廻の華を狙っていたという話をしていた時にはすでに近くにいたと思う。その後、白檀という茶人も輪廻の華の居場所を探していたという話の流れになった時に逃げだしたのだ。輪廻の華と風雅の君に関して反応しているとしか思えぬ」
「それは、百合をおとりにして杏弥をおびき出すという意味か」
急に表情を一変した月華は榛紀の肩を強く掴んだ。
「そうは言っておらぬ」
「そうとしか聞こえなかったが?」
雨の中を帰宅した九条家当主——九条時華は牛車を降り、松島の差す傘で雨を逃れながら邸へ入る。
出迎えた松島の異変に気がついた時華は言った。
「何かあったのか」
預かっている帝と時華のふたりの息子を邸の中で引き合わせることになってしまったことに不安を感じていた松島は、それが顔に出ていることにも気がつかないほど余裕を失くしていた。
「……わかりますか」
「何年お前とともにおると思っているのだ。眉の動きひとつでさえわかるというに」
「……恐れ入ります。実は榛紀様がお目覚めになられまして——」
「そうか! お元気か」
「はい、それは問題なさそうなのですが——」
「何だ、はっきり申せ、松島」
「それが今、東対で榛紀様と月華様、悠蘭様が酒盛りをなさっておりまして——」
松島は至極申し訳なさそうに、最後の方は消え入るように主人に伝えた。
寝殿に向かう回廊の途中で、時華は足を止める。
「……酒盛りだと?」
「そもそも最初に榛紀様とお話されていたのは百合様なのですが、帰宅された月華様がそこへ加わり、さらに仮眠をされていた悠蘭様が出仕しようとするところを月華様に呼び止められたのでございます。そのうち百合様が退室された後、榛紀様は酒を所望されまして」
時華は何の冗談なのかと耳を疑った。
榛紀を邸へ連れて来たのはやむを得ない事情だった。
雨に打たれ意識を失いそうになっていた彼を内裏へ運ぶことはできなかった。
大変な騒ぎになると思ったからである。
やむなく九条邸へ運んだが邸に到着した時、榛紀を見た月華は彼のことを友だと言ったことを思い出す。
亡き妻の遺言を守るために、これまで皇家と息子たちが関わらないようにしてきたはずなのに、やはり互いに呼び合う運命なのだろうか。
「月華は榛紀様の正体を知っているようだったか?」
「……時華様と榛紀様が御帳台の中でお話しされていたのを陰で聞いていらしたので、勝手ながら私がお話しいたしました。申し訳ございませぬ」
松島はその場に膝を折ると土下座した。
「悠蘭も知っているのか」
「いえっ! 悠蘭様はご存じありませぬ」
これまでひた隠しにしてきたことを知らない松島ではない。
伝えなければさらに大きな問題になると判断したのだろう。
どこでどうやって知ったかは問題ではないが知られてしまったことは大きな誤算だった。
ひれ伏す松島を立たせると、時華は再び並んで歩きながら状況確認を始めた。
「それで、酒盛りなどして何の話をしているというのだ。まさか世間話ではなかろうな。榛紀様は御所の外のことは上がってくる報告でしか知らない方だ。鎌倉と京を自由に行き来する月華や陰陽寮に籠って仕事ばかりしている悠蘭と合う話題などなさそうだが」
「星祭りとか何とかおっしゃっていましたが……」
「星祭り?」
そう松島に問いかけたところで、時華は東対へ到着した。
畳の上に腰を下ろす3人に瞠目する。
榛紀の肩を掴んで迫る月華と、それをものともしない強い意志を持った瞳の榛紀、ふたりを止めにかかろうとしている悠蘭の3人である。
辺りには徳利が転がっており、松島の言うとおり酒盛りをしていたのは間違いない。
大事な息子たち3人がまるで兄弟喧嘩でもしているかのような現場に遭遇した時華は、嬉しさのあまり一瞬顔が緩みそうになったが、それをぐっとこらえて父親らしく声を荒げた。
「何をしているのだ、お前たちは!」
3人は同時に声の主を見上げた。
予期せぬ父の登場に月華は榛紀の肩を掴んでいた手を離した。
榛紀は望まぬ当主の登場にこめかみを押さえた。
「ち、父上……!?」
悠蘭だけが狼狽えていた。
時華が現場の片づけを松島に指示すると、どこからともなく現れた女中たちがあっという間にその場をきれいに片付けていった。
「弾正尹、そろそろそなたの邸に戻ったらどうだ? まさかいつまでもここにいるつもりではなかろうな」
「……そうですね、右大臣様。すっかり世話になってしまったようです」
時華に合わせるように榛紀は立ち上がった。
「おい待て、榛。話はまだ終わっていない」
「月華。私は必要なことはすべて話した。とにかく杏弥を捕まえるのが一番早い。百合殿のことはこれまでもそなたが守ってきたのではないのか。であれば今回も守り抜けばいい。悠蘭や李桜にも祭りに来てほしいと言ったのは杏弥を油断させるためだ。何か目的があるわけではなく、みなが行くから月華も百合殿を連れて行くという状況を作る必要がある。鎌倉の天才薬師も来てくれるのなら鬼に金棒ではないか」
時華に促され廊下に出た榛紀は振り返って月華を見据えた。
「決めるのはそなただ。私はその手段を提示したにすぎぬ。だが、みなが同じ刻を共有して手助けしてくれる機会はそうそう訪れるわけではない」
去っていった榛紀はその後、1度も振り返ることはなかった。
時華と榛紀が去り、残された月華と悠蘭は狐につままれたような気分だった。
呑みかけの酒も徳利もすべて下げられ、何もなくなった畳の上に両足を投げ出すと月華は天井を仰いだ。
「兄上……今のは一体何だったのでしょうか」
「今のって?」
「弾正尹様がここにいたことですっ!」
悠蘭は先刻まで榛紀が座っていた場所を指さした。
「あぁ……幻だったかもな」
適当に答えた月華に悠蘭は目くじらを立てた。
「幻なわけがないでしょうっ。確かに先刻までここにいたのですから。そう言えば兄上は弾正尹様のことを『榛』と呼んでいましたよね?」
「あいつの名だそうだ」
「えぇぇぇ!? あの方、兄上に名乗ったのですか!? 朝廷の官吏でもあの方の名は誰も知らないのにっ」
本当の名は榛紀だけどな、と月華は心の中で呟いた。
月華はぼんやりと考えた。
百合の異能を消すために必要な情報は風雅の君が知っているかもしれない。
風雅の君に会うために鷹司杏弥を動かして、風雅の君に接触させるのが近道だ。
言っていることはわかるが、絵に描いた餅のようにそんなに簡単に行くものだろうか。
だが考えてみれば星祭りは商人たちが催す市井の民のためのものである。
そこで百合を付け狙うような輩が現れるとは考えにくいか……。
悠蘭が菊夏を連れて来てくれるなら突然、体調を崩しても対応できるかもしれない。
あとは百合が行くというかどうかだ。
「兄上、結局星祭りに義姉上をお連れするのですか」
「……百合が望むなら、俺がそれを止めることはできないだろうな」
——そなたもある程度、折れねばならぬぞ。
榛紀の言うとおりである。
自分の都合だけを百合に押しつけるわけにはいかない。
畳に大の字になって手足をだらしなく投げ出した月華は目を瞑った。
脳裏に浮かんできたのは、身を引いて東対を出て行った時の百合の悲しそうな表情だけだった。