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第62話 珍客の思惑

「それで、結局何があったと言うんだ?」

 松島の導きで邸の中に入った月華つきはなは回廊を歩きながら問いただした。

 1歩前を歩く松島の背中はひどく疲れているように見える。

「それが、榛紀しんき様と奥方様が——」

 松島がそこまで言いかけたところで東対ひがしのたいの方から笑い声が聞こえてきた。

 声の主のひとりは百合ゆりだとすぐにわかった。

「あの笑い声は百合と……まさかしんのものなのか?」

「さようでございます」

「どうしてふたりで談笑なんて……」

「それが私にもさっぱりわからないのですが、お目覚めになった榛紀様と奥方様は偶然、廊下でお会いになったようで、私が東対に到着した時にはすでに意気投合なさっておいででした」

「榛はまだこの邸にいて大丈夫なのか? 早く内裏に帰さないと大ごとになるんじゃ——」

「そちらは時華ときはな様が何とかなさるでしょう」

「…………」

 月華は想像しただけで頭が痛くなる思いがして、こめかみを押さえた。

 帝の消息がわからないとなれば大ごとである。

 まして、臣下の邸で療養しているなど他の摂家に知れればそれこそ何を言われるかわかったものではない。

 九条家だけを特別扱いしていると罵られることだろう。

 何とかして一刻も早く榛紀をいるべきところへ返さなければならないと、月華はそのことで頭がいっぱいだった。

 東対に辿り着くと室内の置き畳に向かい合って腰を下ろす榛紀と百合が実に楽しそうにしていた。

 百合の腕の中で眠る花織かおるを愛しそうに見つめる榛紀と、その様子を微笑ましく見守る百合のふたりがあまりにも絵になっていて、月華は心持ち不愉快に感じたのだった。

 松島は廊下に控えて室内に入ろうとしなかったが月華は堂々と足を踏み入れた。

「榛、もう調子はよくなったのか」

 ぶっきらぼうに言う月華の存在に気がついた榛紀は一瞬、面食らったように見上げたが月華と百合の顔を交互に見た後、にやけて答えた。

「ああ。時華様のおかげで命拾いした。月華はなぜここに?」

「……ここは俺の邸なのにいてはおかしいのか?」

「そういう意味ではない。帰るには少し早いのではないか、という意味だ」

「あなたには関係ない」

「何をそんなに不機嫌にしているのだ」

「……うるさいな。放っておいてくれないか」

 そう言うと百合の隣に腰を下ろして愛娘を取り上げた。

 花織に視線を向けることで、ふたりから視線を外したかったのだ。

 榛紀と百合がお似合いのように見えて嫉妬してしまったなどとは恥ずかしくて口が裂けても言えなかった。

「確かにいつもよりお帰りが早いですね。月華様、どこかお加減が悪いのですか」

 榛紀の前だというのに百合は恥ずかしげもなく月華の頬に手を当てた。

 覗き込んでくる百合の透き通った瞳に、吸い込まれそうになる。

 幾分元気そうに見える妻に安心したのと同時に、月華は我に返った。

 百合が他の男に心揺らぐことなどないはずなのに、何を焦っているのだろう。

 自分の小ささを恥じた月華は小さく咳払いした。

「問題ない。ふたりは何を話していたんだ?」

「月華様の話ですよ」

「俺の……?」

「そうだ。過去のそなたの武勇伝を聞いていたところだ」

「……笑うところなどあったのか?」

「そなたは父上に頭が上がらないようだと百合殿が言うから、それは容易に想像がつくと笑っていただけだ」

 一笑した榛紀に月華は唸り声を上げた。

 事実であるだけに反論できないし、知らないふりをしているとはいえ相手は帝である。

 下手に盾突くこともできないと自制するしかなかった。

「だが、そなたが元気そうで安心した」

 と、榛紀は小さく息を吐くと、眉尻を下げて言った。

「……ん?」

「昨晩はずいぶんと気落ちしていたようだったから心配した。友として何もできない自分を不甲斐なくも思ったしな」

「榛のせいでは……」

「わかっている。私の独りよがりだから許せよ、月華。少し焦り過ぎたようだ」

 照れ笑いを向ける榛紀に、月華は苦笑した。

 榛紀がどれほどの孤独を抱えて生きているのか、想像するに余りある。

 どんな形であれ、九条家と関わることが彼にとって少しでも気が休まる瞬間なのであれば、それは喜ばしいことだと月華は思った。

 本当は風雅の君について訊きたいところだが病み上がりとも言える今の榛紀を追い詰めることになっては気の毒である。

 月華はそれについては改めることにした。

 しばらく3人が話に花を咲かせていると、廊下に控えていた松島が突然、ぽつりと呟いた。

悠蘭ゆうらん様……?」

 仮眠を取りに帰っていた悠蘭が起きてきたようで、門に向かうために回廊を向かってくるところだった。

 松島が廊下に棒立ちしていることなど見たことがなかったため、悠蘭は目を見開きながら松島に近づいてきた。

「松島、そんなところで何をしているんだ?」

「あ、いえ、それが——」

 悠蘭は一切の事情を知らない。

 なぜ東対に弾正尹だんじょういんがいるのか、兄夫婦と談笑しているのか、何と説明していいか戸惑い、松島は口ごもってしまった。

 すると東対から顔をひょっこり廊下に出した月華が眉を吊り上げて言った。

「悠蘭、しっかり休めと言わなかったか? まさかこれからまた戻るつもりじゃないだろうな?」

「あ、兄上。十分休みましたからご心配には及びません。俺の代わりは他にいないので休んでばかりはいられない——」

 東対の前で足を止めた悠蘭がふと室内を見るとそこにはいるはずのない人物が鎮座していた。

 驚いて3歩後ずさると、

「だ、だ、だ、弾正尹様がどうして九条邸うちに!?」

 と、悲鳴にも似た声を上げた。

 悠蘭の声が室内に響くと、月華の腕の中で眠っていた花織が連動するかのように断末魔の叫びのような鳴き声を上げる。

 自分の声で驚かせてしまったと気がついた悠蘭は慌てて膝をつくと兄の愛娘を覗き込んだ。

 月華から花織を預かると百合は立ち上がり、揺らしてあやし始めた。

 やはり母親の方が安心するのが、徐々に大人しくなった花織はやがて再び眠りについたのだった。

「すみません、大きな声を出して。あ、あまりに驚いたものでつい……」

 悠蘭はすぐ目の前に腰を下ろしている榛紀を上目遣いに恐る恐る見た。

 その様子にくすくすと含み笑いをする百合と深くため息をつく月華のそばで榛紀だけが満面の笑みを浮かべていた。

「悠蘭、彼は訳あって父上がお連れした。今は官吏としてではなく、父上の客人としてここにいるんだ。だからそう肩に力を入れなくていい」

「兄上……そう言われましても、長年の経験による条件反射と言いますか……」

 仕事中には見ることがないもじもじとした陰陽頭おんみょうのかみの姿に、榛紀は声を上げて笑った。

「はははっ。陰陽頭も兄の前ではしおらしくなるのだな。陰陽寮を仕切っている時とはまるで別人のようだ」

「からかわないでくださいっ!」

 顔を赤らめながら反論する悠蘭を榛紀は余計に面白がった。

 月華はそのやり取りを見て、何となく父が自分たち兄弟の出自を秘密にしている理由がわかったような気がした。

 真実を知らないからこそ、榛紀に対し含むところがなく接することができるのだ。

 変に気を遣われたりへりくだったり、よそよそしくされれば榛紀の方が疎外感を感じることだろう。

 今の榛紀は悠蘭をからかいながらも心から嬉しそうにしているのがわかる。

「ところで悠蘭、お前こんな時分に仕事へ戻るのか」

「まあそうですけど、その前に華蘭庵からんあんに伺おうと思っていたところです。兄上がお戻りでなくても義姉上あねうえにお伝えしておこうと思ったことがあったので」

「まあ、悠蘭様。何かあったのですか」

「何かあったと言いますか、かえで殿から明日の夜に市中で開催される星祭りに参加しないか、と言伝を受けました」

「星祭り?」

「ええ。何でも商人たちが店を閉めた後に軒先で出店を開くとかで、息抜きになるのではないかと言っていました。軒下にたくさんの明かりを灯すようですよ」

 百合は珍しく瞳を爛々と輝かせていた。

 無理もないだろう。

 花織を産んでからというもの、体調が優れないだけでなく赤子の世話をしなければならず、ずっと邸の中に軟禁されていたようなものだ。

 体調さえよければ息抜きに連れ出したいと思ったこともあったが、今の百合にそれが可能なのかどうか……。

「面白そうですね。月華様、私は行ってみたいです」

「……いや、それは——」

 月華が明確に返事をできずにいると榛紀が横から助け舟を百合に出した。

「いいではないか、月華。百合殿にだって息抜きは必要だ。たった数刻のこと、娘の世話は家の者に任せればよかろう?」

 そう言いながら榛紀は廊下に控えている松島に視線を送った。

 松島は代弁してくれたことに感謝するように深く何度も頷いている。

「花織のことだけじゃない。百合は体調もよくないし——」

「それなら、俺も暇を作って菊夏きっかと行くつもりですから、問題ないのではありませんか? 彼女がいれば義姉上が突然、具合が悪くなっても対処できるでしょうし」

 月華の懸念を打ち消すように悠蘭は答えた。

 確かに薬師の菊夏がそばにいれば多少は安心できるのかもしれないが……。

「いや、駄目だ。いつまた百合を狙う輩が現れるかわからない。西国の様子を見に行ったあの方からの話を聞くまでは——」

「そなたが彼女を守ればよいではないか。これまでもそうしてきたのだろう? 何を怯えているのだ」

 百合から散々月華の武勇伝を聞いたばかりの榛紀は至極当然のように言った。

 だが月華はそれでも承服できなかった。

 百合は輪廻の華として狙われているだけではない。

 常闇の術を使ってきたことで刻々と寿命が縮まっているのかもしれないのだ。

 最近の体調不良は出産によるものでも、病によるものでもない。

 忌まわしき異能の成せる業に違いないのである。

 だからこそ百合の負担になるようなことはなるべくしたくなかった。

「だが——」

 それでも食い下がった月華に百合は肩を落として花織を抱きながら立ち上がった。

「そう、ですよね。花織のこともありますし、私は大人しく邸で留守番をしていますので明日の夜はどうぞみなさんで楽しんできてください」

 軽く頭を下げて立ち去ろうとする百合を月華は引き留めた。

「百合、違うんだ。別に外へ出るのを許さないというわけじゃない、ただ俺は——」

「私のことを想ってくださってのことだとわかっております、月華様。出かけるのは体調が万全になってからでも遅くはありませんものね。今でも朝廷勤めで大変なあなたにこれ以上負担をかけるようなことを言うべきではありませんでした。百合は、旦那様の決めたことに従いますのでご安心ください」

 潔く諦めた百合は月華の手を軽く払うとにこやかにして東対を出て行った。

 その微笑みは無理に作られたもののように感じて、罪悪感さえ覚える。

 しかし百合を失うことは考えられない。

 異能を消す方法がまだわからない今、百合の命を危険に晒すようなことはできない。

 それがたとえ自分勝手な考えだとしても。

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