第6話 暗雲の兆し
「山吹、ひとつ頼みたいことがあるのですが引き受けてくれますか」
備中国にある妹尾家という武家屋敷の一室。
最も信頼する男を前に白檀は真剣な眼差しを向けた。
「俺があなたの頼みを断ったことがありましたか」
「いいえ、ありませんね。愚問でした」
春先に京で起こった毒殺事件の後、朝廷の手を逃れた白檀は諸国を旅しながらひと月ほど前に拠点となる備中国へ戻っていた。
輪廻の華は九条家の手に落ちたため当面は手に入らなくなったこと、九条家の嫡子が幕府の武将となっていて、朝廷と幕府を結ぶことになるかもしれないことなど、倒幕の望みが遠のいたことを白檀は自らとくとくと老人たちに説明したのだった。
だがまだ諦めていない老人たちがそれで納得するはずはなかった。
飛んで火にいる夏の虫を捕まえんと待ち構えていることに、白檀は表情を曇らせていた。
文机を挟んで向かい合った山吹は刀をそばに置いて畳の上に正座していた。
相変わらず顎に無精ひげを生やし、左目には傷痕があり閉じられたままになっている。
「それで、俺に頼みとは?」
山吹は無精ひげを撫でながら言った。
対する白檀は、病的なまでの色白さに変わらず上質な白橡色の着物を纏った茶人として、武家屋敷には不釣り合いな存在だった。
「もうすぐ妹尾家へ鷹司家の者がやって来ます。彼らが京へ戻る時に後を追ってしばらく動向を探ってほしいのです」
「どういうことですか」
「何のつもりか、鷹司家の方から接触を図ってきたのです」
「誰にです?」
「私にです」
「それが何か問題でも?」
「相手は茶人の白檀に会いに来るのですよ。ですが私は備中にいることや、茶人としてふるまう白椎であることを他人に公言していません。それなのに備中国の白檀宛に文を寄越してきたのですから、何か事情を知っているとしか思えません」
「……怪しいやつですね」
「それにあの人たちが鷹司家の者を取り込んで朝廷を乗っ取ろうとする可能性もあります」
「ですが近衛家と同じ摂家とはいえ、鷹司家が九条家以上の力を持っているというのは聞いたことがありませんけどね。失敗した倒幕をまだ目論んでいるんですかね?」
「さあ……それは私にもわかりません。ですが鷹司家の者を利用しようとしているのは間違いないでしょう。でなければ野点など頼んでくるはずがありません」
山吹は初めて聞く言葉に、疑問符が頭の中に乱立した状態になった。
「の……の……、何ですって?」
「の・だ・て、です」
「何ですか、その野点って」
白檀は噴き出しながら答えた。
「野点というのは野外で行う茶会のことです。本来は春や秋などの気候のいい時期のやるものなのですが、こんな時期でもやってほしいと依頼してくるからにはよほど私と顔を合わせる機会を作りたいのでしょう」
「……あー、白檀様はじっとしていることが少ないから、これを好機と捉えてのことでしょうね」
白檀は不本意な顔で山吹に言った。
「何か言いましたか、山吹」
「いえ、何も」
こんなやり取りも気心が知れた仲だからこそであった。
「皐英を失い、近衛家を使っても失敗したのに一体、何に執着しているんでしょうねぇ。輪廻の華だって手に入りそうにありませんし、もはや倒幕など目論むだけ無駄ではないですか」
白檀はその問いには答えなかった。
山吹はじっと白檀の顔を窺ったが、その真意を読み取ることはできなかった。
そもそも白檀の真意を読み取れたことなどない。
いつも振り回され、最後の最後まで彼が何を考えているのかわからない。
だが山吹は白檀のもとを離れるつもりはなかった。
彼に救われたその日から、最期をともにするのは白檀だと決めているからだった。
「はぁ……。わかりました、鷹司家の動向を探ればいいんですね」
「ええ、頼みます」
そう言って白檀が立ち上がったところで、頃合いよく現れた女中が声をかけてきた。
「白檀様、準備が整いました。ご一行も到着なさっております」
「今行きますと伝えてください」
請け負った女中はそそくさと去っていった。
「さて、新たな敵となるかもしれない者の顔を拝みに行きましょうか」
「白檀様、何だか少し楽しんでいませんか」
「そんなことはありませんよ。ですが障壁は高ければ高いほど超えた時の充実感が大きくなるものです」
「楽しんでるじゃありませんかっ」
「山吹——私は彼らを前にして表立って何かを仕掛けることはできません。動きを見せれば相手は警戒して尻尾を見せなくなるでしょう。ですから彼らのこと、しっかりと追ってください」
そう言い置いて白檀は部屋を出て行った。
旧知の仲であった皐英を案じて京へ出向いたが間に合わず、騒動に関わりながらもなんとか帰国できたというのに、休む間もなく再び事態が動き始めている。
白檀が安らげる刻は来るのだろうか。
山吹はそれだけが心配だった。
刀を手に野点が行われるという邸の庭に出ると、夏にしては涼しい風が吹いていた。
遠くの空には厚い雲があり、それが風に乗って上空に迫って来るとこの庭も水浸しになるだろうことは容易に想像がついた。
庭の中心には赤い布が敷かれた即席の床が誂えられており、そこには数人の男たちが顔を揃え座していた。
山吹はその様子を庭の木陰から見守った。
白檀は準備された茶道具の前に、亭主として腰を下ろしている。
彼の頭上には朱色の野点傘がありそれが妙に雅な情景に見え、山吹はまるで京にいるかのような錯覚を覚えた。
「お待たせいたしました。それでは始めさせていただきます」
白檀はいつにも増して丁寧に頭を下げた。
顔を揃えた男たちの最も上座にいる人物の顔を確認すると、山吹は静かにその場を後にした。
(あれは確か……鷹司家の嫡子——鷹司杏弥ではなかったか)
客人が京へ戻るまでにはまだ猶予がある。
山吹は旅支度をするために自室へ向かった。
白檀が野点を催してから2日後。
落陽に赤く染まる邸を山吹は遠くの物陰からじっと見つめていた。
人の身長を遥かに超える巨大な門は、摂家の邸ではよく見かけるものだった。
門には家紋として鷹司牡丹が刻まれている。
備中国へ来ていた客人はやはり山吹が見立てたとおり、鷹司家の嫡子だった。
昨日、邸に戻ってからというもの……人の出入りはまったくない。
鷹司家の嫡子ともなれば、朝廷でも要職に就いているであろうが出仕している様子はなかった。
山吹がじっと門を見つめていると、路地を歩いていたひとりの男が門の前で静止した。
すると間もなく門は開かれ、中へ入っていった。
男は中肉中背で顔は見えなかった。
「——こんなところで奇遇ね」
山吹は鷹司家の出入りに気を取られているところ、後ろから声をかけられ慌てて振り返った。
そこには長い髪をひとつに纏め、細い刀を背負った双子の妹——紅葉が不思議そうにして立っていた。
「……脅かすな」
「脅かしてなんかないわよ。気配に気づかなかった?」
「気配を消して来たんだろうがっ」
むっとする山吹に肩を竦めた紅葉は、意地悪く微笑んだ。
「まあ、否定はしないわ——で、こんなところで何してるの?」
「お前こそ何してる」
「やーね、質問に質問で返すなんて。あたしはあの男を追いかけてきたのよ」
紅葉は鷹司家の門を指さして言った。
「門に入っていった男か? あいつ、何者なんだ」
「さあ、それは知らないわ」
紅葉はここに辿り着くまでの経緯をこと細かに山吹へ説明した。
紅葉の話によると、男は東の方から戻って来たとのことだった。
男を追ってきたところ偶然、鷹司家に入っていったらしい。
「何であいつを追ってたんだ?」
「それが……あたしは鎌倉の様子を窺ってたんだけどね、少し前、あの九条家の男が大将となった戦があったのよ」
「戦? で、相手は?」
「聞いて驚け! 奥州藤原氏の残党だったのよ。でもあっけなくやられちゃったけど」
「奥州の残党? 今頃、よくそんな連中が立ち上がったな」
「だからおかしいじゃない? それでいろいろ調べてたら、あの男に辿り着いたわけ」
「あいつが戦に混ざってたのか」
「まさかっ! あの男はくすぶってた奥州の残党を焚きつけたのよ。でも理由がわからないのよね。結局、幕府軍にやられちゃったんだから奥州の連中は嵌められたも同然でしょ。一体、何のためにあの男がそんなことをしたのか、確認しようとして追いかけたらここに辿り着いたってわけ」
山吹は紅葉の話を半信半疑で聞いていた。
紅葉が掴んだ情報がもし本当だとするなら、鷹司家と関係のある男が奥州の残党を焚きつけて幕府軍に仕向けたことになる。
一方、山吹が追いかけていた鷹司家の嫡子は備中国に呼ばれ、白檀と面会している。
白檀が案じていたとおり、次なる行動を起こすのは鷹司家だということだろうか。
「で、あんたは何でここにいたの」
「俺も白檀様の指示で鷹司家の嫡子を追ってきたところだ」
「白檀様は何て?」
「理由は聞いていない。お前だってわかるだろう? あの方の性格。何を考えてのことかは口にしない方だ」
「鷹司家の嫡子ねぇ……。あの家、何かあるのかしら」
「さあな」
紅葉は不可解とばかりに深いため息をつくと、背を向けて1歩踏み出した。
山吹はすかさずその背中に声をかける。
「紅葉、どこへ行く?」
「どこって、標的は摂家の邸に入ってしまったんだから動きようがないでしょ。いくらあたしたちだって摂家の邸の中までは忍び込めないのよ? 今のうちに休憩しようかと思って」
「京に詳しくないお前が、行く当てはあるのか?」
「ううっ……。ないけど、適当に探すわよ」
「だったらいい店がある。たまには俺が愛しの妹におごってやろう」
「ええぇ!? 嵐になるからやめてよ」
照れ隠しか大げさに嫌がる妹の腕を山吹は掴んだ。
「兄に向って何て言い草だ——まあ、いい。とりあえず連れて行ってやるから」
「ちょっと、まさかあの例の甘味処じゃないでしょうね?」
「よくわかったな」
「あたしが甘いもの食べないって何度言ったらわかるのよ」
「安心しろ。あの店は夜になったら酒を出す。そろそろ呑める頃だろう。甘味は食べなくても酒なら好きだろう?」
それまで不服を訴えていた表情は屈託のない微笑に変わり、山吹はその笑顔に心底癒された。
たったひとりの肉親である紅葉には、本当は刀を持って危険な場所へ行くようなことはしてほしくない。
だが本人が望んでやっていることである。
たとえ兄であっても、彼女の意思を阻害することはできない。
「ところで紅葉、前に言ってた鼠とやらは始末したのか」
「始末どころか、撒かれたわ」
「お前が撒かれるなんて珍しいな」
「気配は感じるのに姿形はまったくわからない。あれは相当な手練れかも」
山吹は紅葉を連れ、みつ屋に向かう路を歩きながら考えていた。
備中国を探る相当な手練れとは一体何者なのだろうか。
表では嫡子自ら白檀のもとを訪れながら、陰では内情を探ろうとする鷹司家の使いだろうか。
考えても検討はつかないが、とにかく隣を歩く紅葉にはこれ以上関わらせたくない。
山吹は一抹の不安を覚えながら、斜陽の中を歩いていった。