第58話 侵入者
夜中のうちに六波羅を出た棗芽は朝方には目的地へ辿り着いた。
夜が明けるにしたがって雨は小降りになってきたが止む気配はなかった。
まだ止んでもらっては困る。
紅葉が寺を出てしまう前に何としても戻らなければならないのだから。
なぜそうまでして紅葉のことが気になるのかは自分でもまだわからない。
戦場では地形や天候を読んだものが勝敗をわけることがある。
それに関して特に天賦の才を持っている棗芽はよく戦場で空や地形を眺めていた。
おかげで戦場でない場所でもその習慣が抜けない。
紅葉を追ってきた武士たちを片付け、寺に戻ってきた際に見た空模様から、棗芽はこれが長雨になることを予想していた。
2、3日は降り続く、そう読んでいたからこそ、紅葉の提示した区切りを受け入れたのだ。
棗芽はふと思った。
幕府に盾突こうとする三公とやらを拝みに来たことは事実だが、こんなに衝動的に行動したのはどうしてなのだろう、と。
2、3日で止む雨なら、晴れてから様子を見に来てもよかったはずである。
だが、確認せずにはいられなかった。
三公ではなく、風雅の君の存在を、だ。
そう——拝みたかったのは新たな敵の存在ではなく、紅葉が命を捧げると決めているという風雅の君の方なのだ。
棗芽は遠目から妹尾家の邸の様子を窺った。
昨晩の雷雨のせいで門も固く閉ざされ、人の出入りはない。
門番がひとりいるだけであった。
妹尾邸は増築し続けたと思われるいくつもの建物が複雑に繋がっている。
外側は高い塀に囲まれており、中の様子は高い木の上から少し見える程度ですべてが丸見えなわけではない。
中は未知の世界と言っても過言ではないのである。
鷹司家の者が訪ねてきた時に相手をしていた茶人が風雅の君だと言うのなら顔はおぼろげながらわかる。
まだ邸の中にいるのかどうかさえわからないから、確認するには侵入するより他に方法はないだろう。
いても立ってもいられず衝動に駆られて寺を出てきてしまった。
ここまで来たからには後戻りはできない。
棗芽はまず、気配を消して門番に近づいた。
幸い、雨音が足音すらも消してくれた。
門番は時折あたりを見回していたため、棗芽が近づく方と反対方向へ顔を向けた時に一気に近づいて背後へ回った。
門番が棗芽の存在に気がついた時にはすでに彼の首はあらぬ方向にへし折られ、声を発することもなかった。
その場に崩れ落ちた門番を放置すると棗芽は門を開けずに塀の上に昇った。
2尺以上もある太刀を背負っているとは思わせないその身軽さたるやまるで忍びのようだった。
辺りに人影がないことを確認すると、彼は静かに地面へ降り邸の敷地内へ侵入した。
通常、要人と言われる対象は邸の奥地へ居を構えているものである。
一見迷路のような複雑な構造の邸でも奥へ進めばそれなりに何かはあるはずだ。
罠のある城を攻めることに比べれば、楽なものだ。
邸内に侵入した棗芽は歩みを進めた。
進む先で妹尾家の者に出くわした時は声を発する暇も与えずに始末した。
こと切れた相手を適当に開いている部屋へ隠すなどして痕跡を消しながら先を急ぐ。
背中の太刀を抜けば簡単に障害を取り除くことができるが、戦場以外では本当に必要な時にしか抜かないと決めている。
後始末が面倒になる上に断末魔の叫びを発せられると面倒だから太刀は簡単には抜かない。
物音も声も聞こえず、血一滴すら残っていないために侵入者がいることに誰も気がついていない。
雨音も棗芽の存在を消す手助けをしてくれていた。
さらに奥へ進むと、棗芽は不自然な明かりが漏れる襖を発見した。
他の部屋からは明るくなった外の光が漏れているように見えたが、その部屋だけは行燈の薄暗い明かりが漏れたように見える。
まるで外の光が差してこない部屋のようだった。
その襖の前に立ち、中の様子を窺おうとわずかに開いた。
すると目に飛び込んできたのは鉄格子の一部だった。
何ごとかと驚いた棗芽は怖いもの見たさでもう少し襖を開けてみた。
人手幅程度に開けたところで中から呼ぶ声が聞こえた。
「もう朝餉の時刻ですか? ここは窓がないから朝が来たこともさっぱりわかりませんね。食欲はないので持ち帰って下さい」
棗芽が襖から中を覗くと、文机に向かう男の後姿が見えた。
声の主はその男らしい。
後ろ姿でわかるほど細身の体格をしており、とても武士には見えなかった。
武家にふさわしくないその後ろ姿を見て棗芽が唖然としていると、男は振り返った。
その顔には見覚えがある。
「風雅の君……?」
棗芽の呟きに驚きを見せた相手はすぐに表情を引き締め、鉄格子のはまった襖の近くまで寄ると、棗芽に向かい合った。
「どちらさまでしょうか。お会いしたことはないと思うのですが」
棗芽の問いに明確には答えなかったものの、ほぼ肯定しているようなものである。
風雅の君——白檀は棗芽を訝しげに見つめた。
「これは鉄格子の一部ですよね? まさか襖いっぱいにはめ込まれているのですか」
棗芽は開けた襖の間に現れた鉄の棒を握り揺すってみる。
頑丈に取り付けられているようでびくともしなかった。
「武士のようですが妹尾家の者ではありませんね? よくこの邸に侵入できたものです」
白檀は疑いながらも妙に感心していた。
「あなたはこんなところで何をしているのです? これではまるで牢獄のようではありませんか。一体何をやらかしましたか」
棗芽は呆れ顔で言った。
「それよりも……どこかで見た顔ですね。はて、どこだったか」
白檀は顎に手をかけながら首を傾げた。
「こんな牢獄のようなところにあなたが閉じ込められていると知ったら紅葉は真っ先にここへ戻るかもしれませんね。せっかく逃れてきたのに」
棗芽が嘲笑すると格子の隙間から手を伸ばした白檀は彼の袖を掴んだ。
「紅葉は無事なのですかっ!」
周りに気づかれないようにあくまで小声だったが白檀が棗芽の問いをまともに相手したことでかみ合わない問答は唐突に終了した。
白檀の剣幕に圧倒された棗芽は、しばらく沈黙した後、深くため息をつくと口を開いた。
「下がってください」
「…………?」
「少し話をしましょう。このままでは話しにくいので今、そちらに行きますから」
そう言った棗芽は襖を全開にすると静かに背中の太刀を抜いた。
2尺以上あろうかという太刀は錆や刃こぼれもなく美しく妖艶に煌めいた。
固唾を呑んで白檀が数歩、後ろへ下がると、棗芽は何をしているのかわからないほどの速さで太刀を振った。
白檀が目を見開いていると、棗芽はすぐに太刀を鞘に収めてしまった。
次の瞬間、音もなく人ひとりが通れるほどの大きさに切り取られた鉄格子の一部を持ちながら彼は室内に侵入してきた。
中に入ると、手に持っている格子を元の場所にはめ直す。
組織を壊さずに切り取られた鉄格子は、元より傷ついていないかのようにぴったりとはめ込まれた。
驚いて立ち尽くしている白檀に腰掛けるよう薦めると、棗芽もその場に腰を下ろした。
棗芽はじっと白檀を見据えた。
色白の整った顔をした男で、上質な白橡色の着物を纏っている。
どこからどう見ても倒幕を目論んだり、朝廷を乗っ取ろうとしている悪人には見えなかった。
むしろ世捨て人のように何にも執着していないようにも見える。
本人を目の前にして、やはり紅葉が言っていたとおり幕府に盾突こうとしているのはこの風雅の君ではないのだと得心した。
紅葉のことをひととおり説明すると白檀は安心したように胸を撫で下ろしていた。
よほど心配していたようでそれまで緊張した面持ちだったが、やっと穏やかな表情を浮かべるようになった。
その面影はどこかで見たことのあるような気がする。
「どこのどなたか存じませんが、ありがとうございます」
「なぜ私に礼などするのですか」
「あなたが助けてくれたのでしょう? そう言えばお名前も伺っていませんでしたね。私は白檀と言います。お察しのとおり、かつては風雅の君と呼ばれていたこともあります。あなたは……?」
「私は——北条棗芽。幕府に仕える北条家の者です。私自身は幕臣ではないが、兄の鬼灯を手伝って諸国を飛び回っています」
「六波羅の関係者でしたか。どうりで刀の扱いになれていらっしゃる。どこかで見たことがあると感じたのは鬼灯様と似ていらっしゃるからなのですね」
「私は紅蓮寺の住職である雪柊様の1番弟子なので、得意なのは剣術だけではありませんよ」
「雪柊の……?」
「ええ。師匠は宮中にいた頃のあなたをお世話していたこともあったとか」
「……もう昔のことです」
白檀は苦笑して俯いた。
彼と話をすればするほど、もうすでに宮中や朝廷に関心がないことがわかる。
誰かを利用したり蹴落としたりして自分が返り咲こうと考えているなら使えるものは何でも利用するはずである。
あえて棗芽は自分の素性を明かしたが、白檀は取り入ってくるような素振りも虚勢を張るようなこともない。
見えない相手だったとはいえ、どうしてこのような人物が怪しいなどと思っていたのだろう。
——棗芽の考えすぎだよ。
そう全否定した雪柊の言葉が脳裏をよぎった。
「ところであなたはこんなところで何をしているのですか」
棗芽は白檀に問いただした。
鉄格子の内側に入ってみると、部屋の中は別段、普通の部屋と造りは変わらない。
意外と快適そうな空間ではあったが、改めて中に入ってみると、牢獄に入れられているような気分になる。
「何って、好きこのんでこんなところに入る者がいますか」
「わからないから訊いている——」
棗芽が白檀に返答しているところで、白檀は急に人差し指を口元に当てて棗芽の話を遮った。
かと思うと全開になっていた襖を鉄格子の間から上手に閉め、完全に元どおりに戻した。
そして自分が座っていた畳をめくり、床板を外した。
中は人がひとり入れる程度の空間がある。
「少しここで我慢してください。あなたのためです」
棗芽は促されるままにそこへ入った。
床板で蓋をして、畳を元どおりに敷いた白檀は何ごともなかったかのように再び文机に向かい、それまで眺めていた書に目を移した。
すると背後の襖が半分ほど開かれ、耳ざとい人物の声が聞こえた。
「——風雅の君、ここに誰かいるのですか」