第57話 休暇の特典
紫苑と別れ、六波羅御所へ辿り着いた月華は鬼灯の家臣に案内されいつもの書院の襖を開けた。
早朝にも関わらず鬼灯は腕を組みながら難しい顔をして上座にいた。
開口一番、鬼灯は月華の髪を見て言った。
「月華、その髪はどうしたのだ」
「どうしたって、染めたのですよ。色が違うのですから見ればわかるではないですか」
最後にここへ来たのは髪を染める前のことだった。
これまでずっと赤茶色の髪を見てきた鬼灯にとっては新鮮に映ったのかもしれない。
「なぜ染めたのか、と訊いているのだ」
そんなことを訊いてどうするのか、とも思ったが一応、月華は素直に答えた。
「……いろいろありまして。せっかくいただいた休暇ですが、今は朝廷の官吏をしております」
「官吏?」
「はい、こちらで鬼灯様と棗芽様にご挨拶したその足で邸に帰りましたが、父が待ち受けておりまして……。怪我をした官吏の代役をしろと言われ、今は李桜のもとで仕事をしております。地毛のままだと父や悠蘭と血縁だと勘ぐられそうで面倒だったので、九条家の親戚ということにして別人になりすましているところです」
「せっかくの休暇だというのにか? てっきり今頃は妻子や父上に孝行しているものと思っていた」
「鬼灯様もよくご存じでしょう? 俺は父には逆らえないほどの借りがあるのですから、断る選択肢は残されておりません」
「難儀なことだな……」
鬼灯が苦笑していると、女中がふたり分の茶を運んできた。
出された茶に口をつけると、はっと思い出した月華は突然、啖呵を切った。
「そんなことより鬼灯様、棗芽様がまだ鎌倉に向かわれていないというのは本当ですかっ!」
こんなことを言うために来たわけではなかったが、偶然遇った紫苑の話を月華なりに確認したかったのだ。
途中から傘を畳んで走ってきたために、雨に濡れた黒髪からは正座した膝にぽたぽたと水が滴っていた。
月華の勢いに面食らった鬼灯だったがおもむろに立ち上がると背面の天袋を開け、手ぬぐいを1枚取り出した。
それを開いて月華の頭にそっとかけると再び元の位置に腰を下ろした。
早く髪を拭けという意味だと理解した月華は、髪の水分を取るように乱暴に手ぬぐいを髪とこすり合わせた。
あっという間に手ぬぐいが湿ったところで鬼灯は口を開いた。
「棗芽のことだが——お前の言うとおりだ」
頭にかかった手ぬぐいの隙間から鬼灯の顔を窺うと、いつになく困り果てた表情をしていた。
「我が弟ながら、本当に自由奔放で困ったものだ。棗芽の話に寄れば、1度鎌倉へ向かい蓮馬に指導して戻ってきたのだそうだ。鎌倉への着任を半月ほど遅らせることになるから、などと申していた」
滅多に愚痴を言う人ではないが、棗芽のこととなるとよく不満を零している。
それを黙って聞くのも月華の役目なのであった。
「今のところ鎌倉の方は問題なさそうだからよいが、嵐の中を出かけるなど……正気の沙汰とは思えぬ。だが月華、よく棗芽が鎌倉に向かっていないことを知っていたな?」
「ここへ来る途中、紫苑にばったり会いまして。紅蓮寺で棗芽様に久しぶりにお会いしたと言っていました。数日前にここで棗芽様にお会いした時、鎌倉に代わりに行ってくださるとのことだったので紫苑の話を聞いてなぜなのかと疑問に思ったものですから」
ひととおり髪を拭き終わった頃には与えられた手ぬぐいは水浸しになっていた。
手ぬぐいを横に置くと月華はまっすぐ鬼灯を見据えた。
「嵐の中を出かけたとおっしゃいましたが、どこへ向かわれたか鬼灯様はご存じなのですね」
「ああ。棗芽は今、備中国に向かっている」
「備中国? それはまさか——」
「以前お前が疑念を持っていた国だ」
「何か、動きがあったのですか」
「いや、動きはないが棗芽は確認したいことがあると言っていた。後はあいつが戻ってくるまで待つしかなかろう。だからお前は休暇の続きを満喫していればよいのだ。こちらのことはこちらで処理するゆえ、心配はいらぬ」
鬼灯はゆっくりと茶をすすった。
月華は釈然としなかった。
休暇をもらったことは確かに嬉しかったが、目の前に山積みになっている問題が何も解決していないのに自分の知らないところで何かが動いていることは当事者として納得できなかった。
休暇を与えてくれた親心を踏みにじるようで気が引けたが月華はここへ来た本当の目的について鬼灯に疑問を投げかけた。
「鬼灯様、摂家の鷹司家について調べていらしたそうですね」
月華の問いに鬼灯は茶をすする手を止めると怪訝な面持ちで返した。
「だったら何だと言うのだ?」
「もしかして棗芽様が備中国に向かったのと何か関係があるのではありませんか」
「……なぜそう思う?」
「あなたが意味もなく公家に興味を持つはずはありません。何かの疑いを持っているから悠蘭にねほりはほり訊ねたのではないのですか」
「…………」
「鷹司家の当主や嫡子は野心家だと聞きます。鷹司家が何を目論んでいるのかはわかりませんが、あの近衛家だって西国と手を組んで幕府を目の敵にしていたのです。鷹司が同じことをしようと思っていても不思議はない——」
「いや、それは少し違う」
鬼灯は月華の言葉を遮って言った。
何が違うというのだろう。
月華が訝しげに鬼灯を見つめると、やがて大きなため息をついた彼は諦めたように答えた。
「せっかく休暇を与えたというのに、これでは褒美にならないではないか。お前はほとほと休むのが嫌いらしいな」
「そういうわけではありませんが……すべてが片付いていないのに休んでいる間に裏で動かれるのはいい気がしないだけです」
「まあよい。少し前のことだ。棗芽が備中国の妹尾家を探っていたところ、鷹司家の者がわざわざ京から訪ねてきて、邸の庭で野点が催された。そこでその者は亭主の茶人を使って風雅の君に取り入ろうとしていたらしい。妹尾家はわかるな?」
「はい。揚羽蝶の刻印を鞘に施した武士が出入りしていた家です。ずいぶん大きな邸だったのでよく覚えています。ですがその茶人、もしかして白檀のことではないのですか。だとすれば、鷹司は本人を目の前にして風雅の君に取り入ろうとしていたことになりますね」
「ああ。お前は本人に会ったかもしれぬが、私も棗芽も白檀なる茶人や風雅の君の顔を知らぬ。それゆえ棗芽は茶人と風雅の君が同一人物であるとわからなかったようだな。棗芽は倒幕を目論んでいるのは風雅の君だと考えていた。だがその証拠はどこにもないゆえ、ある日、雪柊にそれを問いただしに紅蓮寺へ行った」
淡々と語る鬼灯の話を月華は固唾を呑んで聞いていた。
確かに風雅の君のことを教えてくれたのは雪柊である。
そして白檀と菫荘の前で鉢合わせた時に、楓が風雅の君とは何者なのか知らずに、白檀の住まいを世話したと教えてくれた。
そこで初めて月華も、偶然出会った白檀こそが風雅の君だと知ったのだ。
「雪柊には、風雅の君が今の帝を退けて帝位に就くことを望むなどありえないと一蹴されたようだ。その後どうしたのかはわからぬが、別の者から朝廷の乗っ取りや倒幕を目論んでいる別の輩の話を聞きつけてきたために、今それを確認しに行っている」
「ん……? 待ってください、鬼灯様。風雅の君は鷹司家の者が訪ねてきた時に野点を催した、とおっしゃいましたか?」
「そうだが……」
「では、風雅の君は備中国にいるのですね!」
月華は前に身を乗り出した。
勢いに圧倒された鬼灯が後ろにのけぞったくらいだった。
「そうか……白檀は国に戻っていたのか」
ぽつりと呟いた月華は不気味な笑みを浮かべていた。
芙蓉が書き残した『常闇日記』に記されていたかもしれない5つ目の術に関する内容を風雅の君が知っているかもしれない。
渡りに船である。
何としても風雅の君と接触しなければならない。
百合を救うために。
逸る気持ちが抑えきれずに、月華は立ち上がろうとした。
「月華、どこへ行く」
「俺も棗芽様の後を追いかけます」
「なぜそうなるのだ? 棗芽はすぐに戻ってくる。それを待っていればよいだけのことではないか」
鬼灯は月華の腕を掴んで引き留めた。
何を焦っているのか、鬼灯にはさっぱり見当もつかなかった。
外は変わらずの雨模様である。
待っていれば2、3日で戻ってくる棗芽のことをなぜ追いかけようとするのだろうか。
「そうもいかない事情が俺にもあるんです。後生ですから行かせてください、鬼灯様」
「落ち着かぬか、月華!」
ぴしゃりと言われた月華ははっと我に返った。
親のように自分の進む道を指し示してくれた鬼灯の声は、いつだって歯止めになる。
鬼灯の視線は月華の瞳の奥に入り込み、中を探るように突き刺さった。
落ち着きを取り戻した月華は再び座り直すと、鬼灯に向き合った。
「申し訳ありません、鬼灯様。少し冷静さを欠いていたようです」
「何か、事情があるのだな?」
月華は黙って頷いた。
「どうせかりそめの官吏なのだ。1日怠けたところでさして問題あるまい。私は構わぬからここで一切を吐き出していくといい。これも休暇の特典だ。私もお前と一緒に考えるとしよう」
何と懐の大きな人だろうか。
巻き込みたくないと友には悩みを打ち明けることを躊躇ったが、なぜか鬼灯にはすべてを話す気になれた。
それは、鬼灯はどんな問題も小さな石ころ程度にしか感じないのだろうと思えたからだ。
この人を親と思えるのは幸せなことだ。
月華はこれまでの悩みを洗いざらいすべて鬼灯に語った。
百合の異能をこのまま放置すると縮まった寿命のせいで永く生きられないかもしれないこと。
百合の異能は常闇の術と言われるものらしく、それについて書かれた禁書が存在したこと。
禁書には書かれていなかった不自然に終わっている内容の続きを風雅の君が知っているのではないかと考えていること。
話は昼餉の時刻を過ぎても終わらなかったが鬼灯は黙って月華の話を聞き続けた。
月華にとってのふた月の休暇は褒美として与えられたものだったが、まさにそれに加えられた特典であるかのように、この日の月華は鬼灯を独占したのだった。