第56話 蚊帳の外
小夜嵐に見舞われた久我紫苑は結局山を下りることができなくなり、紅蓮寺に足止めを食らうことになった。
雨足は強くなったり弱くなったりとまったく読めない状態であったが、続いていた雷鳴は聞こえなくなっていた。
弱くなった頃合いを見計らって寺を出なければ出仕に間に合わなくなる。
紫苑は離れに繋がる続き廊下を歩きながら肩を落とした。
雪柊に促され、無理やりに仏堂を追い出された棗芽はいつまで待っても戻ってこなかった。
様子を見に行ってくるようにと叔父に言われた紫苑は、離れの襖を開くなり唖然とした。
薄暗い部屋に行燈だけが小さな光を放ち、照らされた室内には棗芽が紅葉と呼んでいた女子がひとりいるだけだった。
固く締められた雨戸に打ち付ける雨音だけが聞こえる。
肝心の棗芽の姿はなかった。
室内には入らず空けた襖に体を預け、腕を組んで片眉を上げた紫苑は不信感を丸出しにして紅葉に声をかけた。
「ここに棗芽様が来なかったか?」
「……あなた、誰?」
「ずいぶん勝気な女だな。こんな女のどこがいいんだ?」
思わず本音を漏らした紫苑に、紅葉は目を吊り上げて食って掛かった。
「何よ、失礼ねっ! 見ず知らずの人にそんなことを言われる筋合いはないんだけどっ」
「事実を言ってるだけじゃねぇか。そんなに目くじら立てるなよ」
「失礼なやつね。棗芽はそんなこと言わなかったわよ」
自分で言っておきながらはっとした紅葉はそれ以上、口を噤んでしまった。
棗芽は紅葉の何を見ているのだろう。
紫苑が降り出した雨の中で見た棗芽はどう見ても彼女を丁重に扱っていた。
まるで手放すことを拒んでいるかのようにさえ見えた。
棗芽自身は認めなかったが、紅葉に執着しているのは明らかだった。
(この女のどこがいいんだか……)
紫苑は呆れ顔でため息をついた。
「俺は久我紫苑。住職の甥だ。あんたもしばらくここにいるつもりなら以後お見知りおきを」
「えっ? 雪柊様の親戚なの?」
「ああ。だからその警戒感を解いてもらえるとありがてぇんだけど」
「…………」
そう言っても紅葉は訝しげに紫苑を見ていたが、やがてぽつりと答えた。
「……棗芽なら、出かけたわ」
「出かけた? どこへ?」
「知らないわよ。でも嵐が止むまでには帰ってくると約束した。だからあたしはあの人が戻ってくるまではここにいるわ」
紫苑は首を傾げた。
いつ止むかもわからない「嵐が止むまで」なんて期限を区切って棗芽は一体どこへ行ったのだろう。
紅葉はそれ以上何も答えなかったため、紫苑は諦めて雪柊の待つ書院へ向かった。
雪柊は書院の上座に正座して、腕を組んだまま目を閉じていた。
紫苑が中に入ると、うっすらと目を開ける。
相変わらず、開いているのかどうかもわからないほど細い目はまっすぐに紫苑を見つめた。
「紫苑、棗芽はいたかい?」
「いいえ、いませんでした」
「いない?」
「嵐が止むまでに戻るという約束で出かけたらしいです」
「この嵐の中を? 一体どこへ?」
「さあ……?」
久しぶりに会ったかと思うと急に消えてしまった棗芽、素性のわからない生意気な女、事情を説明してくれる気配がない叔父。
何の説明も受けていない紫苑は面倒そうに頭を掻き、苛立ちを見せた。
雪柊の向かいに腰を下ろすと苛立たしげに口を開く。
「叔父上、あの女子、何者なんですか。何で紅蓮寺にいるんです? おまけに棗芽様はずいぶんあの女子に執着しているみたいですけど」
「あの子は紅葉といって私の古い知り合いから預かっている子だよ。棗芽がどうして執着しているのかは知らないけどね」
「でもずっと置いておくつもりじゃありませんよね?」
「彼女がずっとここにいると都合が悪いのかい?」
「いえ、そうじゃありませんが……なんていうか生意気で俺は好きじゃありませんね。棗芽様もあんな女のどこがいいのか……」
「はははっ。紫苑が女子に嫌悪感を示すなんてね」
「……はぁ!?」
「だっていつも月華に『いい女がいたら紹介してほしい』と言っているそうじゃないか。その君が女子相手に不満を零すなんて、思ってもみなかったよ」
「叔父上……相手は誰でもいいわけじゃありませんよ。確かに幸せそうな月華や李桜を見ていて嫁のいる生活には憧れますけど、じゃじゃ馬はごめんです」
「希望する娘を望むなら自分で探すしかないね。出逢いとはその辺にいくらでも転がっているものだよ」
「そんなに簡単なら苦労はしませんけどね。月華に声をかけたのは信頼する者が紹介してくれる女ならそれなりに期待できると思っただけです。誰かに世話してもらってまで本気で妻をほしいと思っているわけじゃありませんし、ましてや久我家に世話してもらおうとは微塵も思いませんね」
「それには同感だ」
雪柊はそれまで和やかに冗談を言っていた表情を一変させ、瞬時に鋭い目つきを見せた。
彼の妻子は婚姻を反対した久我家に殺されている。
それを苦にして仏門に入ったと聞いているが、考えてみればなぜ久我家が雪柊の妻子を始末しようと思ったのかは聞いたことがない。
雪柊自身も口外したことはないし、久我家では禁忌とされ誰も口にしない。
紫苑はずっと疑問に思っていた。
だがそれはどうしても紫苑から訊くことはできなかった。
なぜなら紫苑は久我家の一員だからである。
直接関与していなくとも、雪柊の中では同じくくりで見られているのではないかと思えてならない。
こうして武術を指南してくれ、人並みに相手をしてくれるだけでもありがたいことだと思う。
久我家と絶縁はしていないものの、雪柊が久我家をよく思っていないのは当然であった。
「まあ、紅葉のことは諦めた方が賢明だね」
「どういう意味ですか」
「棗芽に半殺しにされたくはないだろう?」
「…………あのふたり、恋仲なのですか」
「いや、まだそうではないけど、たぶん紅葉に手を出したら棗芽は間違いなく太刀を抜くと思うよ、あの様子だと」
「…………」
紫苑は急な悪寒に襲われた。
腕が立つ上にあの性格である。
報復をする時は、相手を死ぬか死なないかのぎりぎりのところで生かしながら、最も長く苦痛を与える方法を選ぶことだろう。
想像しただけで震えが止まらなかった。
紅葉のことは何とも思っていないのに、なぜこんな寒い思いをしなければならないのだろうと紫苑は不満に感じた。
「紅葉の言うとおりなら棗芽は嵐が止む前には戻ってくるんだろう? どんな事情か訊くにはあの子が戻ってくるのを待つしかないね。それより紫苑は出仕しなくていいのかい? 雨はまだ止んでいないが小降りになってきたらすぐに山を下りないと朝に出仕するのは難しくなるんじゃないかい」
「そうでしたっ。雷は収まったようなので、今のうちに行きます。叔父上、いずれゆっくり来ますので、その時にまた」
紫苑は慌てて雪柊の書院を出た。
乗って来た馬は寺の麓に繋いだままになっていたため、その馬に跨って紫苑は急ぎ京へ向かった。
泥を撥ね上げて馬を走らせながら紫苑は払拭できない疑問を抱えていた。
結局、話を逸らされてしまったが、紅葉という女子が何者でどこから来たのかはわからずじまいだった。
雪柊は古い知り合いから預かっていると言っていたが、古いとはどれくらい古い時代のことを指すのだろう。
彼は妻子を失って仏門に入る前は久我家の一員として朝廷の官吏をしていた。
今の雪柊の生活を見ていれば、僧侶となってからの知り合いが多いとは思えない。
もし官吏をしていた時の知り合いだとするなら、相手は公家なのだろうか。
交流を持っていた人物のことなど聞いたこともないが——。
そんなことを考えていると、紫苑はあっという間に京へ戻ってきていた。
雨を降らせている分厚い雲によって薄暗くはあるが、世は空けたのだとわかる程度には光を取り戻している。
そのまま馬を進めていると、六波羅御所を通り過ぎたところで番傘を抱え走ってくる男が見えた。
近づくとそれはよく知っている人物だった。
紫苑は馬から降りると、男に声をかける。
「月華!」
番傘を抱えた男——月華と視線が合うと、彼も足を止めた。
「お前、傘を畳んで何やってるんだ? 傘は雨を防ぐために差すもんだろう?」
「紫苑か……急いでいたんだ。傘を差しながらでは走りづらかったから畳んでしまった。それよりお前は朝から馬なんかに乗ってどこに向かっているんだ?」
「向かってるんじゃなくて、帰るところだ。昨日、水菓子を持って叔父上のところへ行ったらこの嵐に巻き込まれちまって、この時分まで足止めされてたんだ」
「そうだったのか。それは難儀だったな」
「まあ日頃の行いが良くないかもしれねぇ自覚はあるけどな。それよりお前は急いでどこに向かってるんだよ?」
「俺は鬼灯様のところへ向かおうと思っていたところだ」
「六波羅に向かってるのか……鬼灯様といえば、紅蓮寺で久しぶりに棗芽様に遇ったぜ」
紫苑がそう言うと月華は眉間に皺を寄せて言った。
「棗芽様に……!? おかしいな。俺が休暇を得ている間は鎌倉にいてくださることになっているはずだが、まだこの近くにいるのか」
「でも嵐の中をどこかへ出かけたらしい」
「出かけた? 鎌倉に行ったのだろうか?」
「さあな。行先は聞いてねぇけど多分、鎌倉じゃねぇと思う」
「なぜそう思う?」
「嵐が止むまでに戻ると言って出てったらしいんだ。さすがに鎌倉まではどんなに早くても往復で5日はかかる。嵐が5日も続くかどうかなんて誰にもわからねぇだろう? だからもっと近場に向かったと思うぜ」
紫苑の話に疑問を感じていた様子の月華だったが、それ以上は何も言わなかった。
月華とその場で別れた紫苑は再び馬に跨った。
最近の月華は、必要以上に忙しそうにしているのが気にかかる。
最初は慣れない朝廷勤めにあくせくしているのかと思っていたが、毎日のように書庫に出入りしているようだしこうして朝から六波羅へ向かうなど、その動きはまるでかつて近衛家の事件があった時のように忙しそうである。
そう思い至ったところで紫苑は振り返った。
だが六波羅御所の中へ入ってしまったのか、すでに月華の姿はなかった。
誰もいない大路に雨が降る殺風景な光景だけが広がっている。
なぜかその景色は紫苑にとって現実ではないように思えた。
架空の空間にひとり取り残されたような感覚だった。