第54話 心に刺さる優しさ
ひと晩中、降り続いた雨は夜が明けても小降りになる程度で止むことはなかった。
日付が変わる頃、衝撃的な事実を松島の口から聞かされた月華は寝泊まりする華蘭庵に戻った。
眠る妻子の姿を見て安堵する一方、心は靄がかかったようにすっきりとしなかった。
月華は腰を下ろすとただ黙って眠る百合を見下ろした。
幕府に牙を向く輩がまだ西国にいるのなら、その相手を野放しにしておくことはできないと思っていた。
それは倒幕を目論む輩を絶対に許さない北条鬼灯の考えとも一致している。
見えない相手を殲滅することで再び百合は狙われるかもしれないという漠然とした不安から、開放されると信じていた。
だが、それでは収まらなくなってしまった。
百合の体は日を追うごとに弱っているように見えるからである。
薬師の菊夏に言わせれば病気ではないとのことだった。
それはつまり、『常闇日記』に書かれていた、異能を使うことが寿命を縮めるという部分に当てはまっているのではないかと考えた時から、頭が真っ白になった。
何とかして百合から異能を消すことで彼女の寿命が縮まる現象を止めたい。
あわよくば百合が異能を引き継ぐ前の状態に戻したい、とさえ思った。
だがその方法はまだ見つかっていない。
禁書の中から発見した『常闇日記』と『白蓉記』。
この2冊に大きく関わっている芙蓉が常闇の術を持っていた異能者だった。
芙蓉はすでに他界していて直接確認することはできないが、何としても異能を消す方法を見つけなければならない。
先帝の最初の妃であった芙蓉は、風雅の君の実母であり、現帝の義母であった。
風雅の君——白椎が宮中を追われ、白檀と名を変えているのは何か理由があるのだろうか。
帝は実の兄が白檀と名を変えて生きていることを知っているのだろうか。
訊きたいことは山ほどあるが、母であった蘭子の素性を松島から打ち明けられたことは知らないふりをする約束である。
従兄弟であることを知っていると、帝——榛紀に打ち明けることはできない。
だが何としても百合を救うために常闇の術についてもっと深く調べなければならないと考える月華は榛紀にどうしても確認したかった。
風雅の君の居場所を知っているのか、と。
夜が明けたのかもわからないほど薄暗い中、一睡もできなかった月華は眠る百合の頭を軽く撫でると朝服に着替えて華蘭庵を出た。
東対へ向かった月華は、入口にいた女中に声をかけた。
「中の御仁はどうしている」
「まだお休みになっておられます」
「そうか……父上はどうした」
「ここは任せるとおっしゃって出仕されました」
父が離れたということは命に別状はないのだろう。
昨夜、御帳台の中で話をしていたくらいだから、回復すれば目を覚ますはずである。
父親のいない帝を息子のように守ってきた時華に、月華は改めて脱帽した。
朝廷では右大臣という立場で政を行い、家に帰れば九条家当主という立場で仕切りながら、帝の父親役も務めていた。
そんな神経をすり減らすような生活をしていた父に対し、家を飛び出して武士になってしまった自分は何と親不孝なのだろうと月華は改めて反省した。
武士になったことに後悔はない。
公家の世界は肌に合わないということは、自分が一番理解している。
だが、父との向き合い方は間違っていたのかもしれない。
母の考えを少しでも理解していれば、父は自由に生きることを許してくれると正面から相談できたのかもしれないが、あの頃はそんな考えに及ぶ余裕すらなかった。
近江の町で松島に再会した時、家に戻ってほしいと懇願した彼の姿が脳裏に浮かぶ。
大変な苦労をしている時華を一番近くで見てきた松島のことだ。
心労を少しでも減らしたかったのは言うまでもない。
それを自分のことしか考えず、はねのけるようにしてしまったことを何と自分勝手だったことかと、月華はかつての自分を恥じたのだった。
眠る榛紀を邸に残して、とりあえず出仕することにした月華は番傘を差しながら御所に向かって大路を歩いていた。
父には返しきれない大きな借りがある上、これまでの親不孝な行動を改め、少しでも父に恩を返したいと思うからこそ、任された役割は最後までやり遂げなければならない。
葉月の上旬にしては珍しく雨は続きそうな気配で、朝から陰鬱とした気分にさせられる。
地面から跳ね返る雨粒を見ていると、自然とため息が漏れた。
「月華殿」
大路で呼び止められ、振り返ると今出川楓が駆け寄ってくるのが見えた。
昨夜、みつ屋を先に出てしまったことを思い出した月華は楓に向かって頭を下げた。
「楓殿、昨日はすまなかった。みな俺のことを思ってくれていたのに」
「いや、別に気にすることはない。そなたにはそなたの事情がある。他人である我々が自分の物差しで測れるものではない」
楓の心遣いに月華は苦笑した。
同じ目的地へ向かうふたりは肩を並べて歩いた。
すると楓は申し訳なさそうに口を開いた。
「昨日、李桜からそなたの奥方の事情を少し聞いた」
「百合の?」
「ああ。そなたがなぜ禁書にこだわっていたのか少しわかった。人の抱える事情とは表面には出ぬからやはり口にしてもらわねば手助けすることもできぬな」
「…………」
「だが月華殿、私も李桜も紫苑殿も、おそらく弾正尹様もそなたの味方なのだ。だからどうか突き放さずに必要な時には頼ってほしい」
楓と目が合うと、その真剣さがひしひしと伝わってきた。
(ああ、俺はまた間違ってしまったんだな)
いつもひとりで抱え込み、他人を寄せ付けないようにするのは悪い癖だ。
公家の世界が嫌だと素直に父に相談しなかった時と何も成長していない。
百合のことで悩んでいたことを、巻き込みたくないと突き放すのでなく、知恵を貸してほしいと頼めばよかったのだ。
こんなにも支えてくれる人たちがそばにいるのに。
そう思うと、これまでひとりで悩んできた緊張の糸が切れたようにこみ上げてくるものがあった。
溢れそうになる涙を袖で押さえていると驚いた表情を見せた楓だったが、彼は何も言わなかった。
すべてを受け入れてくれる楓の優しさが今は月華の心に深く刺さった。
無言でしばらく歩いていると、月華は思い出したように楓に言った。
「楓殿、そういえば俺がみつ屋を出た後、榛——弾正尹様がどこへ行ったか知っているか」
「そうだ、昨日はいろいろありすぎて失念していた」
「…………?」
「実はあの後、いろいろあってな。私と紫苑殿がよくあのみつ屋で会う商人が途中で声をかけてきたのだが、その瞬間に走って逃げた者がいて、弾正尹様はその者を追いかけていかれたまま、とうとう戻らなかった」
「逃げたやつ?」
「ああ、そなたもすれ違ったことがある刑部少輔の鷹司杏弥殿だ」
その名を聞いて、月華は訝んだ。
李桜の使いで刑部省に文を届けに行った時のことを思い出す。
杏弥は昔のことを持ち出して逆恨みした上に、月華の家庭をぶち壊してやると豪語したのだ。
最大限礼儀を払って脅したつもりだったが、まだ諦めていないのだろうか。
「商人の話では初めて見る顔だと言っていたから、昨日あの場にいたのが偶然なのかどうかはわからぬが、なぜか我々に存在を知られると慌てて店を出たのだ。それを弾正尹様が追っていった」
「なぜ榛は追ったのだろうか」
「さあな。だが何か知っているかもしれぬ、と言っていたな」
弾正尹は帝である。
何か知っていると勘ぐるのは、鷹司杏弥が不穏な動きを見せていることを知っているということだろうか。
直接訊こうにも当の本人はまだ眠りの中である。
月華は首を傾げた。
そうこうしているうちに、ふたりは朱雀門へ辿り着いた。
続々と出仕してくる官吏がいる中、ひとり向かいから傘をさして歩いてくる男がいた。
弟の悠蘭だった。
肩を落として俯く弟の姿を見た月華は、また徹夜したのだろうとすぐにわかった。
「悠蘭、徹夜は体に良くないと何度言ったらわかるんだ」
「……あ」
聞きなれた兄の声に反応して「兄上」と返事をしようとしたところをぐっとこらえた。
「仕事がなかなか終わらないのです。おふたりで一緒に、とは珍しいですね。何か大事な相談ですか」
「大路の途中で出くわしたのでご一緒しただけだ。悠蘭殿はこれから帰宅か?」
楓の質問に悠蘭は肩を落とした。
「ええ、そんなところです」
月華はふと、以前悠蘭が杏弥とは同期だが仲はよくないという話をしていたことを思い出した。
仲はよくなくとも仕事で関わることがないわけではないだろう。
榛紀が杏弥を追いかけたという話が妙に引っかかった月華は悠蘭に訊ねた。
「ところで最近、鷹司杏弥と話をしたか」
「杏弥、ですか? いいえ、しませんよ。前にもお話したとおり何かにつけて難くせをつけてくるのでできれば相手にしたくないんです。あ、でも——」
「でも、何だ?」
「数日前に鬼灯様から杏弥についてねほりはほり訊かれましたね。突然どうしたのかと思いましたが、知っていることをひととおりお話したら帰られました」
月華はますますわからなくなった。
鬼灯が公家に興味があるはずはない。
彼が調べているとすれば倒幕に関わるとされる疑いがある西国の関係者だけである。
ということは——。
「楓殿、申し訳ないが今日は急用ができたから、李桜に休むと伝えてくれないか。この埋め合わせは必ずする」
「それは構わぬが、何かあったのか」
「今は言えないが、いずれちゃんとみなには説明するから」
そう言うと月華は踵を返した。
少し走ったところで振り返った彼は弟に声をかける。
「悠蘭、ちゃんと体を休めろ」
それだけ言うと泥を撥ねて雨の中を駆けだした。
楓と悠蘭はその姿を呆然と見送ったのだった。