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第53話 高貴な血を引く守り神

月華つきはな様、これからお話することは胸のうちに収め、聞かなかったことにしていただけませぬか」

 松島の表情はいつになく真剣だった。

 ここでそれを受け入れなければ、話してはもらえないだろうと思った月華は黙って頷いた。

「まずは、長い話になりますので久しぶりに茶でも点てましょう」

 そう言うと松島は立ち上がり部屋の中にある茶道具を取り出した。

 くりやから湯を持ち出してくると松島が部屋を出たため、ひとり取り残された月華は考えを巡らせた。

 この九条家には歪みがあるように思う。

 普通の家、ましてや摂家ともあろう家であれば、いくら亡き妻との約束だからといって家を出た嫡子を放任したりしないだろう。

 普通の当主なら家を存続していくために嫡子を行方不明のままにしておくことはしない。

 外聞的にもよくないからである。

 寝殿には未だに堂々と母の打掛を飾っているのに、邸の者たちからは誰ひとりとして母、蘭子の話を聞くことがない。

 もう亡くなってしまっているから当然なのかもしれないが、確かに存在した痕跡はあちこちに残されているのにそれを口にするのは止められているかのようでずっと気になっていた。

 他の家では当たり前であることがこの家では当たり前ではない。

 月華がじっと腕を組み、目を瞑っていると厨から戻ってきた松島がおもむろに茶を点てる音が聞こえてきた。

 うっすらと開けた目に映り込んだのは懐かしい姿だった。

 茶を点てる松島の姿を子供の頃によく見た。

 母が亡くなり、多忙の父にかまってもらえなかった幼少期。

 いつもそばで面倒を見てくれたのは松島だった。

 まだ幼かった悠蘭ゆうらんの面倒を一緒に見ていた日々を思い出す。

 その頃の松島と今の姿が重なり、懐かしささえ感じた。

「今、東対ひがしのたいでお休みになっているのは帝——榛紀しんき様でございます」

 茶筅を動かしながらおもむろに口を開いた松島の言葉を月華は黙って聞いていた。

時華ときはな様が右大臣の座に就かれた頃、先帝が頼りにしていた時華様は榛紀様のお世話をよくしていらしたと聞きます。それは今も変わりません。時折、お帰りが遅くなるのは帝のお住まいである清涼殿へ寄られるからなのです」

 月華が休暇を得てみやこに戻ってきた初日。

 まだ戻っていなかった父の所在について松島が含みのある返答をしていたことを思い出し、合点がいった。

先刻さっき御帳台みちょうだいの中の会話が聞こえてきた時、雨宿りをしていたしん——いや、榛紀様に肝を冷やしたと父上が言っていた。それはあの方が帝だから、ということだったんだな。だがひとつわからないことがある」

「何でしょうか」

 松島は点て終えた茶を月華に向かって差し出した。

「帝はなぜ弾正尹だんじょういんなんていう面倒な役職に就いているんだ?」

「報告書だけで判断することができないことがたくさんあるからではないでしょうか。月華様は、帝が人と会う時はいつも御簾を下げていて誰も顔を見たことがない、と噂されているのをご存じですか」

「……ああ、確かにそんな話を椿つばき殿から聞いたことがあるな」

「お顔を知られては官吏の仕事ができなくなるから、だそうですよ」

「松島も帝と会うことがあるのか」

「まさか……私は時華様のお供で何度か拝見したことがある程度で、直接お話させていただいたことはございませぬ。すべて時華様が日頃、お話くださることでしか知り得ないことです」

「そうか……だが、そこまでして必要なことか?」

「信頼できる方がお傍にほとんどいない、ということではないでしょうか」

「……俺にはよくわからないな」

 確かに友になれと脅された時、愚痴をこぼせるような話し相手がいないと言っていた。

 その上、外には出られない事情があるとも。

 もしかしたら帝はずっと孤独だったのかもしれない。

 信じられるのは自分だけという状況だとしたら、政の現場を自分の目で見ておきたい、自分ならそう考えるかもしれない。

 月華が出された茶に口をつけると、松島は2服目の茶を点て始めた。

 茶筅を走らせる音は小気味よく軽快に響く。

「帝は目覚めた時に父上のことを叔父上と呼んだ。あれはどういう意味なんだ?」

 月華のひと言に、松島の茶筅を動かす手が止まった。

「それは——言葉のとおりでございます」

 再び茶筅を動かしながら松島は続けた。

「蘭子様が九条家へ嫁いでこられると知った時は、本当に驚きました。緊張して何日も眠れなかったことを今でも昨日のことのように覚えています」

「そう言えば以前、そんなことを言っていたな。あの時は母上の話になると不自然に濁されたような気がするが」

「あの時は申し訳ございませんでした。月華様と悠蘭ゆうらん様には蘭子様の出自についてお伝えしないというのが時華様の方針なものですから」

「それはもしかして、榛紀様と関係があるのか」

 松島は黙って頷くと、点て終えた茶を再び月華の前に置いた。

「さようでございます」

「では母上は——」

「はい。蘭子様は先帝の妹君でいらっしゃいました」

 叔父上と呼んだ榛紀の声を聞いてから、何となく想像していた。

 想像していたが実際に肯定されて、驚きは倍増した。

 急に喉に渇きを覚えて新しく出された茶を、無作法にもひと口で呑み干した。

 そんな月華を見て、松島は微笑んだ。

「月華様と悠蘭様は皇家の血を引く高貴な存在なのでございます。それは、榛紀様と血の繋がった従兄弟だということです。よく時華様が、おふたりがいらっしゃれば九条家は安泰なのだとおっしゃっていますが、それはこういう意味なのですよ。つまり、現帝の御代ではおふたりの存在こそが九条家の守り神なのです」

 確かに父はいつも松島が言うように、自分たち兄弟がいればそれでいいと言っていた。

 それは単純に後継ぎがいればよいという意味だと捉えていたが、もっと奥深い意味であったとは想像もしていなかった。

「父上はどうしてその事実を俺たちに教えて下さらなかったのだろう」

「それは、蘭子様のご意思だからです」

「母上の?」

「蘭子様は家に決められた枠の中で決められたとおりの人生を歩まれることを嫌って九条家へ逃げて来られました。月華様をお産みになった蘭子様は皇家の血を引いたことによって月華様の将来が勝手に決められてしまうのではないかと恐れられていました。蘭子様はご自分の出自を伏せることでご子息がその血を引いていることを隠そうとなさったのです。だから蘭子様の教育は厳しかったのですよ。家に縛られることなく自由に生きられるように逞しく育てたかったのでしょう。傍から見ていて少しやり過ぎなところはございましたが」

 それも愛情あってのことでしょう、と続けた松島は肩の荷が下りたようなすっきりとした顔をしていた。

 母の名を聞くだけで震えあがるほど厳しく育てられた記憶がある。

 だがそれも少々極端ではあったが母の愛情のなせる業だったと思うと、妙に腹落ちした。

 多くの官吏が恐れおののく弾正尹——榛紀と初めて会った時、恐れるどころかむしろ親近感を覚えたことを思い出す。

 血の繋がった兄弟のようなものなのだ。

 親近感どころか、誰よりも親しくておかしくない立場ではないか。

 あまりにも驚き過ぎて深く考えていなかったが、思えば御帳台で交わされた会話の中にも血の繋がりがどうのということを言っていたような気がする。

 何も知らないのは自分ばかりで、榛紀は知っていたのだ。

 知っていてあえて友になることを望んだ。

 それは榛紀なりの、時華に対する気遣いだったのだろう。

 月華はふと、嫌な胸騒ぎに襲われた。

「……ちょっと待て、松島。榛紀様と俺は血の繋がった従兄弟だと言ったな?」

「はい、そのように申しました。それが何か?」

 初めて朝廷の書庫にかえでと出向いた時、風雅の君の話をしたことが急に脳裏に蘇った。

 ——あの事件の後に調べたところによれば今の帝の兄君で確か名は白椎はくすいと。

 話は中断してしまったが、楓は確かにそう言った。

 つまり、白檀びゃくだんと名乗っている風雅の君は榛紀の兄ということである。

 それは風雅の君が自分とも血の繋がりがあることを指している。

 白檀に道端で鼻緒を直してもらったという百合も言っていたではないか。

 ——月華様に似た雰囲気をお持ちのすてきな方でしたのでまたお会いしたかったのに。

 と。

 それもそのはずである。

 血が繋がっていれば似ている部分があっても不思議はない。

 ——なかなか尻尾を掴ませなかったあなたとは遠からず縁があるものですから。

 姿を消す直前、菫荘の前で遭遇した白檀も知っていたのだ、九条家の事情を。

「月華様、どうなさいました?」

「い、いや、何でもない」

「…………? 月華様、くれぐれも最初にお願いしたとおり、時華様や悠蘭様には私がお話したことを口外されませぬよう、お願いいたします」

「ああ、わかっている」

 冷静になって月華は考えた。

 風雅の君が帝の兄だというのなら、榛紀を通して接触することができるのではないか、と。

 百合の異能を消すための最後の希望になるかもしれない、風雅の君。

 月華は一条の光が見えたような気がした。

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