第51話 風神雷神が通り過ぎるまで
「白檀とは何者ですか」
棗芽に腕を掴まれた紅葉は、その射貫くような視線に固唾を呑んだ。
なぜそんなことを訊くのだろう。
根拠はなかったが、棗芽とはこれ以上関わってはいけないと頭の奥で警鐘が鳴ったような気がした。
「あ、あなたには関係ないでしょ」
「…………」
掴まれた腕は離される気配がない。
外は土砂降りの雷雨。
ここから逃れることができないなら、この腕を無理やり振りほどいても行先がない。
少なくとも雨が止むまではここにいるしかない。
そう考えた紅葉は仕方なく棗芽の問いに答えた。
「……茶人よ」
「茶人?」
「そう。高貴な方で、もとは宮中にいたらしいわ。風雅の君って呼ぶ人もいるけど」
「風雅の君!?」
急に声を荒げた棗芽の顔がぐっと近づいた。
間近でよく見ると、ずいぶんと整った顔をしている。
長い睫毛に通った鼻筋。
いつもは三つ編みでまとめられている長い黒髪はおろされ、水が滴っている様子に色気さえ感じた。
「あの茶人が風雅の君だったのか……」
雪柊によると棗芽は幕臣ではないという。
では一体何者なのだろう。
備中国から追ってきた武士たちを、刀を抜くことなく叩きのめしたのだから相当な手練れなのは間違いない。
それにしても棗芽はずいぶんと事情に詳しいようである。
妹尾家の家臣ではないのか、と訊かれたことを思い出し紅葉は急に背中に冷たいものが走った。
「あなたこそ本当は何者なのよっ。何であたしが妹尾家にいるってわかったの!? あなたとは寺の麓で遇っただけなのに」
棗芽のそばにいてはいけない。
そんな心の声が聞こえる。
紅葉は棗芽から離れようともがいたが、強く掴まれた腕は一向に解くことができなかった。
「君を麓で見つけたのは偶然ではありません。君が備中国を出る前から、後を追っていました」
「……どういう意味!?」
「言葉のとおりですよ。私が妹尾家に到着した時に、君が邸から出てきた。それを男たちが追っていたから何かあると思って私も後を追ってきただけです」
「そうじゃなくて、何であなたが妹尾家の近くをうろついてるの——ってまさかあなた、尻尾を掴ませなかった鼠!?」
「鼠? 失礼な……。君といい師匠といい、なぜみな私を人として認めないのでしょう。まあ、いい。妹尾家の動向を探っていたことは否定しません」
紅葉は愕然した。
やはり風雅の君を脅かす幕府の人間かもしれない。
風雅の君の動向を探ろうと、邸の周りをうろついていた影は最後まで掴むことができなかった。
いつも気配は感じるのにその尻尾は決して見せなかった。
それを、相当な手練れだと山吹に話したことを思い出す。
「紅葉、君はなぜその風雅の君のそばにいるのですか」
「なぜって、それはあたしがあの方に命を救われたからっ」
考えてみれば目の前の棗芽も命を救ってくれたひとりである。
白檀に対しては素直に付き従うことができるのに、棗芽には反発してしまうのはどうしてだろうか。
単に敵だと思っているからという理由だけではないような気がする。
「君は風雅の君のもとを離れるべきです」
「何で!?」
「今の朝廷が親幕派である限り、幕府は朝廷を支えていくでしょう。朝廷に対立し、幕府へ牙を向くような存在が現れれば、幕府は全力でそれを排除します。もし妹尾家が今でも倒幕を目論んでいるとしたら、それは妹尾家の滅亡を意味する」
「…………っ」
「なぜかはわからないが、そうなった時に君には妹尾家にいてほしくありません」
棗芽の視線はどこか寂しそうだった。
確かに三公は輪廻の華を欲しがり、倒幕を目論んでいるのではないかと思う。
だが仮に幕府と対立し、妹尾家が滅んだとしてそれが棗芽に関係あるとは思えない。
「何で? 何でそんなにあたしに構うのっ!?」
「もし風雅の君が今の朝廷を乗っ取ろうとしているとしたら、彼の動き次第では生かしておくことができないかもしれない。場合によっては本人だけでなく近しい人物もすべて粛清する可能性もある。だから私は君を風雅の君のもとに返したくない」
「白檀様はそんなこと考えてないわ! あの方に危害を加えるつもりなら、その時はあたしが盾になるだけ」
「指示を出しているのは風雅の君ではないのですか?」
「違うわよ! 指示を出してるのは——」
紅葉が語気を強めた時、突然閉められているはずの雨戸ががたがたと揺れ出した。
咄嗟に棗芽が腕を伸ばしてきて、気がついた時には彼の腕に包まれていた。
あまりに突然のことで紅葉は何が起こったのかわからなかった。
棗芽の鼓動の音が聞こえ、彼の体温を感じるうちに徐々に理解してきた紅葉は、一気に顔から火が噴き出るような恥ずかしさを覚えた。
白檀に抱き締められた時とは違った鼓動の高鳴りを感じる。
揺れる雨戸は何度か同様にがたついたがやがて揺れは収まった。
どうやら強風で外れそうになっていたようである。
それまで紅葉を抱きしめていた棗芽はそばを離れ、雨戸の様子を見に行った。
やっと解放された紅葉は深呼吸する。
(く、苦しい……。何で……何でこんなに苦しくなるの……?)
その場に崩れ落ちそうになる疲労感を感じて紅葉は片手をついた。
着物の襟もとを掴みながら肩で息をする。
「風がどんどん強くなってきましたね。どうやら風神が上空を通り過ぎているようだ」
外れそうになっていた雨戸を嵌め直して戻ってきた棗芽は、そんなことをぽつりと言った。
「風神?」
棗芽は問いかけた紅葉の向かいに膝を折った。
正座する所作もまた美しい。
乾きかけた長い黒髪が紅葉の目の前で揺れた。
「おや、紅葉は知らないのですか? 風神は風袋というものを持っていてそこから風を吹き出すことで風雨をもたらすのですよ。いや……雷も落ちていたから、風神と雷神が上空で戦っているのかもしれませんね」
急に肩に担がれたり、腕を掴んで離してもらえなかったりと粗雑な男だと思っていたが、現実離れした空想を話し出した棗芽に紅葉は唖然とした。
粗雑ではあったが、よく考えてみれば乱暴ではなかった。
いつも気遣ってくれたのは間違いない。
紅葉はあまりにも似つかわしくない空想の話をする棗芽が滑稽に思えて噴き出した。
「ぷぷっ。何それ。風神と雷神が戦ってるなんてあるわけないじゃない」
「やっと笑った」
棗芽は噴き出した紅葉の頭に手を乗せた。
それはまるで大事なものを愛でるような仕草だった。
「君はいつも怒っていましたからね。少しでも笑ってくれたのなら何よりです」
「…………!?」
からかわれたとわかった時には、目の前に嬉しそうにする棗芽の笑顔が広がっていた。
それを見ていると怒る気も失せてしまった。
ふと目に入った彼のもう片方の手にはうっすらと歯形が赤く残っている。
紅葉を追ってきた男たちをいとも簡単に打ちのめしたのだから、本来なら体に傷をつけることなど滅多にないほどの手練れなのだろう。
棗芽にはこれ以上近づいてはいけないと何度も警鐘が鳴っているのに、助けてくれた相手に悪態をついていることを申し訳なく思う気持ちは強くなっていった。
紅葉はそっと傷ついた棗芽の手に触れた。
「……ごめんなさい、傷つけてしまって」
「まったくです。こんなことをされたのは初めてですよ」
「だから謝ってるじゃない。あたしが悪かったわ。あなたよりもあたしの方がよっぽど乱暴だった」
「はははっ。反省しているのならこのことは水に流しましょう」
屈託なく笑う表情に、紅葉の警戒は少しずつ薄れていった。
味方ではなくとも、敵ではないのかもしれない。
するとそれまで和やかに冗談を言っていた棗芽だったが、突然表情を引き締めたかと思うと居住まいを正して言った。
「それよりも紅葉、先刻の話ですが、指示しているのが風雅の君でないのなら、一体誰だと言うのですか」
「……三公よ」
「三公、とは?」
「妹尾家には誰も逆らうことができない3人の賢人がいるの」
「3人だから三公か……それでその賢人とやらは何者なのですか」
「ひとりは妹尾家当主よ。名は妹尾菱盛。妹尾家の全権を握っている。温厚な人ではあるけど、とにかくいつも威圧的で誰も逆らうことができない。そしてもうひとりは橘萩尾。この人のことはあたしもよく知らないわ。もともと公家らしいけど。そして最後に御形、この人が一番怖いの」
「怖いとは?」
「呪術使いらしいのよ。あたしは見たことないけどね。でも噂では式神というものをいくつも持っていて、それらを使って人を殺すって。前の陰陽頭だった土御門皐英っていう男の師匠。この御形に睨まれたら最後だってみんな恐れてる」
「……なるほど」
棗芽は顎に手を当てながら考えているようだった。
まだ棗芽のすべてを信用したわけではない。
だが風雅の君を疑う彼の誤解を解くためには三公の話をするより他に方法を思いつかなかった。
「これでわかったでしょ? 指示を出しているのは白檀様じゃなくてこの3人なのよ。だからあなたもあの方を疑わないで。あの方をそっとしておいて」
「幕府の敵はその3人の賢人というわけですね。では風雅の君はなぜ妹尾家から出ようとしないのでしょう」
「恩義があるからじゃない? 宮中を追われて行先を失った白檀様を拾ったのが妹尾家だもの。積極的に加担はしないけど、よほど腹に据えかねることがない限り、三公を見限ったりしないと思う。だからあの方のお傍でお守りしたかったけど、それができなくなって悔しい……」
「紅葉は風雅の君に逢いたいのですか」
「……どうかしら。でも無事でいてほしいとは思うわ」
そう答えたことが、紅葉は自分でも不思議だった。
これまでは白檀が命を捧げる相手であり、自分にとってのすべてだったはずなのに。
今はそうではなくなっている……?
「そうですか」
おもむろに立ち上がった棗芽を紅葉は見上げた。
「どこに行くの?」
「どこって、私がここで一緒に寝てもいいのですか」
「……なっ!」
何を言って、という言葉にすらならなかった。
顔を真っ赤に染めた紅葉は立ち去ろうとする棗芽を目で追った。
入って来た襖に手をかけると彼は振り向いて言った。
「ゆっくり休むといいですよ、紅葉。私はしばらく寺を離れますが、私が戻るまで待っていてくれますか」
「…………わかった」
なぜそんな返事をしてしまったのか、紅葉は自分で自分がよくわからなくなった。
だが、寺を出るなとか、待っていろと命令することもできたはずなのに、紅葉の意思を尊重してくれたことが何より嬉しかった。
だから彼の誠意に応えないわけにはいかなかった。
「あたしは気が長い方じゃない。あたしが待てるのは風神と雷神が完全に勝敗を分けるまでよ」
「十分です。それではおやすみなさい、紅葉」
襖が静かに閉められると、急に室内が寒くなったような気がした。
風雨の音が激しく聞こえる。
それまであった棗芽の気配がなくなった室内に取り残されたような気分になった紅葉はいつまでも棗芽が出て行った襖を見つめていた。
棗芽のそばにいてはいけない。
そんな心の声はいつの間にか聞こえなくなっていた。