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第50話 揺らぐ感情

 雨音がますます激しくなる中、紅蓮寺ぐれんじの仏堂では激しい戦いが繰り広げられていた。

 ずぶ濡れになった紫苑しおん棗芽なつめは寺の修行僧である鉄線てっせんから代わりの着物を受け取り、着替えた。

 思い悩んでいる様子の棗芽に1戦申し込んだのは紫苑の方からだった。

 好きにかかってくればいいと言われ、組み手にもならない戦いが始まってから四半時。

 仏堂の中心に立つ棗芽はまだ微動だにしていなかった。

 一方的に紫苑が攻撃を仕掛けているだけである。

 繰り出した拳は受け止められるばかりで棗芽の体を掠めることもできない。

 紫苑はまだ棗芽の間合いにはいることすらできていなかった。

(ちっ……何でこんなことになったんだっけ!? それにしても相変わらず強ぇな、この人)

 かつてこの紅蓮寺で棗芽が修業をしていた頃、何度か雪柊せっしゅうと組み手をしていたのを見たことがある。

 その頃から棗芽は群を抜いて強かった。

 修業を終え、幕府に合流してからは鬼灯きとうの手足となって戦場を駆けていたと聞いたことがあるが、棗芽と対峙した相手はさぞ恐怖を感じたことだろう。

 何せ目的のためには手段を選ばない類である。

 この強さでかつどこまでも相手を追い詰めていくとしたら、戦場ではさぞ畏れられるに違いない。

 棗芽は相手にならないとばかりにつまらなさそうにしているが、その目は決して紫苑から離れることはなかった。

 まるで蛇に睨まれた蛙の心地がする。

 紫苑にとっては絶対に敵にはしたくない相手だった。

 紫苑が間合いの外でじっと動向を見つめていると、棗芽は腕を組み首を傾げながらおもむろに口を開いた。

「紫苑、君は今出川いまでがわ家の者と親しくしていますね。なぜですか?」

「……はっ?」

摂家せっけ清華家せいがけもそれぞれ同じ家格の他家は好敵手のはず。同じように朝廷に仕えるふたつの清華家の跡取りが仲良くしているのを不思議に思ったものですから。公家の世界とはそういう世界なのではないのですか」

「今出川家ってかえで殿のことですか? ただの呑み友達ですよ。別にどこの家の者だって関係ないでしょう。気が合えば一緒にいるのは当たり前だし、特に俺は相手を貶めて自分がのし上がろうだなんて、微塵も思ってませんね」

「気が合えば一緒にいるのは当たり前……ですか」

 考え込む棗芽に隙があると見た紫苑は再び攻撃を仕掛けるべく飛びついた。

 が、棗芽の肩を掴んだと思った瞬間、紫苑の足は払われ宙に浮いた体は棗芽の腕1本によって受け止められ、瞬きをしている間に投げ飛ばされていた。

「甘い」

 景色が反転したのも束の間、気がついた時には受け身を取る間もなく無様に畳へ顔面から着地していた。

 畳にこすれた頬がひりひりとする。

 顔を上げると目の前には棗芽が立っていた。

 差し出された手を取り、立ち上がる。

「やっぱり棗芽様にはまだ敵いませんね」

「私の肩を掴んだのは悪くありませんでしたよ」

「結果、投げ飛ばされたんじゃ、相手にもなってないじゃないですか」

「私の相手にはならなかったが、君は訛っているという体を十分動かしたじゃありませんか」

「……まあ、おっしゃるとおりです。おかげさまですっきりしました」

 棗芽の皮肉を受け流した紫苑は、肩を回しながら笑って答えた。

 文机に向かう作業が嫌いな紫苑にとって、朝廷勤めはまるで拷問のようだった。

 月華つきはなのように自由に生きる道を決められればどんなに楽なことか。

 だが久我くが家は九条家のように寛大ではない。

 紫苑が朝廷勤めから逃れるなど許されることではなかった。

 ふたりが互いに笑い合っていると、訝しげな表情を浮かべる雪柊が仏堂にやって来た。

 かたや珍しく三つ編みを解いている棗芽、かたやなぜか頬を擦りむいている紫苑。

 雪柊はおおよそ何があったのか想像がついたが一応、本人たちに訊ねることにした。

「どうしたんだい、ふたりとも。ずいぶんと楽しそうだね」

「楽しかったですよ、叔父上。まったく歯が立ちませんでしたけどね。久しぶりに棗芽様に相手をしてもらって自分の実力がよくわかりました」

「棗芽を基準に決めるものじゃないよ、紫苑。この子は規格外なんだからね」

「師匠……私を化け物のように言わないでください」

「そんなことを言ったつもりはないけど……まあ、あながち外れてもいないか」

 雪柊の歯に衣着せぬ物言いに紫苑は爆笑し、棗芽はため息をついた。

「何でもいいけど、棗芽。君はちょっと離れに行っておいで」

「離れ? なぜですか?」

紅葉くれはは君のことをなんだか誤解していたよ。互いに腹を割って話した方がいいと思うんだ」

「紅葉がそうしたいと言っているのですか」

「……いや、言っていないけどね」

「では必要ありません。彼女が私のことを誤解していようと紅蓮寺ここから出すつもりはない私の意思は変わりません。雨が晴れても紅葉にはここにいてもらうつもりです。それは彼女のためでもありますし」

「いいから行っておいでっ!」

 雪柊は嫌がる棗芽を半ば強引に仏堂から追い出した。

 不可解な顔をする棗芽の視線を遮断するように仏堂の扉を閉める。

「まったく……北条家の者たちには面倒ばかりかけさせられて困る」

 棗芽が廊下を歩き出した足音を確認して、小さく息を吐いた雪柊はそうぽつりと呟いた。



 仏堂を追い出された棗芽は不満いっぱいにとりあえず離れに向かった。

 雪柊の言っていた腹を割って話すとはどういう意味だろう。

 紅葉をここから出すつもりはない、というのは偽りのない本心だ。

 棗芽が妹尾せのお家を探っていた時、何度も邸の中で彼女を見た。

 背中にはいつも細身の刀を背負っているが、それを抜いたところは見たことがない。

 あれは護身用であり、戦う気概はあってもその技術はないのだろうと棗芽は思っていた。

 備中国びっちゅうのくにから逃れてきた紅葉はもう行くところがないはずである。

 天候の心配だけでなく、新たな追手が放たれないとも限らないのだから、不用意に寺の敷地から出るのは紅葉にとって危険なのだ。

 雪柊の結界が必ず彼女を守ってくれる。

 それを理解させるにはどう伝えればいいのだろう。

 そんなことを考えているうちに棗芽は離れの部屋の前に辿り着いた。

 雨戸に打ち付ける音は一層激しくなり、夏の嵐は朝まで続きそうだった。

「紅葉、いるのですか」

「…………」

 中から返答はなかった。

「紅葉……?」

 さらに声をかけたが返事がなかったため、棗芽は静かに襖を開いて中の様子を窺った。

 あれだけ強く言った上にこの雷雨なのだからよもやまた逃げ出したとは思えなかったが、無事なのかどうか確かめずにいられなかった。

 雨に当たったせいで熱でも出していたら——。

 少し開けた襖から見えたのは、畳に横たわる紅葉の姿だった。

「紅葉!?」

 慌てて襖を全開にすると棗芽は紅葉のそばに膝を折った。

 声をかけても反応がなかったが、少し抱き起すと寝言のような声を漏らした。

「ん……」

「…………ん?」

 よく見ると紅葉は疲れて寝ているだけだった。

(紛らわしいっ!)

 拍子抜けした棗芽はその場に正座すると、自分の膝に紅葉の頭を乗せた。

 疲れて眠っているだろう彼女の枕代わりとして。

 そっと頭を撫でると紅葉は体を縮めて丸くなった。

(まるで小動物だな)

 小さく笑った棗芽はこれまでに感じたことのない高揚感を覚えた。

 紅葉の前ではなぜか封印している素の自分をすべて出してしまいそうになる。

 直情的で、まっすぐな彼女に歩調が乱される自分がいる。

 これまでひた隠しにしてきた本性を暴かれそうな気がするのに不思議と嫌な気はしない。

「君といると本当に調子が狂うな」

 そんなことを呟いてしまうほどに、棗芽は紅葉に執着していた。

 雨の音がしとしとと聞こえる中、どのくらい紅葉に膝枕をしていただろうか。

 自身もうとうととうたた寝をしていると、

「な、何これっ」

 という紅葉の声で棗芽は目を開けた。

 起き上がった紅葉の顔が真っ赤に染まって目の前にあった。

「起きたのですか」

「な、何であたしに、ひ、膝枕なんて……」

「畳に転がって寝づらそうだったので。あまり変な体制で寝ると首を寝違えますよ」

「そ、そういうことを言ってるんじゃなくてっ」

「ではどういうことですか。私は忖度できる性格ではありませんから、はっきり言ってください」

「……うぅぅ」

 明確に答えられない紅葉に棗芽はため息をついた。

「まあ、いいでしょう。ところで紅葉、君は幕府の人間と関わりたくないようですが、理由は何ですか」

 突然の問いに紅葉は面食らったが、棗芽に向かい合って座り直すとまっすぐに視線を合わせた。

「理由は決まってる。白檀びゃくだん様に類が及ぶのは困るからよ」

「白檀様?」

「あたしがお仕えする心の主人」

 心の主人という言葉が妙に引っかかり、棗芽はぶっきらぼうに言った。

「君は妹尾せのお家の家臣ではないのですか」

「妹尾家にはお世話になった恩があるけど、あたしが命を捧げると決めているのは白檀様なのっ」

 そう公言して視線を逸らした紅葉を見ていると棗芽はなぜか不愉快な気分に襲われた。

 この感情は何だろう。

 目の前にもやもやと霧がかかるような感覚がして、棗芽は咄嗟に紅葉の腕を掴んだ。

「白檀とは何者ですか」

 そう問いたださずにはいられなかった。

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