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第5話 北条家の末弟

 葉月初日のこと。

 九条月華くじょうつきはなは大倉御所の一室で文机に向かい、文をしたためていた。

 月華は、少し前に幕府に対して反旗を翻した奥州藤原氏の残党と名乗る一軍との戦に身を投じた。

 将軍の命で兵を率いて反乱軍を制圧しに向かった彼は指揮官としてのその手腕を発揮して2日という短い期間と最小限の被害で戦を終えた——ということになっている。

 実際は2日目になって月華が単独で敵将を打ち取ったために終結したのだが、その真実を知る者は戦に参加した者の中でも少ない。

 それは月華を支えたかつての猛将である竹崎たけさきが緘口令を布いたからであった。

 もともと月華は幕府の中でも北条鬼灯ほうじょうきとうの右腕として一目を置かれる存在であったが、この戦以降、幕府の中ではあらゆる者たちからかしずかれ、恐れられるようにすらなってしまった。

 本意ではないものの、公家の世界とは違い家柄ではなく実力に対して敬意を表しているだけに、かしずかれるのが嫌いな月華もさすがに受け入れるしかなかった。

 ここ数日、月華が戦の後処理のために方々に文を書く姿を盗み見るような武士が何人も襖の影に見え隠れしていた。

 みな羨望の眼差しを向けてくるが、それこそが月華にとっては望まないことであり、文を1通書き終える度に出るため息は止まることがなかった。

 署名を終え小さく息を吐いて硯に筆を置くと頃合いを見計らったように、部下となった早川蓮馬はやかわれんまが文机の向かいに腰を下ろした。

「月華様は相変わらず人気者ですね」

 視線を感じる襖の方を見ながら、蓮馬は月華に耳打ちした。

 同じく今回の戦に身を投じ、参謀として付き従ってくれた蓮馬はことの顛末をすべて知っているにも関わらず、何ごともなかったかのように接してくれている。

 単騎で敵将を打ち取ったことを後で知った蓮馬には延々と小言を聞かされる羽目になったが、最後には無駄な血が流れずに済んだと称賛してくれた。

 今の月華にとっては誰よりも信頼を置く相手である。

「からかうのはやめないか、蓮馬」

「からかってなどおりませぬ。俺は死ぬまで月華様についていくだけですから」

「……お前がついて行くべきは俺ではなく将軍や鬼灯様だ」

 月華は呆れ顔をしながら内心は嬉しく思っていた。

 したためたばかりの文を蓮馬に預けると月華は言った。

「これを将軍へ届けてくれないか」

「しかと承ります。それにしても月華様は戦の才だけではなく政にも精通していらっしゃるのですね」

「精通などしていない。だが鬼灯様に鎌倉を任されている以上、適当なことはできないだろう? あの方ならどう判断されるか、常にそれしか考えていない」

 ふたりがそんな談笑をしていると、辺りが騒然とし始めた。

 ひそひそ声が聞こえ始める。

 互いに何ごとかと顔を見合わせていると少し開かれた襖が豪快に開かれ、そこには見知った人物が立っていた。

 彼らの上司である北条鬼灯の妻——北条葵ほうじょうあおいであった。

 堂々と着物の裾を揺らして歩く葵の姿は凛として美しかった。

 あの美形の鬼灯にこの人ありと言われる奥方である。

 葵は月華にとって母のような存在であった。

 かつて家を飛び出し、鬼灯について鎌倉へ来てからは何年も世話になった。

 子どもがいないふたりにとって月華はまるで我が子のような存在だったに違いない。

 今は独立して居を別にしてるが、家族同然に感じてるのは変わっていない。

 鬼灯がみやこに行ってからというもの、葵がひとりで寂しがっているのではないかと心配して様子を見に行くのは月華の役目であった。

 葵が月華の方へ向かってくると察した蓮馬は少し控えて、離れたところへ腰を下ろした。

 それまで彼がいた場所に膝を折った葵は文机を挟み月華と向かい合う。

 鬼灯と同じように葵も何年たっても年を取らない、と思う。

 いつまでも美しく若々しく凛々しく……だがどこか京の匂いがする気品がある。

 出身は武家と聞いているが、どうも武家出身には見えないところが昔から不思議だった。

 独り身だったかつてはこれといって気にしたことがなかったが、妻子を持つ身となった今では鬼灯と葵の馴れ初めを聞いてみたい、などと月華は思っていた。

「葵様……このような場所へ来られるとは、何かありましたか。鬼灯様なら相変わらず連絡がありませんよ」

 月華は事実をありのままに伝えた。

 すると葵は懐から文を取り出し月華に差し出した。

「この度は見事な戦だったとのこと。みな、さぞかし喜んでいることでしょう。犠牲が少ないというのは何よりです」

「よくご存じなのですね。葵様の耳にまで届くとは思ってもみませんでした」

「旦那様からお知らせの文がありました。息子のように思っているあなたが戦果を挙げたのですから嬉しいに決まっているではありませんか」

 葵は文を受け取った月華の手を軽く握り、母の愛情を注ぐように優しく微笑んだ。

「報告の文を出したのに、俺には何も音沙汰がなくともやはり葵様には必ず連絡があるのですね、鬼灯様から」

「そうね。本当はわたくしを京へ呼んでともに暮らしたいのでしょうけれどそれは叶わないことがわかっているから、離れて暮らすわたくしのことを心配してくださっているのですよ」

「そういえばずっと不思議に思っていました。葵様が鎌倉から離れない理由は何なのか、と」

「鎌倉を離れられないのではなく、京に近づくことができないのよ」

「…………?」

 月華には葵の言っている意味がわからなかったが、それ以上深入りすることはなかった。

 何か理由があるのだろうとは思うがそれは夫婦ふたりの問題であって自分が立ち入るべきではないと思ったからである。

 その後、葵とは他愛のない談笑を続けた。

 そしてひととおり話題が尽きたところで、月華は受け取った文の裏書を確認した。

 そこには鬼灯の署名がある。

「ところでなぜ葵様がこの文を?」

「わたくし宛の文に、これは月華様に届けてほしいと書かれてありましたので……それで文には何と?」

 葵に急かされながら月華は文にゆっくりと目を通した。

 そこには大役を終えた月華に対する称賛の言葉が綴られており、最後に褒美としてふた月の休暇を与える旨の内容が書かれていた。

 月華は驚きのあまり手から文が零れ落ちていることにも気がつかなかった。

 呆然と遠くを見ながらも次第にあり得ない内容を思い返して不安が沸々と湧いてくる。

 ふた月も休みを与えるとは一体どういう風の吹き回しだろうか。

 鬼灯が六波羅ろくはらにいる間、鎌倉のことを任されているのは自分である。

 その自分が鎌倉を離れては、誰が代わりを務めるというのか。

 しかもまとまった休暇があれば、京へ戻ることを見越しているに違いない。

 むしろ中途半端になってしまっている西国調査の続きをさせるつもりなのだろうか。

 それは褒美の休暇ではなく、かこつけた仕事のすり替えではないのか。

 疑心暗鬼になりながら、ひとりで百面相をしていた月華を呆れた様子で見ていた葵は、強い口調で言った。

「月華様、それで旦那様は何と?」

「え、あ、ああ、鬼灯様からは褒美としてふた月の休暇を与えると……」

「まあ、それはよかったですね! これであなたもしばらく京にいられるのではないですか。娘も生まれたのでしょう? さぞ楽しい休暇になるでしょうね」

「それはそうなのですが……」

「何か問題でもありますか」

「問題と言いますか、俺がふた月も鎌倉を離れていいのでしょうか。それに、あの鬼灯様が何の担保もなくただの褒美として休暇をくださるとは思えないのですが」

 訝しむ様子の月華を見た葵はくすくすと笑いを堪えた。

 口元を袖口で押さえながらも零れる笑い声は決して小さくなかった。

「笑いごとではありませんよ、葵様っ! これでも俺は真剣に悩んで——」

「ご、ごめんなさい。馬鹿にしているわけではないのです。ただ、月華様も旦那様にずいぶん振り回されているですね、お察しします」

「ふ、振り回されているわけでは……いえ、振り回されていますね、完全に」

「ふふふ、大丈夫ですよ、月華様。わたくし宛の文にはしばらくしたらあの方を送ると書かれてありましたもの。休暇は本当にご褒美なのだと思います」

 葵は優しい母の微笑で月華を見つめた。

「あの方……?」

棗芽なつめ様です、旦那様の弟君の。わたくしもお会いするのは久しぶりです。旦那様の文には世話を頼むとしか書かれていませんでしたが、月華様の代役を頼まれたのですね、きっと」

 月華があんぐりと口を開けたまま、失語していると葵は慌ただしく立ち上がり、こうしてはおられないと慌てて辞していった。

 代役を迎える準備をするのだという。

 葵が嵐のように去っていった後、控えていた蓮馬は再び月華の向かいに寄って座り直した。

 呆然とする月華に声をかける。

「月華様、葵様は一体何の用で来られたのですか。離れていたのでよく聞こえなかったのですが」

 その声で我に返った月華は眉間に皺を寄せながら文机に落ちていた文を蓮馬に渡した。

 彼は受け取った文を読み終えると首を傾げた。

「休暇をくださるなんて、いい話ではないですか——ん? 代役が到着するまで、蓮馬に代わりを任せる……つ、月華様、とんでもないことが書かれております!」

「はぁ……鬼灯様は一体何を考えておいでなのだ」

「月華様っ、俺に代役なんて無理です! どうか鎌倉を離れないでください」

「無理を言うな。代役の方が来て下さるまで、とここに書いてあるじゃないか」

「そんなぁ……一体いつ鎌倉へ来てくださるのかも、どなたが代役として来てくださるのかもわからないのに、先日のような戦が勃発したらどうするのですかぁ?」

「棗芽様が来てくださるそうだから、まあ心配はないだろう」

「棗芽様、とは?」

「ああ、蓮馬は知らないのだな。北条棗芽様は鬼灯様の末の弟君だ。以前は幕府に仕えていたこともあるようだが、今は鬼灯様の懐刀として密偵のようなことをしていると聞く」

 北条鬼灯には四人の弟がいると月華はかつて聞いたことがあった。

 次男は今となっては親戚となった菊夏きっかの父である。

 武家に生まれながら武芸は得意としておらず、むしろ文才に秀でているため今は幕府の中枢にいる。

 3男は戦ですでに亡くなっており、4男は病に倒れこれまたすでに故人となっているらしく、どちらも月華は会ったことがなかった。

 そして5男として北条家に名を連ねる棗芽は、文武両方に秀でた、まるで鬼灯の分身のような人物であった。

「しばらく幕府を離れていた方に月華様の代役が務まるのでしょうか……」

「いや、あの方しかいないだろうな。何しろ、右も左もわからずに戦場に連れていかれた若い頃、何度も倒れそうになったがいつも棗芽様に命を救われた。鬼灯様の指示だったのかもしれないが、必ず俺の危機を救ってくださったのは棗芽様だった」

 北条棗芽という人物は武術、剣術のみならず戦術にも精通しており戦場では彼の存在がいつも勝敗を左右していると恐れられていた。

 月華自身も何度も棗芽の存在に救われ、命を拾われたことを思い出す。

「棗芽様と対峙しても、おそらくいまだに敵わないだろうな」

 蓮馬は開いた口が塞がらないほどの衝撃を受けた。

 これまで鬼灯が最も強く、それに次いで月華が強い武将なのだと思っていたからである。

 今の月華の話によれば、棗芽という人物は月華よりも強い武将だということになる。

 それは蓮馬にとっては受け入れがたい話であった。

「つ、月華様よりもお強いということですか!?」

「そうだな。棗芽様は紅蓮寺ぐれんじにいる雪柊せっしゅう様の1番弟子なんだ。昔、俺が紅蓮寺で修業し始めた頃に何度が雪柊様と棗芽様が手合わせしているのを見たことがあるが、鬼灯様以外に雪柊様と互角にやり合えた方は棗芽様だけだったよ」

「…………」

「棗芽様は鬼灯様と同じく文武両道な方だった。武芸だけにとどまらず、文を書けばその字は美しかったし、どんな交渉にも長けていた」

「そ、そんな素晴らしい方なのになぜ幕府を出てしまわれたのでしょうかっ」

「さぁ……詳しくは知らないが、勘が良すぎて周りの者に畏れられたのかもしれない。まあ、少し人格に難ありな部分もあったしな。俺がいない間、蓮馬を指導してくださるのはその棗芽様になるだろうから、しっかりご指導いただいたらいい。戻ったらひとまわり大きくなっていることを期待している」

 そう言うと月華はおもむろに立ち上がった。

 休暇の間に自分の仕事を担ってくれるあてができたことで肩の荷が下りた気がする。

 京で何か任されることがあるのかもしれないが、心配のひとつが解消されたことで月華の心はすでに京に向かっていた。

 月華が肩のこりをほぐすように片腕を回し軽い足取りで部屋を出て行ったのを確認し、その浮かれた後姿を見送りながら、蓮馬が戦々恐々としていたのは言うまでもない。

 あの北条鬼灯の弟にして、月華にあそこまで言わしめる北条棗芽なる人物が、一体どんな人間なのか想像するだけでも身震いが止まらなかった。

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