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第49話 亡き母の影

「そう言えば父上、ひとつお訊きしたいことがあるのですが——母上は先帝の最初の妃である芙蓉ふよう様と親しかったですか」

 時華ときはなは思いもよらない息子の質問に思わず顔をしかめた。

 そんなことを訊かれる日がくるとは想像もしていなかった。

 すでに他界した妻——蘭子のことはこれまでほとんど話題にしてこなかった。

 特に蘭子が嫁いでくる前のことについては九条家の者が一様に口を噤んでいた。

 それは当主として緘口令を布いていたからである。

 蘭子は生前、子どもたちには血筋に囚われてほしくないと、出自を明かすことを嫌がっていた。

 いずれは月華つきはな悠蘭ゆうらんに真実を伝えなければならないとわかってはいるが今はまだ早い、時華はそう考えていた。

「——なぜそのようなことを訊く?」

「『常闇日記とこやみのにっき』の近くに保管されていた『白蓉記はくようき』という禁書に『蘭子』という人物について書かれていたのです。白蓉記は芙蓉様に仕えていた女中が書き残したものでした。先帝があまり人前に芙蓉様を出さないようにしていた代わりに、蘭子様がお相手をしてくださった、と書かれてありまして……母上はこの摂家に嫁いで来られた方です。ある程度の家格の出身であれば、宮中に出入りしていた可能性もあるのではないかと」

 百合の異能について調べていたはずの月華が、まさか蘭子の出自について疑問を持つことになろうとは考えもしなかった。

 だが嘘を言うわけにもいかない。

 時華は当たり障りのない範囲で答えることにした。

「——確かに、蘭子は芙蓉様と親しかったと聞いたことがある。だがそんなことを知ってどうする?」

「常闇日記には後半に不自然な空白が残されていました。そこにあの異能を消す方法が書かれていたのではないかと思うのですが、著者がいない以上、芙蓉様が親しくしていた関係者へ口伝された可能性を当たるしかありません。母上が芙蓉様と親しかったとすれば、何かお聞きだったのではないかと思っただけです」

 月華の窺うような視線に耐えられず、時華は目線を外した。

「……この邸内では、母上がどこの家の出身なのか誰も口にしませんね? 母上には何かあるのですか」

「それは——」

 おもむろに時華が口を開こうとした時、珍しく足音を立てて駆けこんできた松島が現れた。

「時華様、あんなに雨に当たられたのですからちゃんと湯あみをされてからお休みくださいっ」

 東対ひがしのたいに残してきたはずの松島は肩で息をしていた。

 庭を駆けたせいで着物の裾は泥にまみれていた。

「月華様もそろそろ華蘭庵からんあんに戻られてはいかがですか。女中がついているとはいえ、奥方様には月華様が必要でしょう」

 松島は早口でまくし立てた。

 月華は訝しげにしていたが、やがて小さく息を吐くと諦めて立ち上がった。

「……そうだな。では父上、俺はこれにて失礼します」

「ああ。百合殿を大事にな。その禁書については私も調べてみるとしよう」

「……ありがとう、ございます」

 去っていった月華の姿が見えなくなるのを確認した松島は肩の荷が下りたと言わんばかりにその場に膝をついた。

「何とか間に合ってようございました。おふたりで寝殿に行かれたので嫌な予感がしたのです」

「お前も心配性だな。だがまさか蘭子について探りをいれてこようとは」

「聡い方ですのできっかけがあればいくらでも真相を追われるのではありませぬか?」

「お前のおかげで助かった。手間をかけてすまぬな」

「主人の希望を叶えるのが私の役目。当然のことでございます」

 時華は松島の変わらない忠誠心に感服した。

 もうどのくらいこうして一緒にいることだろう。

 蘭子が亡くなってからはまるで監視するかのように松島はそばを離れない。

 いつの間にかそれが当たり前になっていた。

「ですが時華様。このままずっと真実を明かさないわけには参りませぬ。月華様はすでに何かを感づいておられるご様子。我々が口を噤んでいてもどこかから知り得る可能性もありますがその時はいかがしますか」

「確かにな」

「奥方様にはお話になったのですよね?」

「ああ。花織かおるが受け継ぐ血のことだ。百合ゆり殿には話しておいた方がよかろうと思ってな」

「月華様もお可哀そうに。奥方はご存じなのにご自身は何も知らされていないのですか。時華様、次期当主になられる月華様にはお話になってはいかがですか。蘭子様のことだけでなく、九条家の血生臭い話もいずれはお伝えになるのでしょう?」

「まあ、時期がくればすべてを話さねばならぬだろう。だが、まだその時ではない。そう言えば鬼灯きとう殿は将来、花織にどのような嫁ぎ先を見つけてくれるのやら。次期将軍くらいでなければ花織には釣り合わないとでも考えているやもしれぬ」

「……はっ? 北条殿が、ですか」

 それまでの話題はまるで都合が悪いかのように話を逸らした時華に対し松島は若干呆れてしまった。

 話したくない過去なのはわかる。

 そのすべてを見てきた松島も、打ち明けることで月華が九条家を継ぐことを辞退することになりはしないかと恐れている。

 だがすべては作り話ではなく、本当にあったことであり事実なのだ。

 いつかは九条家の血を継ぐふたりに伝えなければならない。

 今の時華にはその気はまったくないようだが。

「鬼灯殿にも月華と悠蘭の血筋については話したのだ。ずいぶんと青い顔をしておってな。そうと知っていれば月華を戦場のど真ん中に連れて行くようなことはしなかったと憤慨しておった」

 時華が思い出し笑いをするのを松島は恨めしく目を細めて見つめた。

 現実から目を背けているのだろう。

 だがこの主人に命を捧げると決めている松島はそれを追求するつもりはなかった。

 あくまで主人の意向を尊重するのみである。

「ところで松島。榛紀しんき様の様子はどうだ?」

「熱はないようなのでひと晩お休みになれば大丈夫でしょう。ですがずいぶんとお疲れのようでございます。朝廷は今、そんなに大変なのですか」

「あの方が官吏の真似ごとなどなさるからだ、まったく。つい先日も、3日も寝込んでいたのに病み上がりの身で雨に当たるなど……目が覚めたら強めに説教をするしかないな」

「はははっ。帝に説教できるのは時華様くらいのものですな。ですが、月華様はあの方をお連れになったことを不審に思われたのではありませぬか」

「そのような雰囲気ではあったがそれよりも蘭子のことが気になっているようだった。まあ、榛紀様が帝であることも、あの方が蘭子の甥であることも当分は気付くまい」

「はぁ……そうでしょうか」

 楽観的な時華に対し、松島は一抹の不安を抱いていた。

 先刻立ち去った月華の様子を思い出す。

 一応は矛を収めてくれたようだったが明らかに納得していないのは表情を見ても明らかだった。

 松島は、主人が考えているよりも早い時期に月華は自分の手で真実に辿り着くのではないかと思った。



 松島に体よく寝殿を追い出されたかたちになった月華は、華蘭庵の前に戻った。

 結局、母のことは何も教えてもらえなかったが、いずれはどこかでわかることだろう。

 そんなことよりも今は体調の優れない妻のそばにいたいし、幼い娘の世話もしなければならない。

 明日は勤めを休んだ方がいいかもしれない、とさえ思った。

 華蘭庵を出る前、菊夏きっかに処方された煎じ薬で百合が眠ったことを思い出し、起こすまいと思った月華は静かに襖を開いた。

 隙間から中の様子を窺う。

 すると、想像とはまったく違う光景が広がっており、彼は思わず襖を全開にした。

 そこには真新しい着物を肩にかけ微笑んでいる百合が立っていた。

 先刻さっきまで横たわっていた布団はきれいに片付けられ、花織をあやしていた女中の姿もなかった。

 百合の近くには小さな布団で眠る花織の姿があった。

「百合、寝ていないと駄目じゃないかっ」

「もう大丈夫ですよ、月華様。菊夏さんのお薬が効いたみたいで、すっかりよくなりました」

 よくなったと思うのは気のせいで、実際はいつまた具合が悪くなるのかわからないのではないだろうか。

 そんな不安に駆られた月華は中に入るなり、百合を抱き寄せた。

 か細い体が一層小さくなったように感じるのは気のせいだろうか。

 少しでも力を入れてしまえば折れてしまいそうな、そんな危うさを感じた。

「……月華様?」

 百合の存在が消えてしまうかもしれないなど、想像すらできない。

「どうなさったのですか」

「……百合」

 言葉に詰まってしまい名前を呼ぶ他に何も言えなかった。

 ふと見ると百合が肩にかけているのは、先日邸に呼び寄せた商人に注文した着物だった。

 大至急と頼んだとおり、たった数日で数着を仕立て上げたようだ。

「月華様、見てください。先日買ってくださった着物がもう届いたのです。仕事の早いお店なのですね。さすがは九条家御用達と驚いておりました」

「気に、いってくれたか」

「はい!」

 嬉しそうに言う百合を見ていると月華は胸が苦しくなった。

 百合はあとどのくらいこの贈った着物を着て見せてくれるのだろう、と。

「今度、この着物を着て月華様とみやこを散歩したいのですが……案内していただけませんか」

 上目遣いにねだってくる百合と視線が合うと、自然とこみ上げてくるものがあった。

 百合と出逢って月華の世界は変わった。

 絶縁状態にあった九条家に出入りするようになり、しばらく会うこともなかった弟や友人たちと再会した。

 文字どおり妻となった百合との間には娘を授かり、この上ない幸せを感じている。

 だがその中心にいつもいるのは百合だった。

 彼女がいなくなってしまうことがあれば、新しく得られた世界は音を立てて崩れていくような気がした。

「ああ、わかった。必ず案内する」

 その声は少し震えていた。

「もしかして菊夏さんに何か言われましたか?」

「…………?」

「私は何かの病気なのでしょうか」

「いや、違うっ! そんなことはないっ」

「ふふふっ。そんなに慌てなくても」

 月華の腕の中で百合はくすくすと含み笑いをしていた。

「月華様。もし私の体に何かが起こっているのなら、それは隠さずに教えてくださいね」

「……えっ?」

「たとえもうすぐ死ぬのかもしれなくても、私はその事実を知りたいです。だって、その時が来るまでにいろいろとやらなければならいことがあるでしょう? 花織にも母がいなくなってもいいようにいろいろと書き残しておかなければならないし、お会いしておきたい方もたくさんいらっしゃるし、それに——」

「そんなにあれこれ急いでやらなくても大丈夫だ、百合。貴女の未来はまだまだ続くし、これからも永いときを一緒に過ごしてもらわなければ、俺が困る」

 震えずに声を絞り出すのが精いっぱいだったが、月華は改めて思った。

 やはり何としても常闇の術を使う異能を百合から切り離す方法を見つけなければならない。

 この異能が消えると縮んだかもしれない寿命が元に戻るのかはわからないが、今はその可能性に賭けるしかない。

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