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第48話 右大臣と弾正尹

 東対ひがしのたいに足を踏み入れた月華つきはなは、かつて自分が暮らしていた頃のことを思い返した。

 父は仕事に忙しく、母はとうに亡くなっていて多くの女中たちに囲まれていた頃。

 みな腫れ物に触るように月華を扱い、本音で話す者などほとんどいなかった。

 家臣たちにはいつもかしずかれていて、ここでの暮らしが月華は嫌だった。

 ここはそんな嫌な想いをしていた頃の自分を思い出させる。

 東対の造りは弟の悠蘭ゆうらんが使っていた西対と変わらない。

 室内の奥に御帳台みちょうだいが置かれ、板の間の上に置き畳が置かれているだだっ広い部屋である。

 見渡すと誰もいないのにしっかりと掃除が行き届いていた。

 埃ひとつ見つからない綺麗さに感心した。

(そう言えばここに商人たちを呼んで百合ゆりへの贈り物を選んだのは数日前のことなのに、ずいぶんと昔のように感じる……)

 月華は苦笑しながら、板間に置かれた置き畳に腰を下ろした。

 雨に濡れる庭を眺めながら思考を整理してみる。

 常闇の術について書き残した芙蓉ふようがいない今、彼女から直接聞いている可能性があるのは誰だろう。

 まずは芙蓉と風雅の君について書き記したという『白蓉記はくようき』に登場した『蘭子』という人物だ。

 芙蓉とはとても親しかったと書かれていたから、彼女が異能について思うところがあったとしたら、その悩みを相談していた可能性は十分ある。

 蘭子という人物については詳細が何も書かれていなかった。

 この蘭子というのは母のことなのか……それはわからない。

 九条家に嫁いでくるくらいだからそれなりの家格の出身なのだろう。

 だとすれば先帝の隠された妃であった芙蓉と交流があったかもしれない。

 次に可能性があるのは芙蓉から異能を引き継いだ樹光じゅこうに付き従っていた雪柊せっしゅうだ。

 官吏として朝廷にいた雪柊がどこで樹光と知り合ったのか、ずっと不思議に思っていたが樹光が芙蓉を訪ねるほど親しかったのなら、どこかで顔を合わせていても不思議はない。

 ましてや雪柊は風雅の君の警護をしていたという。

 樹光と面識があってもおかしくはない。

 問題は雪柊がどこまで異能について知っているのか、ということだ。

 実の娘のように百合を可愛がっていた雪柊のことだ。

 異能を消す方法を樹光から聞いて知っていたのなら、すでにそれを実行していることだろう。

 それをせずに紅蓮寺ぐれんじに匿っていたことを考えると、詳細は何も知らない可能性が高い。

 そして最後に常闇の術について知っている可能性が最も高い人物——それは風雅の君という二つ名を持っている白椎はくすいだ。

 今は白檀びゃくだんと名を変えているが、毒殺事件後に忽然と姿を消したまま行方はわかっていない。

 異能を持っていた芙蓉に最も近かったと思われる芙蓉の実子、風雅の君。

 何をどこまで知っているかはわからないが、菫荘すみれそうの前で遭遇した時の含みのある言い方から察するに、何かを知っているに違いない。

(だがどうやって白檀の居所を探る……? 今どこにいるのかもわからないのに——)

 月華が思考を整理していると雨の中を、泥をはねながら横切る松島の姿が目に入った。

 ずいぶんと焦った様子で門の方へ駆けていく。

 尋常ではないその様子を目で追っていると、次第に門の方が騒がしくなってきた。

 月華が立ち上がって回廊へ出ると男を背負ったずぶ濡れの父がこちらへ向かって来るのが見えた。

 その後ろを松島や女中たちがおろおろしながらついて歩いている。

 東対の前まで来た父と目が合った。

「父上……?」

「月華、お前、ここへ来るのは珍しいな——お前のための部屋なのに悪いが少し借りるぞ。許せよ」

 そう言った父はぐったりと項垂れる男を背負ったまま、室内に足を踏み入れた。

「それは構いませんが——」

 目の前を横切っていく父が背負っている人物の顔が一瞬垣間見えた時、月華は思わず叫んだ。

「っしん!?」

 月華の声に時華ときはなは一瞬、振り返った。

 が、後回しとばかりにすぐに踵を返すと背負う男を御帳台へ運んだ。

 後をついて松島と来た女中たちに素早く指示する父の姿を月華はじっと見ていた。

(なぜ父上が榛を背負って九条家ここへ? 榛はみつ屋で呑んでいたのではないのか!?)

 ひと息ついた時華は濡れた髪をかき上げながら月華のもとへ戻ってきた。

 着物から水が滴るほど濡れており、板間に濡れた時華の足跡がくっきりと付いていた。

 普段は自分の足で外を歩くことはほとんどない高位の官吏である。

 牛車に揺られていたなら濡れることなどなかったはずなのに。

 しかも父である時華の方が弾正尹である榛よりも官位は上なのに、その下位の榛を背負っているというのはどういうことなのか、月華にはさっぱりわからなかった。

 まるで大事な家族を背負っているかのようではないか。

 月華は父に向かって言った。

「な、なぜ父上が榛を背負って——しかもずぶ濡れでっ」

「お前はなぜ弾正尹だんじょういんのことをそのように呼ぶのだ?」

「なぜって、それは本人がそう名乗ったからで——話を逸らさないでください、父上。榛は……榛に何があったのですか!?」

「大事ない。大路で雨に濡れていた弾正尹を見つけたが、相当疲れていたようですぐに意識を失ってしまったゆえ、我が邸へ運んだ。それだけのことだ」

「…………」

 一体何があったのか、そんな短い説明ではまったく的を射なかった。

 時華の肩越しに見える御帳台では女中たちが慌ただしく動いている。

 ただ意識を失っているだけでなく、相当具合が悪いのではないのだろうか。 

 月華が不信感を丸出しにした表情を浮かべていると、時華は大きなため息をついた。

「月華」

「……はい」

「少し話をせぬか? 私と」

 そう言った時華はひどく疲れていたように月華には見えた。


 

「お前は弾正尹と親しいのか?」

 寝殿に移動し、置き畳に向かい合った時華はそう口火を切った。

 濡れた着物を着替えてきた時華は、まだ乾いていない髪から滴る雨だれを気にもせず至極真剣な顔をしている。

 月華は訝しげに父を見た。

「親しいといけないのですか」

「いや、そうではないが……弾正尹は官吏を監察する立場にあるゆえ、みなあの者を避けていると思っていた。だがお前に名を名乗るほどには親しいと見える」

「……友になれと脅されたのですよ」

「脅された、とはどういう意味だ」

「書庫で禁書を見ていたところを見つかったのです。不問にするから友になれ、と……。本人は避けられているというより、公平な立場でいるために避けているといったようなことを申していました。俺は期間限定で朝廷にいるし時がくれば朝廷を出て行く身だから、ちょうどよいそうです。半ば強引でしたが、禁書を自由に見られるように計らってくれると言うので」

 月華は榛と書庫で遇った日のことを思い出した。

 外で友を作ればいいと言った月華に対し、榛は外には出られない事情があると言っていた。

 その時はなぜ外に出られないのか追及しなかったが……こんなことになるならあの時にもっと深掘りしておけばよかった、と月華は後悔してため息をついた。

 落ち込んでいた月華を励まそうとしていたのは榛だった。

 雨の中で大路にいたということは、みつ屋からの帰りだったのかもしれない。

 このせいで榛が寝込むようなことになれば申し訳ない。

「榛は……気を落としていた俺を励まそうとして、他の官吏たちのように酒を呑みながら話をしようとみつ屋という店に行ったのです。友だからと俺のことを想って誘ってくれたのに、俺は自分のことしか考えられずにすぐに店を出てしまった」

「そうか……」

「ですが父上。榛はここにいて問題なのですか? 家の者が心配しているのでは——」

「それは問題ない」

「榛がどこの家の者なのか、父上はご存じなのですか。榛は……教えてくれませんでしたが」

「ああ、知っておる。だが今はまだ言えぬ。時がくればお前も知ることになろう」

「…………?」

 月華は不思議でならなかった。

 朝廷に仕える官吏はみな貴族で、家格によって就ける役職は決められている。

 どの家の者なのかをひた隠しにする理由がどう考えてもわからなかった。

 腕を組み、首を傾げる月華に時華は言った。

「ところでお前は書庫で何を調べていたのだ? 例の西国のことか」

「いえ……百合の異能のことです」

「ほう。それで、何かわかったのか」

「ええ、百合の寿命が短くなってしまったかもしれないということがわかりました」

 時華は先を促すかのように口を閉ざした。

 月華を射貫くようにじっと視線を捉えて離さない。

 百合を娶った時、念願の娘ができたとあんなにも喜んでいただけに、その眼差しは真剣そのものだった。

「禁書の中に百合の異能と同じと思われるものについて書かれていた『常闇日記とこやみのにっき』という書がありまして。その中には百合が使っていた術についても書かれていましたが、あの術は使えば使うほど寿命を縮めるとあったのです。最近、百合もあまり体調が良くないようだと菊夏殿から聞きました。お産のせいかと思っていましたが、どうやらそうではないようです……」

「それで? お前はどうするのだ?」

「どうすると言っても、その書にも解決策はなかったので……今はどうすることもできません」

「では諦めるのか」

「あ、諦めるなど考えておりませんっ」

「そうなのか? てっきりうじうじと悩んでいたのかと思っておった」

「はっ? どういう意味ですか」

「足を向けることもなかった東対にひとりでおったのはうじうじと考えていたからではないのか。この邸の中でお前がひとりになれるところなど、あそこ以外になかろう? 部屋はお前が使っていた頃のまま、今は誰も使用しておらぬ。他の場所であれば女中や家臣たちがおってひとりになれるところなど、この邸ではほとんどないからな」

 月華は反論できないことがもどかしかった。

 確かにそのとおりである。

 事実を知った時よりは幾分、落ち着いているもののひとりで物思いにふけっていたことは否定できない。

「はぁ……父上は何でもお見通しなのですね」

「そうでもない」

 朝廷では右大臣という要職に就き、邸に戻れば九条家当主という顔を持つ。

 息子たちと向かえば父の顔となり、嫁や孫の前では仏の顔を持つ。

 この九条時華という男はいくつの顔を使い分けているのだろうか。

 月華は父を客観的に見た時にどういう人物なのか、考えてみた。

 朝廷で働き始めたことで、右大臣がいかに高位の官職なのかよくわかった。

 代々九条家が右大臣職を務めてきたことは知っていたが、父がどれだけ大変な仕事をしてきたのかということを、月華はよくわかっていなかった。

 邸に戻れば九条家当主としてやるべきことはたくさんある。

 邸内で起こるすべてのことに関しては当主の許可が必要である。

 金子きんすの使い道から、邸に仕える者たちの人事に至るまで、松島の助けを得ているとはいえ実に多くの処理をしていると、この邸に戻ってきて目の当たりにした。

 邸のことは本来なら妻が仕切ることもできるのだろうが、父は後妻を迎えなかった。

 そのせいで負担がすべて当主の両肩に乗っているのは間違いない。

 その上、榛のような下位の官吏の面倒まで見るのだろうか。

(せめて母上がご存命なら、家のことはお任せできたのかもしれないが……)

 そんなことを考えていると、ふと常闇の術を持っていた芙蓉と親しかったという人物のことを思い出した。

 月華は、時華に訊ねた。

「そう言えば父上、ひとつお訊きしたいことがあるのですが——母上は先帝の最初の妃である芙蓉様と親しかったですか」

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