第47話 震える手
鷹司杏弥を追いかけてみつ屋を出た榛紀は途中で対象を見失ってしまった。
それは無理もないことだった。
考えてみれば帝という立場である榛紀は自らの足で京の街並みを歩いたことがなかったのである。
そもそもほとんど御所の外に出ることはなく、出かけるときはいつも牛車に揺られ、自由に乗り降りを許されず物見から景色を見ることさえなかった。
今いる場所がどこなのかも、果ては御所がどの方向なのかもわからず、あまつさえ先刻までいたみつ屋すらも見失い途方に暮れていた。
雨はさらに強くなり、分厚い雨雲がまるで夜を運んできたように辺りは薄暗い。
榛紀はますます方向がわからなくなっていた。
(我ながら何と情けないことか……)
民を守るどころか、民の暮らしすらも理解していない。
人々がどんなことを想い、どんな仕事をして日々を暮らしているのか。
それは報告書の中でしか知らないのだ。
そんな何も知らない状態で帝だとは何と滑稽なことだろう、と榛紀は思った。
彷徨ったところで無駄に体力を消耗するだけだと考えた榛紀は近くの店の軒先へ避難した。
店はすでに閉まり、雨戸も固く締められているが多少の雨はしのぐことができそうだ。
建物の壁に背を預け、腕を組みながら榛紀はみつ屋でのことを思い返す。
月華がなぜ妻のことであれほど落ち込んでいるのか、結局わからずじまいだった。
月華の妻、百合が輪廻の華という二つ名を持っていることは知っていた。
過日の事件そのものは後に報告書を読んだだけだったが、百合を巡って起こった事件で近衛柿人や土御門皐英といった優秀な人材を失ってしまったのだ。
関心がないはずはなかった。
月華の話からはその渦中にいた百合と風雅の君の呼ばれた兄とがどうつながるのかがわからなかった。
それを問いただそうとしたところで杏弥が逃げ出したのである。
みつ屋に杏弥がいたのは単なる偶然なのだろうか。
それとも追いかけてきた……?
考えれば考えるほど、答えが出ないのは情報量が少ないからだ。
すべての報告が上がってくるはずの帝のもとでさえ、隠される情報も多々あるはずである。
世間話のような、人を介して情報を得る手段をほとんど持たない榛紀にとって、求める情報が得られないのは仕方のないことだった。
(月華にしろ、杏弥にしろ、あとは本人たちから聞くより他に方法はなかろうな)
だが杏弥に問いただそうにも、影すら見えなくなってしまった。
不甲斐ない自分の情けなさに肩を落とすしかなかった。
夏だというのに冷たい雨に当たっていると身震いするほど寒い。
寒さで震える体を少しでも温めようと両腕をさすっていると、すぐ近くで牛車が停まった。
ふと見ると鬼の形相をした男がこちらに向かってくる。
(ああ、あなたはいつも私が必要とした時に来てくださる……)
何かを叫びながらこちらに向かって来るのが見えた。
安堵した瞬間に、榛紀は意識を手放した。
誰よりも先にみつ屋を出た月華はまっすぐ九条邸へ帰った。
昼間の書庫で見た禁書の内容がいつまでも頭から離れない。
百合の異能は間違いなく常闇の術と呼ばれるものだ。
なぜかはわからないが術のすべてを引き継いだわけではないようだ。
だが、術を使うごとに余命を削るという部分はどの術を使っても同じように影響されるのではないかと気になって仕方がなかった。
あの禁書『常闇日記』には異能を消す方法は書かれていなかった。
いや、もしかしたらあるはずの続きがないだけなのかもしれない。
常闇の術について書き残したのは先帝の、側室としても記録に残っていない妃——芙蓉だった。
もう彼女はこの世にはいない。
芙蓉から術を引き継いだと思われる樹光和尚もすでに他界している。
もし、知っている可能性があるとすれば芙蓉と親しかったという、日記に登場した『蘭子』という人物と先帝と芙蓉の子である風雅の君くらいだろうか。
李桜に毒を盛り、月華の知らないところで百合に接触してきた風雅の君。
今は白檀と名乗っているようだが、その行動の目的はわからなかった。
あの男にもう1度会わなければならない。
会って確かめなければならない。
月華はそんなことを考えながら華蘭庵の襖に手をかけた。
すると開けていないのに襖が急に開かれた。
そこには義妹の菊夏が立っていた。
「うわっ……お、脅かさないでください、月華様」
「菊夏殿、来ていたのか」
「はい。百合様がだるいとおっしゃるので体力を回復させるお薬を煎じてお渡ししたところです」
月華が華蘭庵に入ると布団に横たわる百合の姿が目に入った。
慌てて駆け寄ると百合は苦笑しながら体を無理して起こそうとしたため、月華はすぐに布団へ戻した。
「申し訳ありません、月華様。どうやら夏の暑さに負けたのではないかと……」
「無理するな、百合」
布団に横たわる百合の手を月華が握ると安心したように目を閉じた。
「問題ありませんよ、月華様。薬が効いてきたのだと思います。少しお休みになればまたお元気になりますから。それでは私はこれで」
菊夏は静かに襖を閉めると音もなく去っていった。
月華はすやすやと眠る百合の頭を撫でながら、その手が恐怖で震えていることに気がついた。
自分の意思ではどうしようもないくらいに震えが止まらない。
もし百合が異能を使い過ぎたせいで余命を短くしていたとしたら?
この命の灯はあと少しで消えるとしたら?
異能を消したところで短くなった寿命が元に戻る保証はないとしたら?
考えれば考えるほど、失うことを想像して手が震える。
すぐ近くでは娘の花織を百合に代わってあやす女中の姿があった。
あやされる花織は嬉しそうに微笑んでいる。
「月華様、姫様をお抱きになりませんか」
女中から受け取った娘はまだ小さく軽いのに、全力で生きようとしているのが伝わってくる。
そう感じた時、月華は負の方向へ考えていた思考を止めた。
花織にはまだこれから長い人生がある。
娘が成長する姿を百合にも見てもらわなければ困る。
春には桜を眺め、夏には川で水遊びをし、秋には栗を拾って、冬には雪で遊ぶ。
そんな憧れの生活をこれから何年も重ねていくことができなければ困る。
いつか百合と行った反物屋の店主のように、彼女とふたりでこの娘を育てていくことができなければ——生きている意味がない。
月華は再び花織を女中に預けると急いで華蘭庵を出た。
華蘭庵は敷地の南側にある池に作られた中島に建てられている。
池から庭までの橋を渡り、回廊を歩く菊夏を見つけた月華は思わず叫んだ。
「菊夏殿っ!」
振り向いた彼女は月華の慌てように目を見張った。
幕府で働いていた頃から、常に冷静沈着で急いでいることはあっても慌てていることなど見たことがなかったのである。
「月華様、どうなさったのですか」
「百合の病状のことだが——」
「百合様の? 何か急変しましたかっ!?」
「いや、そうじゃない」
ひと呼吸おいて落ち着いた月華は真剣な眼差しで言った。
「百合の病状だが、もしかして症状はあっても原因はわからないんじゃないか?」
「……はい、おっしゃるとおりです。実は、時々だるいとおっしゃったり、めまいがするとおっしゃったりと症状は様々で調子がいい時と悪い時との波が激しいように見受けられます。ですが、私が診た限りではご病気と言えるような決定的な何かがあるようには思えないのです」
「やはりそうか……」
間違いなく、百合の寿命は縮んでいるのだろう。
これまで異能を使ってきたことで体にかかっていた負担が少しずつ表面化しているのかもしれない。
「月華様は何か心当たりがおありなのですか」
「……いや、俺にもわからない。菊夏殿、引き留めて悪かったな」
苦渋の表情で菊夏は頭を下げた。
薬師である彼女も百合に対してどう処方していいのかわからず苦悩しているのようだ。
朝廷勤めをしながら弟の世話もして、その上百合のことで悩ませてしまっていることに月華は心が痛んだ。
悠蘭が菊夏の様子がおかしいと言っていたのはこのせいなのかもしれないと思った月華は、頭を下げる義妹に対しておもむろに口を開いた。
「菊夏殿、もしかして百合のことで何か悩ませているんじゃないか」
「え……?」
驚いて顔を上げた菊夏はきょとんとしていた。
何度も瞬きをしている。
「夫婦のことに口を出すのは差し出がましいことだが、悠蘭が拗ねていてな」
「拗ねている、とは?」
「最近菊夏殿の様子がおかしい、何か悩んでいるようだが話してくれない、と言っていた」
「悠蘭様が、ですか?」
「ああ。菊夏殿は薬師としての仕事もあるだろうし、我が弟ながらこう言ってはなんだがああいった少し捻くれた夫の世話をしながら百合のことをも診てくれているのだろう? だから負担をかけているんじゃないかと——」
「ふふっ。月華様、それは悠蘭様の誤解です」
「誤解?」
「はい。私が悩んでいるのは自分自身のことです。何の実績もない私が朝廷の役に立っているとは思えなくて。それにあんなにお忙しい悠蘭様のお役に立てている気もしないのです。あの方のお子を授かる気配もないし……私、九条家のお役にさえ立っていないのが不甲斐なくて」
菊夏の答えに月華は面食らった。
そんな些細なことで……?
と思うほど月華にとっては小さなことだったが鎌倉からひとり、遠く離れた京に嫁いできた彼女にとっては大きなことなのだろう。
だがそれも、生きていてこそ感じられるものだ。
この先、末永く未来があるとわかっているからこその悩みなのだ。
月華は俯く義妹の頭を撫でた。
かつて鎌倉にいた頃にはよくこうやって菊夏の頭を撫でたものだが、すっかり大人になったのだなと思うと感慨深いものがある。
「菊夏殿は今のままで問題ないよ」
「…………?」
「朝廷の役になんて立つ必要はない。有事の時にその能力を必要とされているだけだ、春先の李桜の時のようにな。子は授かりものというから無理する必要はないし、たとえ生涯、子を授からなかったとしても九条家が不満を抱くことなど万にひとつもない」
「そうでしょうか」
「あの父上を見ただろう? 百合や菊夏殿が嫁に来てくれただけで念願の娘ができたと手放しで喜んでいるような人だ。それとも悠蘭が不満を漏らしていたのか」
「い、いいえ、決してそのようなことはっ! 悠蘭様はいつも優しく包み込んでくださいます」
「では何も問題はないな。もし九条家の中で菊夏殿に不満を漏らす者がいれば俺に言えばいい。俺はこの家の次期当主だ。その俺がいいと言っているんだから、誰も文句は言うまい」
そう言って月華は、悠蘭の帰りを待って話をしてみるという菊夏を送り出した。
菊夏と他愛のない会話をしたことで月華は我に返った。
現状の不安要素に不満を抱いている場合ではない。
悩んだところで何も始まらないのだ。
1度にすべてが解決する問題などあり得ない。
問題とは常に複雑に絡み合っている。
ひとつずつ紐解きながら解決していく以外に方法はない。
降り出した雨が妙に心を静めていった。
月華はひとり、考えを整理するためにかつて自分が使っていた、今は誰も使っていない東対へ向かった。