第46話 皐英の文
降り出した雨の中、みつ屋を飛び出した鷹司杏弥は一目散に邸へ戻った。
門番を怒鳴りつけて門を開けさせ、濡れたままの状態で邸の中へ雪崩れ込む。
とにかく確認しなければならないことがあったからだ。
雨に濡れた朝服は一層濃い碧色に変わっており、髪からもぽたぽたと雫がしたたっている様子をすれ違う女中たちが驚きの目で見てきたが、それを咎めたり構ったりするほどの余裕などなかった。
自室の文机に辿り着くと、杏弥は行動を起こすきっかけとなった文を探し始めた。
前の陰陽頭が残した証拠品から偶然、杏弥が見つけた文である。
書物や他の書簡に紛れてなかなか見つからないことに苛立ちながら、杏弥は必死で考えた。
みつ屋で聞こえてきた話が頭の中を堂々巡りしている。
——月華の妻は、ちょっと変わった異能の持ち主なんです。
そんな行で始まった西園寺李桜たちの話から耳を逸らすことができなかった。
盗み聞きするつもりはなかったが、昼間に対峙した月華の話題だとわかると耳は自然とそちらへ向いていた。
——亡くなった人の業を解き放つ術らしいよ。
その言葉が聞こえてきた時、杏弥は心の蔵が止まるのではないかと思うほどの驚きを得た。
それは先日、図らずも持ち出してしまった禁書にまったく同じことが書かれていたからである。
風雅の君のことを調べようと手に取った『白蓉記』と一緒に持ち出してしまったもう1冊の禁書——『常闇日記』。
『業解きとは身命を賭した者をすべての業から解き放つ術である。
身命を賭した者が来世でも望んだ世界へ生まれ変わることは容易ではない。
人ならざる術で輪廻を改変する。
それが業解きの術だ』
あの禁書にはそう書かれていた。
あれを読んだ時には大して気にも留めていなかった。
本当にその術が存在するという現実味がなかったし、だいたいにしてあり得ないことだと思ったからだ。
だが、妻がその異能を使ったところを月華が見たという話が聞こえてきて杏弥は釘付けになった。
そして李桜はこうも言っていた。
——確か百合殿は長い間、奥州の戦場で『輪廻の華』と呼ばれていたとか。
輪廻の華。
この言葉は頭の片隅にいつも引っかかっていた。
杏弥はやっとのことで見つけた文を乱暴に開く。
そこに書かれている内容にもう1度、目を通した。
『白檀様、やっと輪廻の華を捕らえることができました。
今、近衛邸の倉に閉じ込めております。
間もなく倒幕の準備が整うでしょうから、輪廻の華の存在を出しに西国各国の協力が得られれば、
その先は風雅の君の出番です。
倒幕が叶い、朝廷を乗っ取ることに成功した暁には私に輪廻の華を預けていただきたく、
お願い申し上げます』
確かに土御門皐英が茶人に宛てた文にはそう書かれている。
——百合殿は倒幕の兵集めと士気を上げるための道具としてその異能を必要とされ、狙われていました。
あの李桜の話は、文の中の近衛邸の倉に閉じ込めているという行に繋がっているに違いない。
そして最も度肝を抜かれたのはその後に言った李桜と今出川楓の会話だ。
——春先に起こった連続毒殺事件に関わっていた白檀という茶人も輪廻の華の居所をしつこく訊いてきましたしね。
——風雅の君も前の陰陽頭の友人で、彼が輪廻の華を追っていなければ死ぬことはなかったというような主旨のことを言っていた。
土御門皐英は白檀という茶人宛にしたためた文の中で輪廻の華を利用して兵を集められれば風雅の君が朝廷を治める時が来る、という主旨のことを述べている。
そして成功した暁には輪廻の華を自分に預けてほしいと懇願しているのだ。
さらに楓は不可解なことを言っていた。
——風雅の君は輪廻の華を利用することに反対していたということか? でもそうなると居場所をしつこく訊いてきたという李桜の話と辻褄が合わぬ。
つまり輪廻の華を追っていて命を落とした皐英は風雅の君の友人で、風雅の君は輪廻の華を利用することに反対していた。
そこでわからないのは『居場所をしつこく訊いてきたという話と辻褄が合わない』という部分である。
…………。
もしかして、白檀と風雅の君は同一人物なのか!?
考えると杏弥は目の前の霧が徐々に晴れていくように感じた。
杏弥はその仮説のもとにもう1度、皐英の文を仮定する人物に当てはめて読み直した。
『風雅の君、やっと百合を捕らえることができました。
今、近衛邸の倉に閉じ込めております。
間もなく倒幕の準備が整うでしょうから、百合の存在を出しに西国各国の協力が得られれば、
その先はあなたの出番です。
倒幕が叶い、朝廷を乗っ取ることに成功した暁には私に百合を預けていただきたく、
お願い申し上げます』
そう読んでみた時、杏弥はすべての内容が腑に落ちた。
皐英は風雅の君に向けて文を出していた。
親幕派と言われる今の朝廷内を覆し新しい朝廷をつくるために倒幕派であった前の左大臣とともに異能を持つ百合という人物を使って兵を集め、倒幕を目論んでいた。
新しい朝廷がつくられればそこに風雅の君を据える。
その褒美として百合を預かりたい、ということか。
やはり風雅の君は帝位に就くことを望んでいるのだろうか。
だがそうなると楓の言っていた風雅の君は輪廻の華を利用することを反対していたという話には繋がらない。
そもそも百合という女子は月華の妻なのではないのか。
——俺の妻子に手を出した際にはその首と胴体が繋がっていられないことを心得られよ。
そう脅してきた月華の様子を考えれば、妻を溺愛しているのは明らかである。
では皐英と月華は百合を取り合っていたということだろうか。
……いや、それはあり得ない。
月華は『妻子』と言ったのだ。
子がいるとなれば昨年の晩秋に起こったあの事件の時にはすでに月華の妻となっていなければ少し計算が合わなくなってくる。
杏弥はますます混乱してきた。
そして、いろいろと思い出しながら沸々と怒りがこみ上げてくる。
備中国へ出向いた時のことである。
涼しい顔をして野点を催した茶人——白檀。
あの男こそが風雅の君だったということだ。
そうとも知らず、風雅の君に取り入ろうと白檀に対し探りを入れるようなことをしてしまった自分を思い出し、急に恥ずかしくなった。
彼にとっては本人を前に必死に取り入ろうとする姿がどんなに滑稽に映ったことだろうか。
「馬鹿にしてくれたものだっ」
杏弥は手にしていた文を投げつけた。
湿った文は音もなく床に落ちる。
偶然、東対の近くにいた桂田は荒げた主人の声を聞き駆けつけた。
文机の前に崩れ落ちるように膝を折る杏弥は全身が濡れている。
桂田は主人の様子に声が裏返るほど驚いた。
「き、杏弥様、ずぶ濡れでどうなさいました!?」
問いかけに疲れ切った表情を見せる杏弥。
桂田は慌てて傍まで駆け寄った。
「桂田か……」
「どうなさったのですか。何があったのかこの桂田にお話しくださいませ」
杏弥はみつ屋で耳にした話を皮切りにこれまでの推理をすべて桂田に話した。
備中国で野点を主催していた茶人こそが風雅の君であること。
すなわち皐英がしたためた文は、風雅の君宛であったこと。
そこに書かれていた輪廻の華とは九条月華の妻であること。
そして輪廻の華は異能を持っているということ。
話をしているうちに冷静さを取り戻してきた杏弥はふと思い出したことを口にした。
「そう言えばあの禁書、著者は風雅の君の母上であったな……」
「あの禁書?」
「ああ、俺が書庫から持ち出してしまった2冊のうちの1冊だ。書名に『常闇日記』と書かれていて、それを書いたのは芙蓉様——つまり風雅の君の母上のようだった」
「ではその芙蓉様も異能を持っていた、ということでしょうか」
「そうかもしれぬ。あの中ではその異能を『常闇の術』と記していたが冒頭に『血で受け継がれることはなく、人から人へと受け継いでいく忌むべき術』と書いてあった」
「人から人へ、ですか。まるで流行り病のようですな。では百合という女子は芙蓉様から異能を引き継いだ、と?」
「いや、それはわからぬ。もう1冊の禁書『白蓉記』に寄れば、芙蓉様が亡くなってからずいぶん経つし、そもそも先帝は芙蓉様をほとんど外に出さなかったようだ。百合なる人物が芙蓉様と接触する機会があったとは思えぬな」
「まあ、いずれにしても風雅の君と接触するために輪廻の華を利用するのがよさそうですね」
桂田はあっけらかんと言った。
「……何だって?」
「目的はわからなくとも風雅の君はしつこく輪廻の華の居場所を訊ねていたというではないですか。ではこちらから差し出せばよいのでは?」
「お前……俺の話を聞いていたか!? 輪廻の華は九条家の嫁なのだぞ? どうやって手中に収めるというのだ。あの怪しい呪術使いだった前の陰陽頭をしても手に入れられなかったのは、月華が——いや、九条家が守っているからに決まっている」
「ですが一生、邸を出ないわけではないでしょう。邸を出るように仕向け、その隙をつくのですよ」
「何かいい方法でもあるのか?」
「それは——これから考えます」
「…………」
それは杏弥も考えが及ばなかったわけではない。
だがあの月華の様子からして、妻を手放す瞬間などあるとは思えない。
そんなことをするよりも、馬鹿にされて腹立たしくはあるが真正面から風雅の君にぶつかり後ろ盾を頼んだ方が、よほど実現可能性が高いように杏弥には思えた。