第45話 拒絶と執着
仏堂と離れを繋ぐように建てられている母屋の土間に入ったずぶ濡れの3人は呆れ顔の雪柊に対面した。
当然、紅葉は棗芽の肩に米俵のように担がれたままだった。
全員髪や着物から雨粒が滴り、土間はあっという間に色濃く染まっていく。
「ちょっと、降ろしなさいよ!」
紅葉が暴れる度に棗芽の隣に立つ紫苑に水滴が飛んだ。
棗芽は紅葉を降ろすつもりはないらしい。
深いため息の後に雪柊は言った。
「棗芽、早く降ろしてあげなさい」
「それはできません。また外に出られでもしたら危険です」
「だからってそんな状態でずっといるつもりかい」
呆れ顔の雪柊をよそに、紫苑は流し目で隣にいる男女に視線を送った。
棗芽に会うのは何年ぶりのことだろう。
見た目は全く変わっていないが中身は別人と入れ替わったのだろうか。
以前はこんなに積極的に人と関わろうとしない人だったのに。
視線に気づいた棗芽は平然と答えた。
「何ですか、紫苑。私の顔に何かついていますか」
「いえ、そういうわけじゃ……ただ、棗芽様が女子と抱き合ってるなんて意外だったもんで——」
「抱き合っていません」
「抱き合ってないわよ」
同時に反論した男女の息はぴったりだった。
口にした本人たちが一番驚いていたが、すぐにまた紅葉が暴れ出した。
「棗芽っ! いつまであたしを担いでるつもりなの!?」
棗芽はまるで取り合わなかった。
涼しい顔でしっかりと紅葉の体を固定している。
棗芽を呼び捨てにするこの女子は何者で、ふたりはどういう関係なのだろう。
紫苑は訝しげに女子を見た。
どこにでもいそうな素朴な外見だったが、中身はずいぶんと勝気な性格のようだ。
貴族の娘には見えないが、武家の娘だろうか。
「棗芽。いいから紅葉を降ろしなさい、彼女は私が預かるから。そしてずぶ濡れの君たちはまず着替えること。鉄線に着替えを用意させるから君たちはとりあえず仏堂にでも行ってなさい」
雪柊にそう言われ、棗芽は渋々紅葉を肩から降ろした。
壊れものを扱うかのようにやけに丁寧に土間に立たせた棗芽の仕草に紫苑は目を見張った。
雪柊に紅葉を預けると、棗芽は黙って仏堂へ向かった。
「ところで紫苑、君はどうしてここにいるんだい」
「最近体が鈍ってるから叔父上に鍛えてもらおうと思ってきたんですけど、まさかこんな本降りになるなんて京を出た時には思わなくて……叔父上、これ、土産です。包みは濡れてるけど中身は大丈夫だと思います」
紫苑に差し出された濡れた包みを開くと蓋の付いた陶器が顔を出した。
開けると中にはわらび餅が入っていた。
確かに餅にかけられたきな粉は濡れていない。
「ああ、ありがとう。紫苑、悪いが棗芽のことを頼むよ」
そう言って雪柊は預かった土産を近くに置くと離れの方へ紅葉を連れて行ってしまった。
(もしかして面倒な場面に遭遇しちまったか……!?)
頭を掻き、紫苑は水を滴らせながら仏堂へ向かった棗芽を追いかけた。
紫苑が仏堂に入ると、着替えを終えた棗芽が胡坐を掻いて座っていた。
濡れた長い三つ編みは解かれ、乾いていない髪は着替えた着物の背中を湿らせている。
頭に手ぬぐいをかけているがそれはただ頭上に乗っているだけで何の役割もはたしていなかった。
棗芽はなぜか自らの両手を見つめている。
紫苑は仏堂に向かう途中で鉄線から手渡された着物を手に、棗芽に近づいた。
近くで乾いた着物に着替えながら紫苑は言った。
「棗芽様が悩んでるなんて、珍しいこともあるもんですね」
「悩んでいる? この私が?」
「違うんですか?」
「悩んだことなどないからわかりませんね」
「じゃあ何で手を見つめてるんですか。まるで掴みたいものが掴めなかったことを後悔してるように見えますけどね」
棗芽は黙して何も答えなかった。
疑問を抱えているようにも見える。
紫苑は脱いだ着物を軽く畳みながら続けた。
「一体何があったんですか」
「何って、何もありませんよ。あの紅葉は備中国から逃れて師匠を頼って来たのです。追手を放たれていたので私がその追手を始末しました。以前はもっと気楽に話せていたのに、紅葉は急に私を拒絶するようになってしまった」
「拒絶? あなたに限ってそんなことはないと思いますけど、相手が嫌がることをしたんじゃないでしょうね」
「嫌がることとは何です? 私はただどこへ行っていたのかと師匠に問われたから鎌倉から戻ってきたと答えただけですよ。それなのに突然、月華の知り合いなのかとか、幕府の人間なのかとか言い出して、急に山を降りようとしたのです」
「棗芽様はあの女子がここを出て行ったら困るのですか」
それまで俯いていた棗芽は紫苑を見上げた。
その瞳は驚愕に満ちている。
それがなぜなのか紫苑にはさっぱりわからなかった。
雪柊を頼ってきた備中国の女子を助けたくらいで、そこまで肩入れするものだろうか。
雷雨の中、飛び出して行ったことを危ないと思って助けたことまではわかる。
だが、私を拒絶するようになってしまって、とはどういう意味だろう。
まるで拒絶されたくないように聞こえる。
棗芽は珍しく思案するように表情をころころと変え、最後には冷笑を浮かべた。
「彼女は私と兄上が睨んでいる相手の懐に深く刺さっている。だから手元に置いておけば何かの役に立つかもしれないと思って助けました。だが、おそらくそれだけではない……」
自分でも自分のことがよくわからない。
そんな葛藤がにじみ出るような棗芽にしては弱々しい声音だった。
ずぶ濡れの紅葉を連れて離れに来た雪柊は百合が残していったという替えの着物を彼女に手渡した。
着替えるように部屋に押し込むと閉めた障子を背に雪柊は廊下の板間に膝を折った。
雷雨のための雨戸が閉められ、境内の景色は見えない。
聞こえる雨音からすると本降りになってきているのは間違いない。
「紅葉、君は備中国を出てきて行くところがないはずなのに、どこに行こうとしていたんだい」
障子越しでも一瞬、衣擦れの音が止まったのがわかった。
紅葉はひと呼吸置いて答えた。
「行く当てはなくても、幕府と関りのある人とは一緒にいれません」
「幕府に関りがあるって棗芽のことかい」
「九条月華の話をしていましたよね。月華は幕府の人間じゃないですか。あの人と一緒にいることで白檀様に類が及ぶのは耐えられないから……お世話になったのに不義理で申し訳ありませんが、あたしはもうここにはいられません」
「彼は幕臣ではないよ」
「え……?」
その時、障子が勢いよく開かれた。
雪柊が振り返ると着替えを終えた紅葉が立っていた。
「う、嘘でしょ? だって先刻は鎌倉に行っていたとか、月華の代わりがどうのこうのと言ってたじゃないですか。それでも幕府と関係ないと言い張るつもりですか」
「うーん、どこから話せばいいのかな……確かに無関係ではないけど、幕府に仕えているわけでもないよ」
「おっしゃる意味がわかりませんっ」
「ただひとつ言えることは、なぜだかわからないけどあの子は君を大事にしている、ということだね」
「…………っ!」
瞬間に赤面した顔を着物の袖で半分隠す仕草を見ると、強がっていても年頃の乙女なのだとわかる。
まるでいつかの百合を見ているようだ、と雪柊は思った。
百合も頑固で言い出したら聞かない女子だった。
過酷な運命を背負い、それを誰にも打ち明けることなくただ求められるままに生き、一刻も早く死ねることを望んでいた。
自ら命を絶つことができない呪いのせいで彼女はずいぶん苦しんだ。
思えば樹光はなぜ百合に異能を引き継いだのだろう。
それは最後までわからなかった。
だがそんな彼女もいつの間にかよき伴侶を得て巣立っていった。
紅葉も背負っているものが大きすぎるのだろう。
山吹という男が風雅の君を守っているはずだが、紅葉も命を捧げると決めているという。
それは命を救われたからだと言っていた。
それほどまでに風雅の君を愛しているのか。
その割には棗芽に執着しているのはなぜだろう。
雪柊はおもむろに立ち上がると紅葉に言った。
「いずれにしてもこの雨ではどこにも行くことはできない。風雅の君のために捧げる命なんだろう? こんなところで無駄死にするくらいなら、腹に据えかねることがあっても雨が止むまで我慢した方がいいんじゃないかい?」
廊下を歩き出した雪柊は一瞬、振り返った。
「今、棗芽をここに寄越すから君たちは少し腹を割って話した方がよさそうだね」
「えっ、ちょっと、雪柊様!?」
あからさまに拒絶反応を示した紅葉を無視して雪柊は去っていった。
「な、何であたしがあいつと話しをしないといけないのっ」
紅葉の不満はむなしく廊下に消えた。