第44話 夕立に打たれて
先刻まで風が砂埃を巻き上げていたはずの境内にはあちこちに水たまりができていた。
空はどす黒く時折、稲光も見える。
紅葉は夕立の中、泥をはねながら麓へ下りる石段へ一直線に走った。
紅蓮寺へ来たのは望まぬ未来から逃れるためだった。
心から忠誠を誓う主人が道を示してくれたことに甘えていた。
だから国に帰ることはできない。
寺を出ても他に行く当てはないが、主人を脅かすかもしれない相手がいるここにはもういられない。
備中国の三公がなぜ輪廻の華を執拗に追っているのかはわからないが、彼女を追っていた近衛柿人と土御門皐英は六波羅にいる北条鬼灯に征伐された。
輪廻の華を追わせていたのが三公だったということは鬼灯にまだ気づかれていないようだが、鎌倉幕府を倒そうと試みたから近衛家は征伐されたのだ。
今のところ鬼灯はなりを潜めているが、第2、第3の近衛柿人が現れた際には躊躇なく粛清するに違いない。
鬼灯は幕府から京に派遣された男である。
幕府が備中国に目を付けている可能性はある。
結局尻尾を掴めなかった怪しい鼠は幕府から派遣されていたのかもしれない。
三公が輪廻の華を追い続ける限り、倒幕を目論んでいると思って六波羅の男は刃を向けてくるだろう。
忠誠を誓っている主人——白檀が気にかけている九条月華のことも信用ならない。
彼は鎌倉幕府の人間で、鬼灯の腹心だ。
つい先日だって鎌倉軍の武将として戦場を駆けていた。
輪廻の華はその月華の妻となったらしい。
つまり輪廻の華を追い続けるということは月華を、ひいては鬼灯を敵に回すことに他ならない。
それはそのまま白檀の居場所を脅かし、その身を危険に晒すことに繋がる。
山吹の話によれば月華は白檀に対して刀を向けたことがあるという。
白檀が幕府の関係者に捕らえられ、傷つけられるところは見たくない。
紅葉はふと、初めて白檀に遇った日のことを思い出した。
雅な牛車の中で飽きるまで食べさせてくれた干菓子の味と、その時の白檀の微笑は今でも忘れることはない。
このまま死ぬのかもしれないと思った幼い頃。
傷ついた兄を手当てし、助けてくれた白檀は神のような存在だった。
そばに仕え自分が成長するうちにその存在は愛しい存在となっていった。
白檀のことは誰にも傷つけさせない。
そのためには自分は彼を守る盾にならなければならない。
そうやって紅葉は自分を鼓舞してきた。
だがそんな強くあろうとする自分の世界に突如現れた棗芽には終始、調子を狂わされた。
多少強引で持論を押し付けてくるところがあるが、それを嫌だと思わない自分も不思議だった。
これまで命の恩人である白檀を守るために自立しなければならないと強く自分に課してきた紅葉にとって初めて大きな何かに包まれて守られるような感覚を覚えた。
だからその存在が急にいなくなった時に不安を感じていたのかもしれない。
しかしそれは幻だったのだ。
白檀のいる備中国を脅かす幕府側の人間は、紅葉にとっても敵なのである。
月華が紛れもない鎌倉幕府の武将であるのをこの目で見た。
その月華と知り合いのように言う棗芽のことはもう信じることができない。
もし白檀と棗芽、ふたりの恩人が敵対するとしたら、どちらかを選ばなければならない。
それはある意味、紅葉にとって衝撃的なことであった。
これまでなら迷わず白檀を選んだはずなのに、なぜだろう。
今はどちらかを選ぶことなどできない、と思う。
飛び出した境内から見える遠くの空には龍が降りてきたかのような光が見える。
だいぶ遅れて大きな音が響いた。
雨足は一層強くなり、濡れた髪をつたう雨だれが目に入る。
目の前が霞むのは雨だれのせいか、それともとめどなく零れる涙のせいか——。
「紅葉っ」
紅葉がずぶ濡れになりながら石段に差し掛かろうとしていた時、猛烈な勢いで追いかけてきた棗芽に腕を掴まれた。
咄嗟に掴まれた腕を見ると自分が付けた歯形が赤く手の甲に残っている。
見上げると怒りに満ちた表情で棗芽が見下ろしていた。
初めて見る表情だった。
「馬鹿なのか、君は!」
「……なっ、何よ。離してよ」
「あの稲光が見えないのかっ! こんなところに突っ立っていては雷に打たれるだろうがっ」
これまで不気味に笑っている顔しか見せたことがなかった棗芽が目頭を寄せて叫んでいる。
掴まれている腕にはこれまで感じたことのないほどの力が入れられており、本気で怒っているのだとわかった。
「あたしのことは放っておいてよ」
「話は後だ。ずぶ濡れのままでいたら体を壊す」
棗芽は口調まで変わり、まるで別人にようになっていた。
強引に連れ戻そうとする棗芽に紅葉は全力で抵抗するがその力は遠く及ばなかった。
「あたしとあなたは何の関係もない赤の他人じゃない。これ以上あたしに構わないで」
「話は師匠から聞いている。君は備中国を逃れてきたそうじゃないか。先日の男たちが追手だと言うなら、この寺を離れるのは危険だ」
早口でまくしたてた棗芽に反抗して紅葉は1歩足を引いた。
するとその足が石段の1段目の角に当たり、足を滑らせて後ろへ体を持っていかれそうになる。
「——あっ」
思わず声を上げたその時——。
「突然降り出して来るなんて、ついてねぇな」
仕事を途中で切り上げた久我紫苑は京のみつ屋で手に入れたわらび餅の包みを小脇に抱え、紅蓮寺へ向かう石段を駆けあがった。
途中、雨足が強くなった上にごろごろと今にも落ちそうな雷音まで聞こえてくる。
「ちっ、山の天気は変わりやすいって言うけど、何も俺がここへ来るときに変わらなくてもいいじゃねぇかよ。もしかして叔父上に歓迎されてないのか……?」
ひとり呟いて108段の石段を徐々に上っていた紫苑は息ひとつ乱していなかった。
ふと山頂を見上げると、強まる雨足の中にふたりの男女が揉めているのが見えた。
一瞬足を止め、目を凝らしてみる。
内容は聞こえないが雨音でかき消される中、ところどころ張り上げた声が聞こえる。
様子を確かめようと紫苑は速度を上げて石段を上っていった。
近づくにつれ、紫苑は信じられない光景を目の当たりにすることなる。
揉めている男女のうち、男はよく見知った人物であった。
雪柊の1番弟子であり紫苑もよく世話になった鬼灯の弟、その人である。
紫苑は昔から一緒に修業をしてきた棗芽のことをよく知っていた。
武芸だけではなく学問にも優れ、文武両道とも言える憧れのひとりだった。
ただあまり器用な方ではなく、思ったことを思ったままに発言してしまうために周りからはよく「毒吐き」と言われているようだ。
毒を吐くと言えば西園寺李桜もそうだが、棗芽のそれは李桜以上に遠慮がない。
そのため人付き合いは少なく、まして女子と戯れているなど見たことがなかった。
端麗な容姿に女子が寄って来そうなものだがあの性格では女子の方が逃げていくことだろう、と何度思ったことかわからない。
だが紫苑は知っている。
棗芽が敬語を使っているのはその直球で口にしてしまう物言いを隠すため、そしていつも笑顔を崩さないのは相手に対して感じる感情を表に出さないためなのだ。
本当は喜怒哀楽の激しい人なのに、喜び、怒り、哀しみの感情を押し殺して生きることで相手を不快にさせないように努力している。
そのことはほとんど誰も知らない。
だからみな棗芽の微笑を不気味だと思っているのだった。
そんな棗芽が女子と言い合っており、その上珍しく声を荒げている。
そしてもみ合っているうちに女子を抱き寄せたかと思うと、その瞬間、彼らと紫苑の間に一筋の稲光が落ちた。
落ちた石段の上は黒く変色し、湯気をくゆらせている。
3人は雷が落ちた場所を無言で見つめた。
すると紫苑の頭上から、声が聞こえてきた。
「ちょっと、降ろしてよっ!」
女子の叫び声だった。
紫苑が見上げると、先刻まで抱き合っていたように見えた女子は棗芽の肩に担がれていた。
「暴れるな」
「何でいつも肩に担ぐのよっ! あたしは米俵じゃないんだけどっ」
言葉を失い唖然とそのやり取りを見ていた紫苑に棗芽は言った。
「紫苑、ぼうっとしていないで早く来なさい。もう1発来ないとも限りませんよ」
「……は、はいっ」
棗芽に促され紫苑は雨の中、女子を肩に担いで走る兄弟子の背中を追いかけた。
(今、『暴れるな』って命令しなかったか……!?)
紫苑にとっては女子を肩に担いでいることよりも、棗芽が素の自分を出していることの方が何よりも驚きだった。