第43話 繋いだ手と裏切り
月華たちがみつ屋に集まっていた同じ頃。
まるで嵐の前触れのような分厚い雲が広がるのを呆然と眺めながら紅葉は境内の掃き掃除をしていた。
時折強く吹く風は境内の砂埃を巻き上げる。
その荒んだような景色は不吉な予兆のようだった。
紅葉はいつもの忍びのような装束でなく、雪柊に用意された普通の着物を着ていた。
もちろん刀を背負っていないだけで女子らしく見えるが、普通の着物を着ていれば一層、しおらしく見えた。
紅蓮寺へ来てから6日ほどが経過した夕方だった。
まだ数日しか経っていないが、この山寺は訊ねてくる者がいない静かな場所である。
長年暮らしてきた武家は、妹尾家の者以外にも三公がおり、白檀がいて、多くの家臣が暮らす賑やかな大所帯だった。
邸の中を少し歩けば誰かとすれ違うくらいの有様だったのに、ここに来てからは雪柊と鉄線だけ。
3人の暮らしは妙に寂しく感じられた。
寺の麓で追手に襲われていた時に助けてくれた棗芽という男は、その後、目覚めた時にはいたはずなのに、気がついた時には姿をくらましてしまった。
どこへ行くのか訊く暇もなかった。
戻ってくるのだろうか。
そもそも何者なのかもわからないのに、また会えるのかどうかを心配しているのは自分でも滑稽だった。
端正な顔立ちに長い髪を三つ編みにした男。
2尺以上はあろうかという太刀を背負い、明らかに武士なのはわかったがどこかの家臣のようには見えず、風来坊さながらだった。
あれだけ大きな刀を持ち歩くのだからさぞかし腕は立つのだろう。
紅葉がぼんやりと棗芽の姿を思い浮かべていると、後ろから声をかけられた。
「紅葉、ぼうっとしてどうしたんだい」
振り向くとそこには同じように箒を片手にした紅蓮寺の住職、雪柊が立っていた。
鈍色の着物を着た僧侶で、白檀とは旧知の仲だという。
一体どこで知り合ったのだろう。
「す、すみません。居候のくせに……決して手を抜いていたわけでは——」
「責めているわけじゃないよ」
「…………」
「むしろ私は昔を思い出して少し楽しいくらいだ」
「楽しい?」
「そうだよ。少し前にも紅葉と同じようにこの寺には女子が暮らしていたんだ。百合と言ってね。ちょうど離れの、君が今使っている部屋と同じところにいたんだよ」
「今は……いませんね」
「ああ。お嫁に行ってしまったんだ」
「迎えが、来たのですか」
「迎え……まあ、そんなところだね。自分の娘のように可愛かったものだからその辺の男には嫁にやるつもりもなかったけど、骨のある者だったから嫁に出してもいいと思ったんだ。子どもも生まれて幸せそうにしているからいいんだけどね。百合がいなくなってから鉄線とふたりの暮らしに戻ってしまったんだけど紅葉が来てくれてからまた賑やかになって楽しいよ、毎日」
「へぇ。会ってみたいですね、その骨のある男。武士なのですか」
「そうだね。私の弟子でもある。たまにふらっとここに来るから君も会うことがあるかもしれないね」
雪柊はそう言うと鼻歌を歌いながら境内の掃除の続きを始めた。
この寺は人を預かる避難所のようなところなのだろうか。
駆け込み寺という風にも見えないが……。
紅葉はご機嫌の雪柊に言った。
「雪柊様、白檀様もこの寺にいらしたことがある、のでしょうか」
「え? 風雅の君が?」
「……雪柊様はいろんな方と関りがあるようなので——棗芽、とか」
なぜ棗芽の名前が口を突いて出たのかわからなかったが、何となく忽然と消えた彼が寺とどういった関りがあるのか気になってしまう。
「はははっ。棗芽は私の弟子だから関りがあるけれど、風雅の君と刻をともにしたのは私が仏門に入る前のことさ。私もかつては官吏として朝廷勤めをしていたんだ」
今の姿からはまったく想像もできず、紅葉は空いた口が塞がらなかった。
確かに朝廷の官吏として働いていたのなら白檀と親しかったとしても頷ける。
「そんなことより、棗芽のことが気になるのかい」
「え……?」
「棗芽が姿を消してから紅葉はずっと俯いているように見えるけど」
「そ、そんなことありませんっ」
「そうなのかい? まあ、あの子は腕っぷしは強いし頭も切れる。おまけにあの容姿だからね。惚れるのもわかるよ」
「だ、だからそんなんじゃありませんっ」
「多少、性格に問題はあるがああ見えて気遣いが行き届いているんだよ、意外と」
それは気づいている——紅葉はそう心の中で答えた。
追手の男たちを目の前で倒していた時も、棗芽は決して男たちを殺さなかった。
それは紅葉の前で息の根を止めることを避けたからだろう。
男のひとりが手を伸ばしてきた時に、首を落としてしまいたいが今日のところはやめておくと言っていた。
あれは棗芽なりの気遣いだったと紅葉は思った。
「あの、雪柊様。棗芽はどこに行ったんでしょう?」
「やっぱり気になるかい?」
「気になりませ——いえ、やっぱり気になります。だって何の関係もないのにあたしを助けてくれたから。あたし、双子の兄がいるんです。助けてくれるのはいつも兄と相場が決まっていましたけど、赤の他人なのに助けてくれたのは棗芽がふたり目なんです」
「なんだか苦労してきたんだね。助けてくれたひとり目というのはまさか——」
「白檀さまです。だからあたしは助けられたこの命をあの方に捧げると心に決めているんです。それなのに……どうしてあたしはおそばを離れて近江まで来てしまったのか、自分でもわかりません。でも好きでもない男の道具になるのは嫌だった。道具にされるくらいなら死んだ方がましだと思っていたら白檀様が逃がしてくださいました」
気がつくと紅葉の頬にぽつぽつと雨粒が落ちてきた。
見上げると、間もなく本降りになりそうな気配が満ちていた。
「雨が降ってきたね。境内の掃除はやめにしよう」
紅葉から箒を取り上げると雪柊は自分が使っていたものと一緒に揃えて片付けに走った。
雨宿りしようと紅葉も踵を返して足を踏み出すと、
「おや、雨が降ってきたのにそんなところで突っ立っていては風邪を引きますよ」
と後ろから声が聞こえた。
振り返るとそこには呆れ顔をした棗芽がいつの間にか立っていた。
石段を上がってきた音も境内を歩いてきた音も聞こえなかったのに、まるで地面から湧いて出てきたかのように現れたのである。
「…………!?」
紅葉が言葉にできず、絶句していると強引に棗芽に手を握られた。
そのまま引っ張られ屋内へ連行されていく。
「こっちですよ、紅葉」
「え……あ、ちょっと。何、何なの!? 急に現れて……一体どこに行っていたのよ。突然いなくなるから心配したじゃない——」
矢継ぎ早に不満をぶちまけた紅葉の口を棗芽は手で覆った。
鼻先がつくほど端正な棗芽の顔が近づいてきたことで紅葉は図らずも赤面してしまった。
紅葉を黙らせようと、彼はひと言囁く。
「まずは雨をしのいでからです」
雪柊を追いかけて建物の中に入った頃には本降りになっていた。
屋根から流れてきた雨水は軒を伝って地面に水たまりを作った。
箒を片付行けてきた雪柊は軒下で流れ落ちてくる雨水を、肩を並べて見上げている棗芽と紅葉に遭遇した。
いつの間にか現れた棗芽にはいつものことだと驚かなかったが、彼が紅葉の手を握っているように見えたことには言葉を失い仰天した。
何と声をかけようかと悩んでいたところ、雪柊の気配に気がついた棗芽が声をかけてきた。
「師匠、今戻りました」
「棗芽……君はここで何をしているんだい」
「何って雨宿りです」
「その手は——」
「手? ああ、これのことですか」
棗芽は何も気に留めずに紅葉と繋がれた手を上げて見せた。
それまで呆然としていた紅葉は、はっと我に返り繋がれた手をみて慌ててそれを振り払おうとしたが一層強く握られ、その手は離れることはなかった。
「ち、違うんです、雪柊様。これはこの人が強引に——」
「雨が降ってきたのに呑気に境内で突っ立っていたので連れて来ただけですよ」
紅葉の手を離そうとしない棗芽のそれは逃がすまいとしているかのようだった。
ふたりの関係を怪しみながらも雪柊はあからさまに不自然な咳払いをしてから言った。
「棗芽、君はどうしてここにいるんだい。鎌倉に行ったんじゃなかったのかい」
「行きましたが、どうしてもこちらのことが気になったので、用事を済ませて戻ってきました」
「……戻ってきた?」
「月華の休暇はふた月もあるのです。私が半月ほど遅れて到着しても問題ないでしょう? 少しの間、問題なく代わりをできるよう月華の部下だという早川蓮馬という男に何をどうすればいいか2日間みっちり指導してきました」
「…………」
棗芽を紅蓮寺で見かけなくなってから6日が経過している。
2日で鎌倉に行き、2日間指導して、2日で戻ってきたと考えると確かに計算は合う。
たった2日で指導されたという蓮馬のことを想うと雪柊は気の毒でならなかった。
相当しごいたに違いない。
そんなふたりのやり取りを横で聞いていた紅葉は1歩ずつ後ずさった。
だが棗芽のもとから離れようとしても、繋がれた手を強く引き戻されるだけだった。
「あ、あなた、九条月華の知り合いなの!? 鎌倉ってどういうこと……幕府の人間なの!?」
何者かわからなかったのは確かだが、助けてもらったことで少し心を開き始めていたのに紅葉は裏切られたような気持になり愕然とした。
幕府に関わってはいけない。
そう頭の中で警鐘が聞こえる。
幕府が派遣した六波羅の男は、倒幕を目論んだ近衛家を征伐し、皐英を死なせる原因を作った相手なのだ。
これ以上幕府に関わっては白檀に害が及ぶかもしれない。
こんな危険な相手のそばにはもういられない。
自分が原因で白檀の身を危険に晒すなどあってはならない。
強く握られた手は振り払っても解けなかったため、紅葉はおもいっきり棗芽の手の甲に噛みついた。
棗芽が痛みに声を上げた途端、握る手がわずかに緩んだ。
紅葉はそれを逃さず、その場を逃げ出し雨の降る境内に飛び出した。
「何てじゃじゃ馬だっ」
くっきりと歯形がついた手の甲をさすりながら棗芽は紅葉の後を追った。
雪柊には紅葉が逃げ出したことも、棗芽が執拗に紅葉を掴んで離さないことも理解できなかった。
(あのふたり、本当はどういう関係なのだろう……それにしてもあの子が敬語を崩すなんて、これはいよいよ嵐になるかな)
雪柊は雨の境内に消えていったふたりの背中を呆然と見つめた。