第42話 交差する疑惑
「月華の妻は、ちょっと変わった異能の持ち主なんです」
そう切り出した李桜の話を榛紀は黙って聞いていた。
騒がしくなってきた店内のせいで、時折聞こえない部分は耳を寄せて聞き入った。
「異能? それはどういうものなのだ」
楓の問いに李桜は手酌で酒を注ぎながら言った。
「亡くなった人の業を解き放つ術らしいよ」
「……もう少しわかりやすく説明してくれぬか」
「僕だって見たことないから詳しくは知らないよ。でも月華は百合殿がその術を使うところを見たって言ってた。淡い光に包まれた後、気がついたら曼殊沙華が広がる庭にいたって」
「どういうことだ?」
「百合殿を保護していた紅蓮寺の雪柊様が言っていたんだ。人は死ぬと後に生まれ変わるけど、再び人間の世界に生まれ変われるかは現世での行いによって決まるんだって。現世で殺生した者は魂が汚れ、その業を抱えて死ぬと人間の世界へ戻ってくるのは難しくなる。百合殿の異能はその業を無効にして、死にゆく者に再び人として生まれ変われるように安らぎを与える異能だって言ってた」
「輪廻転生に干渉するということだな」
「言い得て妙ですね、榛殿。確か百合殿は長い間、奥州の戦場で『輪廻の華』と呼ばれていたとか」
そう言って李桜はひと口、酒を含み眉間に皺を寄せて続けた。
「ずっと戦場で死んでいく兵たちの業を解き放つ異能を使い続けていたらしいですよ。そのうち戦場では輪廻の華と呼ばれるようになったという話です。榛殿、前の左大臣様が倒幕を目論んだ事件を覚えていますか」
「ああ、覚えている。あの事件を事前に見抜けなかったのは弾正尹としての私の落ち度だ」
「あれは誰にもどうしようもなかったんですよ、きっと。画策していたのは摂家の近衛家でしたし、それにあの怪しい陰陽頭が関わっていたんですからね。百合殿は倒幕の兵集めと士気を上げるための道具としてその異能を必要とされ、狙われていました。まあ、細かい事情は割愛しますがそこに月華が現れた、というわけです」
「以前、月華殿が奥方との出逢いを教えてくれた際にそんなことを言っていた。奥州出身の奥方が近江の山寺にいてそこで知り合った、と」
楓がひとり納得している横で榛紀は腑に落ちない顔をしていた。
政に関するすべての報告は帝のもとへもたらされる。
当然の如く、榛紀のもとへその事件の顛末についても報告されていた。
具体的に輪廻の華が誰なのかについての記述はなかったが、様々な報告書と時華から聞いた話を織り交ぜれば、それは百合のことを示していたと想像できた。
李桜の話を聞く限り、輪廻の華とは百合のことを指しているという自分の解釈は間違っていなかったとわかる。
仮に異能を持った月華の妻が狙われた過去があったにしても、狙っていた近衛柿人は処刑され、土御門皐英はすでに亡くなっている。
今はその脅威はなくなったはずなのである。
だが書庫を出てきた月華は必要以上に重苦しい表情をしていた。
月華の感情の起伏が妻の百合に起因しているというのなら、一体何を危惧しているというのだろうか。
「どうしました、榛殿?」
「月華の奥方が異能を持っていて狙われていたとしても、もうその事件は終わったではないか。月華は一体何を危惧しているのだ」
「さぁ……それは月華に訊かないとわかりませんが、輪廻の華を狙っていた柿人様は西国と繋がっていたと聞きます。柿人様がいなくなっても第二の柿人様のような人物が現れると思ってそれを探っているんじゃないですか? 実際、春先に起こった連続毒殺事件に関わっていた白檀という茶人も輪廻の華の居所をしつこく訊いてきましたしね」
「そういえばそんなこともあったな。風のように姿をくらましてしまったが風雅の君も前の陰陽頭の友人で、彼が輪廻の華を追っていなければ死ぬことはなかったというような主旨のことを言っていた……ということは風雅の君は輪廻の華を利用することに反対していたということか? でもそうなると居場所をしつこく訊いてきたという李桜の話と辻褄が合わぬな」
首を傾げる楓に榛紀は身を乗り出して言った。
「そなたたち、今のはどういうことだ?」
「今のって何ですか」
「直接関わっていなくとも毒殺事件があったことは私も知っている。だが、事件を起こしたのは安芸国の武士の逆恨みだったはずではないのか。なぜそこで風雅の君が——」
榛紀がそこまで言いかけたところで声の大きい男が3人の前に現れ、その声に榛紀の話は遮られてしまった。
「いやぁ、楓様。先日ここでお会いした以来ですな。珍しく紫苑様と一緒ではないんですね。今日はずいぶんと初めて見る官吏の方が多いようですが、何かあったんですかい」
「榊木殿……」
声をかけてきたのは商人の榊木だった。
みつ屋の馴染み客のひとりで商人たちのまとめ役として信頼の厚い男である。
界隈に出入りする人物の顔を概ね把握している榊木にとって李桜や榛紀は初めて見る顔だった。
「初めて見る官吏が多いと言ってもここにいるふたりだけではないか」
楓が榊木に対し目の前のふたりを指して言うと、彼は首を傾げながら後ろを振り向いた。
「いえ、そこにも初めて見る方が腰掛けて——」
言い終える前に振り向いた榊木の目の前をひとりの男が脱兎の如く、顔を隠しながら駆けて行った。
碧色の朝服を着た男だった。
確かに官吏で間違いない。
3人の官吏とひとりの商人はその行く末を目で追ったがあっという間に店の外に出て行ってしまった。
「あ、無銭飲食か!? ……ああ、よかった。ちゃんとお代はおいていったようで一安心だ」
逃げ出した人物が先ほどまで腰を掛けていた場所には確かに支払い分の金子が置かれていた。
商人の榊木にとっては逃げ出した人物のことよりも支払いがされているかどうかが気になったようで、ほっと胸を撫で下ろしている。
「今のって——」
逃げ出した男のことを言いかけた李桜の横で榛紀は急に立ち上がり、追いかけようとした。
李桜は慌てて榛紀の腕を掴む。
「榛殿、どちらへ!?」
「離せ、李桜。あやつ、何か知っているのかもしれぬ」
「だからってどうするんですかっ」
「追いかけるに決まっている。ここの払いは気にせず、そなたたちは好きに呑み続けていればよい。私が戻らなくとも、自由に解散してよいからな」
李桜の腕を振り払って榛紀は逃げた男の後を追った。
残された李桜と楓は互いに顔を見合わせる。
「あの朝服って……」
李桜の呟きに楓は大きく頷いた。
「ああ、間違いない。あれは、刑部少輔だ」
「でも何で逃げ出したの?」
「さぁ……だが、あの様子だとだいぶ前からそこに腰掛けていたのだろうな」
楓が指さした先にはいくつかの徳利が残されており、今来たばかりではないことは明白だった。
話に夢中になってまったく気づかなかったことにふたりはどちらともなくため息をついた。
「弾正尹様は何で鷹司杏弥を追いかけて行ったんだろう?」
「言葉のとおり何かを知っているかもしれぬと思ったのではないか? 何もやましいことがなければ逃げることもないだろうしな」
「弾正台の官吏としての勘かな。何かの不正を感知したとか」
「ふむ、それはあるかもしれぬ」
「それにしても……あの人、榛って名乗ったよね。これまで誰にも名を明かさなかったのに」
「ああ、確かに。だがそれが本名かどうかは我々には確かめる術がない」
旧知の仲のふたりが冷静に会話をしているのを見ながら、榊木はばつが悪そうに言った。
「もしかして俺は間の悪いところに出くわしちまいましたかねぇ……」
「いや、そんなことはない。本来の目的もわからなくなっていたところなのだ、なぁ李桜?」
「そういえばそうだよね。月華が落ち込んでる原因を探るために集まったはずだったのに、当の本人は早々にいなくなっちゃったんだから、よく考えてみたらただの呑み会になっただけじゃないか」
「しかも何の結論も出ない生産性のない会だったな」
「はぁ……もう僕は疲れたから帰るよ。後のことは楓に頼んでいい?」
「ああ、任された」
どっと疲れを感じた李桜は後始末のすべてを楓に託し、肩を落としてとぼとぼと店を出て行った。
誰もいなくなった席にはそこにいたはずの人数分、盃が残されている。
空いた席に腰掛けると榊木は頭を掻きながら申し訳なさそうにしていた。
「楓様、何か邪魔しちまって申し訳ねぇ」
「気にするな、榊木殿——ところで、以前に話していた夏祭りについては進展があったのか」
「へぇ。それが結局、美女だ武骨な男だってのはやめたんでさぁ」
「そうなのか? あんなにこだわっていたのに」
「でも最終的にはみんなに楽しんでもらいたいだけですからねぇ。変な小細工しねぇで真っ向からもてなしで勝負しようと思いましてね」
「ははっ。それがいいだろうな。そなたたちはいいものを提供していると私は思う。自信を持って開催すればいいのではないか」
「そう言ってもらえるとやる気が出ますぜ」
榊木は満足そうにしていた。
ひとしきり夏祭りの詳細を聞いた後、楓は店主のもとへ行った。
呑み食いしたものの払いについて確認するためだった。
「店主、ここの払いはどうなっているのだ」
「ああ、楓様。大丈夫ですよ」
「大丈夫、とは?」
「先ほどの初めて来られた官吏の方が、支払いは明日、右大臣様の使いの方がしてくださるそうで」
「……右大臣様の? なぜだ」
「さぁ、そこまでは確認していませんね。うちは支払っていただければどなたでも構わないもので」
楓は首を傾げた。
弾正尹の支払いをなぜ九条家当主が請け負うのか。
ふと思い返してみると、確かにあのふたりは一緒にいるところをよく見かける。
だが、だからと言って——。
(親しき仲にも礼儀があるのではないか!?)
まったく理解できないことが連続して起こる不可解な夜に、楓はひとり帰路についた。