第41話 壁となるもの
ぽつぽつと雨が降り始める中、鷹司杏弥は苛立ちを隠すことなく朱雀門を出た。
目の前に広がる大路と京の街並みは雨から逃れようと慌ただしく駆けていく人々であふれている。
みな自分たちの生活を官吏たちが支えていることに気づいていない。
街が整備されているのも、治安が維持されているのも、民が安心して暮らしていけるのは官吏となった公家の者たちが日夜働いているからだというのに。
これまでそんなことは考えたこともなかったが、この日ばかりは目に映るすべてのものに苛立ちを感じた。
それもこれもあの九条月華が目の前に現れたせいである。
九条家がいつも邪魔をしてくる、杏弥はそう思っていた。
鷹司家がのし上がっていけないのも九条家が今では摂家筆頭として君臨するせいだし、姉の茜音がいつまでも輿入れできないのも九条家が縁談を破約にしたせいだし、同じ年の九条悠蘭と比較されるのも悠蘭が陰陽頭に出世したせいだし、おまけに行方不明だった月華まで京に戻ってきた。
杏弥にとってすべてが逆風に感じられた。
風雅の君から何の音沙汰もないのも九条家が裏で手を回しているのではないか、とさえ思えてくる。
月華には、苛立ちのあまり家庭をぶち壊してやるなどと暴言を吐いたがそうでもしなければ本当に気が収まらないほどに杏弥は怒りに満ちていた。
(……このままでは帰れないな)
怒りを中に秘めたまま帰れば桂田を筆頭に家臣たちに当たり散らしてしまうような気がした杏弥はひとり、寄り道をして帰ることにした。
多少の雨に濡れ、辿り着いた店ののれんには「みつ屋」と書かれている。
他の官吏たちがよく噂している店だとは知っていたが、来店したのは初めてだった。
雨のせいか多くの者たちがみつ屋の入口に吸い込まれていく。
杏弥も流れに乗ってのれんを潜った。
(……っ!)
店に1歩足を踏み入れた瞬間、店の奥に見たことのある3人が神妙な表情で話をしている様子が目に入った。
店を出ようかとも思ったが足が勝手に向いてしまい、気がついた時にはその3人の近くで背を向けるように腰掛け、酒を注文していた。
「弾正尹様も一介の官吏のように酒を呑まれるのですね」
「ん……楓、私のことを下戸だと思っていたのか?」
「いえ、そういう意味ではなく……」
弾正尹に押し切られ、強制的にみつ屋へ向かうことになった月華、楓、榛紀の3人は盃を傾けていた。
店内は騒然としており、いつもどおりのみつ屋のはずなのに楓は妙に緊張した面持ちで落ち着かなかった。
これまで弾正尹と酒を酌み交わした官吏の話など、聞いたことがない。
やましいことはないが終始、監察されているかと思うと居心地が悪い。
本当は何者なのかわかっていない相手だけに、どこまで本音で話していいのかもわからなかった。
「月華、何があったか我々に話してみぬか?」
「…………」
心配そうに弾正尹が覗き込む月華は確かにいつもの彼とは違っていた。
暗く影を差したような表情に、心配になる弾正尹の気持ちもわからないではない。
「月華殿、書庫から出てきたようだが探していた書はあったのか」
「……ああ、あったよ」
「では問題は解決したのか?」
「解決……できる術はなかった」
「なかった?」
「手掛かりはありそうだったが、その先は書かれていなかった」
月華は目の前の酒を一気に喉に流し込んだ。
続いて冷酒の入った徳利を掴むとそれも一気に流し込む。
まるでやけ酒のようだった。
「楓、どういうことだ。月華はどうしてこうなっている?」
「それは私にもわかりませぬ。わかりませぬが、私が最初に図書寮に案内した時には月華殿は過去のこと調べたいと言っておりました」
「過去のこと、とは?」
「さあ、それは私にはわかりませぬ。近江にある紅蓮寺の前の住職のことやら風雅の君のことを調べると——」
「…………風雅の君、だと?」
弾正尹が月華に訝しげな視線を向けても、彼は構わず酒を呑み続けた。
すでに3本目の徳利に手をつけている。
「月華殿、徳利は直に酒を呑むためのものではない」
やんわりと楓が徳利を取り上げようとしても月華は手放さなかった。
よほど酒で気を紛らわせないと正常でいられないほどのことがあったのだろう。
「それで、月華はなぜ風雅の君について調べているのだ」
「……あいつがすべての鍵を握っているような気がするからだ」
「どういう意味だ?」
楓は弾正尹と顔を見合わせた。
春先に京で連続毒殺事件が勃発した際、確かにその中心には風雅の君がいた。
実行犯でなかったが、附子を流用していたのは白檀という茶人で、その茶人は楓の親戚である備中国のある武家で風雅の君と呼ばれていた。
後に風雅の君とは京を追放された第1皇子——白椎であり、現帝の兄であることはわかったが、その風雅の君をしてすべての鍵を握っているとはどういうことなのだろうか。
楓には月華の考えていることはさっぱりわからなかった。
「もう少しわかるように話してくれぬか、月華」
「心配してくれるのはありがたいがこれ以上みなを巻き込みたくない」
頑なに多くを語ろうとしない月華に業を煮やしていたところで、神妙にする3人の頭上から呆れかえった声が降ってきた。
「巻き込みたくないなんてよく言うよ。困った時はまた助けてあげるって言ったじゃないか。そんなに僕たちが信用できない?」
3人が声の主を見上げると、そこには腕を組み見下ろす西園寺李桜の姿があった。
「……李桜」
月華と目が合った李桜は早速、彼が握りしめる徳利を取り上げた。
月華の向かいに腰掛けると彼が使っていた猪口を奪い取って手酌で酒を注ぎ、駆けつけの1杯を流し込む。
「李桜、どうしてここに私たちがいるとわかったのだ」
楓の問いに李桜はため息交じりに答えた。
「楓のことを知らせに来た官吏に聞いたんだよ。弾正尹様に連行されるようにあんたたちが朱雀門を出て行ったって。まさか本当にみつ屋で呑んでるとは思わなかったけどね」
「では確信がないのに追いかけてきたのか」
「弾正尹様が楓に案内を頼んでいたって言っていたから、あんたが行くとしたらここくらいしかないだろうと思っただけ」
再度手酌で酒を呑むと李桜はここにいるには不自然な人物に向き合った。
「弾正尹様、どういう風の吹き回しですか。あなたが特定の官吏に、しかも臨時の官吏に肩入れするなど他の官吏が見たら何と噂することか——それを考えないあなたではないと思いますが?」
「李桜の言うとおりだが、偶然見かけた月華がただならぬ様子だったゆえ放っておけなかった」
「ただならぬ、ですか。まあ、こうなっている事情はだいたい想像がつきますけどね」
「李桜にはわかるのか」
目を剝いた弾正尹を尻目に李桜は言った。
「月華が怒ったり嘆いたり、感情を大きく揺さぶる時は必ず彼女に関わる時なんです。そうなんでしょ、月華?」
月華は李桜の問いには答えず、あからさまに視線を逸らした。
それを見て楓たちも肯定しているのだとわかった。
「李桜、彼女とは誰のことだ」
「妻ですよ、月華の——で、月華。今度は百合殿に何があったの? 喧嘩して口をきいてもらえないとかいうことなら仲介役を派遣してあげてもいいけど……まあ、そんなくだらないことじゃないんだろうね」
月華は李桜に取り上げられた酒の代わりを自ら注文した。
ほどなくして運ばれてきたものをすべてひとりで呑み干すと、月華は急に立ち上がった。
「心配してくれるみなの気持ちはありがたいが少しひとりで考えたい——榛、せっかくの気遣いを無駄にしてすまない」
そう言い残して自分が呑んだ分の払いを置いていくと、月華は店を出て行った。
残された3人は呆然と月華の背中を見送った。
彼が出て行くのと入れ違いにまた新しい客が入ってくる。
刻が経つにつれて店内はさらに騒々しさを増していった。
「それにしてもあんなに気を落とした月華は初めて見た。本当にひとりにしてよかったのかな」
「李桜——月華の妻に何かあったのかと訊くのはどういう意図なのだ? 奥方は体でも悪いのか」
「いえ、そういうわけでは……ないと思います」
言い淀む李桜に弾正尹である榛紀はおもむろに立ち上がると店主のもとへ向かった。
何かを店主と交渉しているように見え、李桜と楓は互いに顔を見合わせた。
ほどなくして戻ってきた榛紀の後に続いた店主は大量の酒と肴を用意してきた。
「今夜は私がそなたたちに振舞おう」
「……はっ?」
「私は今から弾正尹ではなく一介の官吏だ。榛と呼んでくれればよい」
「弾正尹様、おっしゃる意味がわからないのですが」
楓の困惑に榛紀は珍しく眉尻を下げた。
普段、朝廷ではこんな表情をすることはない人物である。
いつもは官吏たちを監察するために常に厳しい表情を浮かべているのが印象に残っているだけに、李桜も楓も返す言葉に詰まってしまった。
「ふたりとも私が弾正尹の立場であるから素直に真実を話してくれぬだろう? 官吏の者たちがみな糾弾されることを恐れて私を遠ざけているのは知っている。だが私も役職を離れればそなたたちと何も変わらぬ。ここは御所の中でもないし、もう勤めの刻限もとうに過ぎた。我々を隔てる壁を取っ払いたいのだが」
榛紀の懇願する視線に李桜は噴き出し腹を抱えて笑った。
李桜の態度に弾正尹を怒らせはしまいかとはらはらしながら見守った楓は袖で額から流れてくる汗を拭いながら李桜に言った。
「李桜、そんなに笑うものではない。榛殿が気分を害するではないか」
「ごめんごめん。悪気はないんだけど、弾正尹様ともあろう方でも寂しさを感じるんだなと思ってさ」
「寂しい?」
「違うのですか。役職が邪魔してみんなに構ってもらえないことを理不尽に思っているっていう風に聞こえましたけど」
「そう、かもしれぬな」
「まあいいですよ、榛殿。今夜は月華とその奥方の話をお教えします」
李桜の話に熱心に耳を傾ける弾正尹の姿に楓は少し違和感を持っていた。
名前も知らなかったはずの弾正台の長官。
朱雀門の外のことはわからないと言ってみつ屋までの道を楓に案内させたことも腑に落ちなかった。
みつ屋は春の事件の渦中にあった店であり、朝廷の官吏たちもよくみつ屋の噂をしているにも関わらず、どこにあるのかは知らなかったようだ。
結局どこの家の者なのかはわかっておらず、榛という名だけを教えられた。
弾正尹という立場上、特定の官吏に肩入れしないようにしているのはわかるがこうして外でひとと会う機会がなかったようなそぶりを見せる彼は、やはり何者なのだろう。
楓は漠然と気になっていた。