第4話 手柄と褒美
文月下旬の昼下がり——暑い夏の日差しを避けるように六波羅御所の書院ではふたりの男が向かい合って碁を打っていた。
開け放たれた障子から風が入って来る気配はなく、下げられた風鈴もその役目を果たしていない。
旧知の仲であるふたりは扇子で扇ぎながら話題にこと欠くことはなかった。
ひとりはこの邸の主、北条鬼灯である。
鎌倉幕府の重鎮でありながら六波羅探題として京に常駐している。
美しい容姿ながら長い黒髪はいつもまとめることなく垂らされ、着流しで出歩くその姿はどう見ても腕の立つ武士には見えないが、ひとたび戦へ出れば味方も恐れおののくと幕府の中では畏れられる人物であった。
もうひとりは近江の山奥にある紅蓮寺の住職、雪柊である。
もとは公家の久我家出身であったがわけ合って仏門に入り、亡き住職の後を引き継いで寺を守っている。
用事がない限りは山寺から出てくることはないが、京へ来た折には鬼灯を訪ねることが多かった。
鈍色の着物を纏い剃髪した姿はどう見ても元公家には見えない。
開いているのかもわからないほど細い目でいつもにこやかにしている姿からは想像もつかないほどの武術の達人であることは一部の者しか知らない事実であった。
「ところで雪柊、月華の子に会いに山から下って来たのだろう? 無事に会えたのか」
鬼灯は碁石をひとつ置いて言った。
「ああ、会えたよ。あれは百合に似たのか月華に似たのか……将来、美人になるのは間違いないねぇ」
「ふむ、確かにな。しばらく様子を見に行っていないが、百合殿は息災だったか」
「表向きは元気そうだったけど、やっぱり月華がそばにいないから寂しそうにしていたよ。出産前に一度はこちらに戻って来たみたいだけど、出産には立ち会ってもらえなかったと言っていた。すぐに鎌倉に戻ってしまったそうじゃないか」
「ああ。今、東の方は騒がしくてな」
「……何かあったのかい」
「掴んだ情報によれば、奥州の残党と名乗る一軍が鎌倉に向かって進軍しているらしい」
「何だって!? 奥州が幕府に征伐されてからずいぶん経つのに今頃?」
「だから『残党と名乗る一軍』だと言っている。本当に残党なのか、残党なのであればなぜ今になって反旗を翻したのか、それは当人たちに訊いてみないことにはわからぬ」
「なるほど」
「敵軍に対峙するべく、将軍の命で一軍が向けられた。その軍を月華に任せているところだ」
雪柊は片手で扇子をひらひらと動かしながら次に打つ手を一瞬、止めた。
碁石を落としそうになりながら、慌てて盤石に石を置く。
「えぇ? 月華に戦の全権を任せたのかい?」
「ああ。いつまでも私が導いてやるわけにもいかぬのでな。あいつも立派な武将に育った。これからは助けがなくとも戦場を仕切っていくようになってもらわねば困る」
「でもせめて棗芽くらいは同行させた方がよかったんじゃないかい? いくら月華のためとは言ってもそんな、谷底に突き落とすようなこと——」
「もう月華に棗芽のお守りは必要なかろう」
「でも……」
「心配するな。一応、信頼する者に託してある」
「それならいいけど……そういえば最近見かけないね、棗芽。今、あの子はどこにいるんだい」
「西国を探らせているが……まあ、風来坊のあいつのことだ。またどこかでふらついているのではないか」
「ああ……なるほど」
それきりふたりは交互にいくつか碁を打つ間、口を開くことはなかった。
そこへ、襖の向こうから声をかけられ、返事をした鬼灯のもとに家臣が文を持って現れた。
恭しく差し出された文は鬼灯宛になっている。
「鎌倉からの早馬でございます」
鬼灯は黙って受け取ると、文の裏書を確認した。
そこには竹崎の署名が書かれている。
役目を終えるとすぐに下がっていった家臣を尻目に、鬼灯は文を開いた。
しばらく無言で目を通している彼に雪柊は怪訝な視線を向ける。
「鬼灯、ずいぶんと熱心に見ているけど、何か問題でもあったのかい」
「いや、これは問題が解決したという報告の文だ」
無造作に手元の文を雪柊に差し出した鬼灯は、立ち上がると障子が開け放たれた縁側に向かった。
夏を迎えた暑い日差しが鬼灯の全身に降り注ぐ。
満足げに口元に笑みを浮かべ、日差しを遮るように手をかざしながら鬼灯は遠くの空を眺めた。
雪柊は鬼灯の笑みの意味が分からず首を傾げつつ、手元の文に目を通した。
そこには信じがたいことが書かれており、雪柊は思わず声に出して読み上げた。
「戦は九条月華殿の捨て身の所業により無事平定したよし——捨て身の所業って何だい、これ」
雪柊が読み進めるとそこにはことの顛末が詳細に書き記されていた。
竹崎からの文によると、月華は命知らずにも鎧と兜を脱ぎ捨て、弓矢の飛び交う戦場を単騎で駆け抜けた上に敵陣に乗り込んでいったとのことだった。
さらに目にも止まらぬ速さで敵陣の天幕を破壊し、竹崎が気づいた時には月華が敵将の首を取る寸前だったと書かれている。
「……鬼灯、私には意味がわからないんだけど、これはどういう意味なんだい?」
「意味などないだろう。書かれているのは事実そのものに違いない」
「鎧を脱ぎ捨てて単騎で戦場を駆けたのが事実だって!? 何でそんなこと——」
「雪柊、鎧や兜を身に着けている利点は何だと思う?」
「それは防具なんだから、攻撃から身を守ってくれることが最大の利点だろう」
「では欠点は?」
「欠点ねぇ……」
雪柊は腕を組みながら首を傾げた。
武術の達人であっても雪柊は武士ではないため、戦場に出た経験がない。
想像の中で答えるしかなかった。
「重そうだし、動きにくそうではあるね」
「そのとおりだ。おそらく月華はより動きを速くするために鎧を脱ぎ捨てたのだろう。竹崎の文に書かれているとおり、安全性を捨てて動きの速度を上げることを優先したのだと思う」
「どうしてそんなこと……」
「戦が長引けば双方に犠牲者は増える。月華は敵将の首を押さえれば戦を短期に終わらせることができると考えたのだろうな。実際、目論んだとおりになった。あとは……敵軍が何者なのか直接確認したかったのだろう」
「い、いくら何でも危険すぎるじゃないか」
「あいつがこれまで満身創痍になった時に鎧を身に着けていたことがあったか? 崖から滑落した時も、多勢に無勢で戦わざるを得なかった時も生身ひとつで戦ってきたのだ。それらと大差なかろう」
「い、戦場でのことだろう? そんな破天荒なことを考えるなんて、無茶がすぎる」
「この1年ほどの間にあいつがしてきたことで無茶でなかったことがあるか?」
「…………」
「だから捨て身の所業と書かれているのだろうな。この文を寄越した竹崎という男は、今は衰えてしまったがかつては猛将と呼ばれた武将だった。この者からすれば、戦場の戦いとは思えない気狂いのすることだと思ったのだろう」
含み笑いをする鬼灯を雪柊は恨めしく思った。
今回は無事にことなきを得たからいいようなものの、このような無謀な戦いを許していたら命がいくつあっても足りない。
それを教えるべき立場の鬼灯が笑っている場合ではない。
「怒るな、雪柊。お前の言いたいことはわかっている」
「結局そこまで危険を冒してまで乗り込んだ敵が何者だったのか、わかったんだろうか」
「さあな。それについては後に月華から報告があるだろう。私も今回の月華はやり過ぎだと思っている。だが、少ない犠牲で目的を達成したことは褒めてやらねばならぬ」
「まあそうだね。月華も立派にお役目を果たしたということか。これだけのことを成し得たんだから、あの子には褒美を与えてあげないといねないね、鬼灯?」
「そうだな」
「でも月華はあの九条家の跡取りだ。大抵のものは手に入れられるだろうし、そもそも欲のない子だからなぁ。欲しがるものなんて想像つかないけど」
「いや。今、あいつは喉から手が出るほど欲しているものがひとつだけある」
「喉から手が出るほどとはまた、ずいぶんと切望するね。一体、何なんだい」
鬼灯はゆっくりと振り返るとにんまりして言った。
「休暇だ」
鬼灯は知っていた。
本来ならば百合を鎌倉へ連れて行きともに暮らすつもりであったが、身重になったために連れて行くことが叶わなかったことを悔やんでいる月華の心の中を。
自身も大事な妻を鎌倉に置いて単身で京にいる身である。
月華の辛い気持ちはよく理解しているつもりだった。
「それは喜ぶだろうけど、月華が鎌倉を離れても大丈夫なのかい」
「長期休暇を与えるには、月華の代役が必要だ——当面は蓮馬に任せるが、すぐに音を上げるだろうからそろそろ棗芽を呼び寄せるか」
鬼灯は文机につくと早速、文をしたため始めた。
すらすらと筆を動かしている間に、どこからともなく舞い降りてきた白い鳩が庭の木に止まった。
羽音で気がついた雪柊が開かれた障子から庭を眺めると目が合った鳩は首を傾げた。
「鬼灯、白い鳩が庭に降りてきているよ」
「それは私がよく使っている伝書鳩だ。棗芽に懐いていて、必ず文を届けてくれるのだ」
「呼んでもいないのに察して現れるなんて、すごいじゃないか」
「いや、たまたまだろう。いつもは餌を蒔いて呼ぶのだがな」
書き終えた文を細長く畳むと、鬼灯はそれを止まり木にいる鳩の足に括りつけた。
「棗芽のもとへ届けよ。頼んだぞ」
鳩はひと声発するとそのまま飛び立っていった。
抜けるような青い空に飛び立った白い鳩はすぐに見えなくなった。
碁盤の前に再び座った鬼灯は何ごともなかったかのように碁石をひとつ置く。
「さて、雪柊の番だぞ」
「棗芽に宛てた文には何て書いたんだい」
言われるままに自分の碁石を置いた雪柊は言った。
「『お前の助けが必要だ。すぐに戻れ』と書いた」
「何だか誤解を生むような表現だね」
「何を言う。棗芽の助けが必要なのは偽りのないことだ。ただ詳細を書かなかっただけではないか」
「棗芽のことだ。そんな文を見れば大好きな兄上に危険が迫っていると誤解してすぐに飛んでくるに違いないよ」
北条棗芽は雪柊が紅蓮寺の住職になって最初に迎えた弟子であった。
鬼灯から預かったのはまだ元服する前のことだったが、その頃から笑顔を崩さない不思議な子だった。
どんなに悔しかろうと辛かろうといつも微笑んでいることが不気味だと思ったことさえある。
何年もしないうちに教えることがなくなり、鬼灯のもとへ返したのが昨日のことのように思い出される。
「鬼灯に振り回されるのは月華だけじゃなく棗芽も同じってことか」
雪柊はそう呟いて碁石を置く。
すると不満そうに片眉を上げた鬼灯が自分の碁石を置いた。
「何か言ったか、雪柊?」
聞こえていたくせに。
その言葉はそっと心の中にしまった雪柊だった。