第38話 妖雲の下で
「やっとお目覚めですか」
榛紀はその声でうっすらと開けた目をさらに見開いた。
深いため息が聞こえる方へ顔を傾けると、目を吊り上げて満面の怒りを露にする叔父がこちらを見ていた。
「あなたという人は……。あれほど夜更かしはしないようにと申しましたのに、一体何をされていたのですかっ」
叔父——時華は珍しく本気で怒っており、相当に心配をかけたのだということはわかった。
時華の説教を聞き流し、榛紀は辺りを見回す。
そこは見慣れた自分の御帳台だった。
持出禁止の禁書である『橄欖園遊録』を読み終えた朝、仮眠を取ったところからの記憶がない。
悪夢にうなされて目覚めたところまでは覚えていたのに……。
「叔父上、私はどうしてここで寝ているのですか」
「……は? 覚えていらっしゃらないのですか」
「……はい」
「あなたは3日ほど前の朝、文机に伏して寝ておられたのですよ。よほどお疲れだったのでしょう。それからまったくお目覚めの兆しがなく、みな、肝を冷やしました」
3日も経過していると聞かされ、何より榛紀自身が驚いていた。
確かに疲労は溜まっていたが、まさかたった1日徹夜した程度で眠りこけてしまうとは思ってもみなかった。
だが必要以上に寝たことで体力は回復したようだ。
榛紀は半身を起こして、傍らに座する時華に言った。
「みなに心配をかけたようで、申し訳ない」
「はぁ……。本当に反省なさっておいでですか。あなたの代わりは誰もできないのですよ? それに、どうしてこれがここにあるのでしょうか」
時華は榛紀の前に『橄欖園遊録』を差し出した。
「どうりで見つからないわけです。持出禁止の禁書を弾正尹の職にあるあなたが持ち出しているというのはどういうことですか! 先日禁書が紛失した話をした折にはここにあったわけですね」
榛紀は猫が耳を畳むように小さくなって肩をすぼめた。
言われていることは何ひとつ間違っていない。
禁を犯したことも、その話が出た時にあえて隠したことも。
「1度は、戻したのです。ですがどうしても真実が知りたくて……長い間、持ち出して禁書がなくなっていることを図書寮の官吏に知られてはまずいと思って、持ち出したり戻したりを繰り返しておりました」
時華の盛大なため息が耳に入り、榛紀は顔を上げることができなかった。
「榛紀様、面を上げてください」
榛紀が顔を上げると、それまで怒っていた時華は半ば呆れ顔をしていた。
差し出した禁書を再び回収し時華は言った。
「起きてしまったことは仕方がありませぬ。この国の帝を裁くこともできませぬ。これは私がこっそり書庫に戻してくとしましょう」
「あ、ありがとうございます、叔父上」
「ところで、一体何をお知りになりたかったのです?」
「そ、それは……」
口ごもる榛紀を時華は訝しげに見つめた。
これ以上、隠しごとをするのは必要以上に大切な人を裏切ることになる。
そう考えた榛紀は意を決して口を開いた。
「兄上がなぜ宮中を追われたのか、知りたかったのです」
「風雅の君が宮中を出た理由、ですか」
「はい。私は幼かったためにほとんど覚えていなかったので……。この園遊会で一体何が起こったのかがわかればその理由がわかるのではないかと」
「それで、おわかりになりましたか」
「それが……謎が深まってしまいました」
「でしょうな」
「叔父上は何かご存じなのですかっ!?」
榛紀は縋るように時華の腕を掴んだ。
だが時華は優しくその手を解くと、暗い影を落として答えた。
「橄欖がなぜ先帝に毒を盛って弑し奉ろうとしたのかは当時から疑問でした。橄欖自身はやったことは認めたものの、理由は最期まで口にしなかったのです。風雅の君も知らなかったとはいえ毒の入った湯を使って茶を点てたのですから、無罪というわけにはいきませんでした」
「そんな……」
「長い間その姿を多くの公家の者たちから隠して暮らしてこられたことが風雅の君には仇となってしまったのですよ。当時は茶を点てたのが白椎様だと認めない者も多かったし、逆に先帝からそういう扱いをされてきたことを逆恨みしていたのではという憶測も多く、宮中には居場所がなくなってしまったのです」
「ですがそれはもう昔のこと——何とか兄上を宮中に取り戻す術はないのでしょうかっ。兄上のことを見知った公家が少ないというのなら好都合ではありませぬか。今お戻りになっても誰にもわからないのでは——」
「お戻りいただいてどうなさるのですか」
「え……?」
「あなたが帝の座を退いて風雅の君を帝に据えるおつもりか? それこそ無理なことですぞ、榛紀様。すでに宮中を出られた方を呼び戻したところで逆に居場所がないだけではありませぬか。聡いあの方のことです。そんなことは天地がひっくり返ってもお望みにはならないでしょう」
時華は禁書を手に立ち上がった。
それはまるで話はこれで終わりという合図のようだった。
それ以上何も言わずに去っていった時華の背中を見送ると、榛紀は俯き拳を強く握りしめた。
確かに時華の言うとおりである。
橄欖が口を割らなかったことで真実は闇の中に葬られてしまったが、白椎を貶めるために行ったのだとすればその爪痕は十分に残されたことになる。
自分の娘たちにも教えなかったという茶の湯を第1皇子には教えたのだから、白椎を失墜させたかったのは橄欖であるはずがない。
橄欖は誰かに利用されたか脅されたかして、あの事件を起こしたはずなのだ。
だが結局、誰が、なぜ、というところには辿り着けなかった。
悔しさを抱えながら榛紀が起き上がろうとすると立ち去ったはずの時華が戻り御帳台の入口で言った。
「そうそう榛紀様。お眠りになっていた際のお仕事が溜まっておりますから、しばらくは内裏を出られないとお覚悟ください」
仕置きだと言わんばかりの不敵な笑みは榛紀にとって鬼の微笑に見えたのだった。
内裏の外郭門のひとつである建礼門を出た榛紀は右肩を回した。
しばらくぶりに見た空は厚い雲に覆われ、湿気を含んだ重苦しい空気がまとわりついてくるようだった。
内裏を出たのは何日ぶりだろう。
3日寝込んでいた上に2、3日は文机に釘付けになっていた。
夜更かしをしないよう、またこっそり抜け出すことがないよう監視をつけられまるで監獄にいるかのようだった。
すべてを片付けた今、やっと外の新鮮な空気を吸うことができるはずなのに、あいにくの天気に気分は晴れなかった。
榛紀は建礼門を出たその足で図書寮へ向かった。
他の禁書を調べるためである。
『橄欖園遊録』からは何が起こったのかはわかったが、真実には辿り着けていない。
橄欖が何を考えていたのかを記録されているものがあるかもしれない。
はやる気持ちは自然と歩みを速めた。
ちょうど図書寮の近くまで来たところで榛紀は意外な人物を見かけた。
空模様と同じように暗くどんよりとした表情が似つかわしくない男だった。
「月華!」
書庫から出てきたと思しき月華に声をかけて駆け寄ると、彼は遠くを見るように視線を向けてきた。
しばらくは呆然としていたがやがて焦点があってきたのか、いつもの表情に戻った月華は力なく返事をした。
「……榛、か。しばらく見なかったな。床に伏せっているのかと心配していた」
「まあ、似たようなものだ。私もそれなりに忙しいのだ。ところでそなた、何かあったのか」
「何か、とは?」
「この世の終わりを見たような顔をしているが……大丈夫か?」
「……この世の終わりか。言い得て妙だな」
「…………?」
「まさに俺にとってはこの世の終わりかもしれない」
榛紀は目を見張った。
これまで月華と直接話したことはほとんどなくとも、時華からの話を通じて彼が一体どういう男なのかという人となりはある程度、理解しているつもりでいた。
だが今目の前にいるのはそんなこれまでの印象を裏切る、まるで見知らぬ男のようである。
急に心配になった榛紀は月華の腕を掴み、語気を強めた。
「しっかりしろ、月華。そなたらしくもない」
「…………」
「何があったのか、私が話を聞こう。何か力になれるかもしれぬ」
「榛が……? いや、それは駄目だ。友を巻き込みたくない」
「何を言う! 友だから巻き込まれるべきではないのか」
友というだけではない。
月華は榛紀にとって今や数少ない血の繋がった従兄弟なのだ。
放っておくことなどできなかった。
「……だが困った。これまで友がいなかった私は、こういう時にどうすればいいのかわからぬ」
榛紀が右往左往しているとそこへ他部署まで出向いていた楓が中務省へ戻ろうとしていた。
李桜の書簡を届けに行っていたと手伝いの官吏をひとり従えて歩きながら談笑している。
渡りに船だと思った榛紀は楓を呼び止めた。
すぐに駆け寄って来た楓は奇妙なふたりの様子に首を傾げた。
月華はこれまで見たことがないほどに落ち込んでいるように見えるし、弾正尹が動揺しているのを見るのは初めてだった。
「弾正尹様? 月華殿まで……こんなところでどうされたのです?」
「楓、ちょうどよいところに現れた」
「……は?」
「実は月華がいたく落ち込んでいるゆえ、話を聞こうと思ったのだがどこへ行ったらよいものか迷っていたのだ。そなたたちはよく勤めの帰りにどこかへ行っているのではないか」
「え……ああ、確かによく呑みに行ってそこで愚痴をこぼしたり、くだらないことで笑ったりしておりますが」
「そうであろう! では楓、これからそなたもその呑み屋へ一緒に行くというのはどうだ? そなたの代理で臨時の官吏をしてくれている月華を励まそうではないか」
「…………!?」
楓が気づいた時には榛紀に腕をしっかりと掴まれていた。
右手に月華、左手に楓を捕まえた榛紀は半ばふたりを引きずるようにして歩き始めた。
「朱雀門までは連れて行くゆえ、その先の案内は頼むぞ、楓」
楓はわけがわからないまま、連れ出されることになってしまった。
一緒に使いに出ていた連れの官吏に少輔へ事情を説明するよう伝えるのが精いっぱいだった。
先導しているのが弾正尹なのだ。
李桜も目くじらを立てることはないだろう。
それにしても——楓は月華の変わり果てた姿に驚いた。
まるで別人のようだ。
「ところで楓、その呑み屋というのは行きつけなのか」
「そうですね、よく兵部少輔の紫苑殿と帰りに寄っています。昼間は甘味処なのですが、夜になると酒を出すので」
楓は首を傾げた。
謎に包まれた弾正尹ではあるが、有名な甘味処「みつ屋」のことも知らないのだろうか。
今にも雨粒が落ちそうな妖雲の下、3人は馴染のみつ屋へ向かった。