第37話 異能の連鎖
刑部省を出た月華はその足で図書寮へ向かった。
鷹司杏弥——九条家に対して好意的でないのは明らかだ。
九条家のせいで鷹司家は日の当たる道を歩けない、と言っていた。
これは悠蘭が言っていた野心家ゆえの言葉なのだろうか。
朝廷での権力を掌握したいがそれを九条家が邪魔しているとでも言うのか。
月華にはさっぱり理解できなかった。
役職の拝命は確かに家格によってある程度の格が決められているが、同じ摂家である鷹司家は九条家と並んでいても何もおかしくはない。
それがこれまで要職に就けなかったと思っているのだとしたら、それは能力や人格が認められなかったからだろう。
悠蘭は官吏には官吏の戦い方がある、と言った。
家庭をぶち壊してやると豪語した杏弥が、その官吏のやり方とやらで危害を加えてくることもあり得る。
また余計な敵を増やしてしまったような気がした月華は肩を落とした。
図書寮に着くと担当官吏はすんなりと書庫へ入れてくれた。
弾正尹が許可申請を出してくれたのは間違いないようだ。
中に入った月華は迷いなく一番の奥の禁書の棚を目指した。
目当ては先日途中で閉じざるを得なかった『常闇日記』である。
弾正尹の邪魔が入らなければもう少し読み進められたものを。
あの禁書には百合の異能に似たような特別な術についてのことが書かれていたようだった。
それが百合の異能のことなのかどうかは最後まで読んでみればわかることだ。
月華が禁書の棚を漁っていると、一冊の禁書の下から『常闇日記』が出てきた。
上に乗っていた禁書をどけようと手に取ると表紙には『白蓉記』と書かれている。
惹かれるものはあったが、目的の書を手に取りゆっくりとめくった。
最初の頁をもう一度読んでみる。
『常闇の術。
それはこの世の理を無視した禁忌の術である。
常世の国と現世を行き来することができる人ならざる力。
血で受け継がれることはなく、人から人へと受け継いでいく忌むべき術。
わたしはこの力を受け継いだことを後悔していない。
だが、できれば後世に受け継ぎたくはない。
なぜなら——』
中間のところを適当に読んだ後、この最初の記述に戻って目を通したことを思い出した。
頁はここで切れており、続きは次の頁に書かれているようである。
先日は思わぬ弾正尹の登場でこの先を読むことができなかった。
日記というくらいなのだから、『わたし』という著者が受け継いだこの術について書き残したのだろうと推測できる。
そしてめくった先には思いもよらないことが書かれていた。
『これは命を削る術だからだ。
引き継いだ者は術を使うごとに余命を削っていくことになる』
この常闇の術と呼ばれる力は人から人へ受け継いでいくものだという。
これは百合の異能と似ている。
さらに読み進めると、この禁書を最初に目にした頁に辿り着いた。
『常闇の術は大きく5つに分かれる。
常世渡り
常世戻し
業縛り
業解き
解
この5つは異能を受け継いだ術者が自由に使うことができる』
先日、目にした行だった。
5つの術のうち、最初の2つはとても危険だということを続いて訴えている。
『常世渡りと常世戻しは非常に危険な術である。
この異能を使うことは命がけであると心得なければならない。
わたしはこの術を受け継いだ時、それらについて知らされていなかった。
何も知らず使い続けた結果、想像以上に負担になった』
続きはそれぞれの術の解説になっているようだ。
『常世渡りとは常世の国へ渡り、また現世へ戻ることができる術である。
古くは常世へ渡った魂を呼び戻すことができたようだが今は失われてしまった。
常世戻しとは常世の国へ渡りかけた魂を引き戻す術である。
川を渡り切っていなければ、常世戻しの術で現世へ導くことができる』
月華には書かれている意味がまったくわからなかった。
著者が人ならざる術だと述べているのだから、わからなくて当然なのだろう。
頁をめくったところで、月華はぴたりとその動きを止めた。
『業縛りとは常闇の術を使う術者にかけられた術である。
人ならざる術を使えば使うほど術者の魂は自らの制御を失うことになる。
術を使うごとに命が削られ、術に縛られて自ら命を絶つことを許されず、
また自らの輪廻に干渉できない』
かつて百合が訴えていた内容によく似ている。
——私がいなくなってしまえばいいのに、私には自ら命を絶つことができない呪いがかかっているから自分ではどうしようもないのです。
月華は嫌な予感がした。
不安からか鼓動が速まり額にはじんわりと汗が滲んできた。
そして頁をめくる。
『業解きとは身命を賭し散った者をすべての業から解き放つ術である。
死した者が来世でも望んだ世界へ生まれ変わることは容易ではない。
人ならざる術で輪廻を改変する。
それが業解きの術だ』
月華は軽いめまいがして書棚に手をついて体を支えた。
ここにある業解きと言われる術は、まさに百合が看取りと称して使ってきた異能そのものではないか。
軽く目を閉じると曼殊沙華の庭で鎖を外す百合の姿が鮮明に浮かぶ。
この常闇の術と言われる術が、百合が持っている異能と同じものである可能性は高い。
だが、そうだとすると最初の2つについては説明がつかない。
百合の話によれば異能を引き継いだ樹光和尚は死者を生き返らせることはできないと言ったという。
しかし『常闇日記』の中には常世戻しという術について、川を渡り切っていなければ引き戻すことができると書かれている。
曼殊沙華の庭で見た川のことだとすれば、常世戻しの術を使えば土御門皐英も引き戻すことができたことになるのだ。
月華はこめかみを押さえながら頁をめくった。
そこには5つ目の術——解について書かれているはずである。
が、そこには何もなかった。
白紙の紙が綴られているだけで、続きの記述は一切なく頁が破られている形跡もなかった。
(どういうことだ……?)
残りの頁をすべてめくってもやはり白紙が続くだけだった。
未完成の書ということなのだろうか。
書き手が志半ばに、続きを書くことができなかった……?
月華は仕方なく手の中の禁書を閉じた。
まだ胸が締め付けられるような不安感が拭えない。
仮に百合の異能がこの常闇の術だったする。
今、彼女の中にあるのは業縛りと業解き、解説はなかったがもしかしたら解とやらもあるのかもしれない。
だとすれば冒頭にあった現象が百合にも起こっている可能性がある。
——引き継いだ者は術を使うごとに余命を削っていくことになる。
すでに百合は戦場で散々この力を使ってきている。
もしこの記述どおりだとすると、百合は余命を削って術を使ってきたということだ。
(……余命がもうあまりないかもしれない——いや、そんなことは認められないっ)
突如として突きつけられた理不尽な現実に耐えかねた月華は、読んでいた禁書を棚に投げつけた。
その反動で上に乗っていた1冊が床へ落ちた。
(まだこの常闇の術が百合の異能のことだと決まったわけじゃない……)
怒りをぶつけたことで少し冷静さを取り戻した彼は投げつけた禁書を拾い上げた。
裏返って落ちた書には著者の名が記されている。
そこには『芙蓉』と書かれていた。
棚から落ちてきた別の禁書は表を向いて落下しており、書名は『白蓉記』となっていた。
『常闇日記』の上に乗っていた書だと思い出した彼は、読み終えた禁書を拾って棚に戻し、衝動的に落ちていた『白蓉記』を開いた。
表紙をめくると著者のひと言が書かれていた。
『芙蓉様が帝に見初められた本当の理由を誰も知らない。
それはほとんど知る者がいない。
芙蓉様は帝の命の恩人であるからこそ、妃に迎えられたというのに。
出自を理由に宮中では自由を与えられないというのはあまりにもお気の毒。
わたしはお傍仕えとして芙蓉様の記録をここに日記として残すことにした』
月華は慌てて棚に戻した禁書を手に取り、裏返した。
確かに著者として『芙蓉』と書かれてある。
つまりこの『白蓉記』は『常闇日記』の著者について書かれたものだということだ。
しかもよく見ると帝の妃とある。
今の帝はまだ妃を迎えていない。
ということは先帝の妃ということか。
月華はじっくりと続きを読みたい衝動に駆られていたが、書庫に入って来てからすでに四半刻ほどの刻が経過している。
怪しんだ図書寮の官吏に目を付けられて出入りを禁止されては困る。
仕方なく月華はぱらぱらとめくり気になるところに目を通すことにした。
最初に目を止めた頁には信じられない記述があった。
『芙蓉様はとてもお優しい方だ。
人の痛みをよくご存じで、わたしたちお傍仕えにも優しくしてくださる。
相変わらず公の行事には参加を許されないが、帝の寵愛は変わっていない。
何より帝のお心遣いなのか、蘭子様が芙蓉様のお相手をしてくださるので安心だ』
月華の目には『蘭子』のふた文字が鮮明に映った。
よくある名前なのだろうか。
芙蓉のお傍仕えを名乗る著者が『蘭子様』と記述しているのだからある程度身分の高い人物なのだろう。
それともこの蘭子という人物は、母である九条蘭子その人であり、先帝の妃と親しかったということだろうか。
そう言えば母の実家のことは聞いたことがない。
気になりつつも月華は先をめくった。
『園遊会で突然、帝が倒れられたらしくそれを耳にした芙蓉様は珍しく叫ばれた。
芙蓉様の指示で清涼殿の奥深くへ帝をお運びした。
翌朝、帝は目を覚まされ芙蓉様もお喜びになった。
だが何の因果か、今度は芙蓉様が危篤となられた。
母君の危篤を最も案じておられるであろう白椎様のお姿を見ることはなかった』
芙蓉という先帝の妃が常闇の術を使えたなら、もしかしたら常世戻しの術を使ったのかもしれない。
倒れた帝が目を覚ましたというのがまさにそれを証明しているような気がした。
だがその一方で術を使った方が危篤となった。
芙蓉本人が日記に残していたことだ。
常世渡りと常世戻しは非常に危険な術で、この異能を使うことは命がけであると心得なければならない、と。
月華はなぜか背中が凍り付くような悪寒を感じつつ、頁をめくった。
『芙蓉様が倒れられた翌日、謁見をお約束されていたという僧侶が訪ねてきた。
事情を説明してお引き取りいただこうと思ったが、僧侶は聞き分けなかった。
仕方なく病床の芙蓉様のもとへ案内した。
奇跡的に意識を取り戻された芙蓉様は僧侶に何か耳打ちしていた。
そのうちに手を握った僧侶と芙蓉様がまばゆい光に包まれた。
気がついた時には芙蓉様は息を引き取っていらした。
あの光は何だったのか。
徳の高い僧侶のなせる業だったのか——僧侶は名を樹光と名乗った』
月華は手元の『白蓉記』を思わず床に落とした。
どんなに探しても記録が残っていなかった樹光和尚に関する記述が、よりにもよってこんなところで出てくるとは、何という仕打ちだろう。
樹光は百合に異能を引き継いだ僧侶である。
この内容から察するに、常闇の術を使うことができた芙蓉は死に際に樹光へその異能を引き継いだと想像できる。
つまり、百合が持つ異能は、結局、常闇の術だったということである。
月華は衝撃のあまりまともに立っていることができず、棚に体を預けるとしばらく呆然と天井を見上げていた。