第34話 彼なりの誠意
「おや、初めて来られた客人かな」
紅葉が麓へ続く石段を見つめていると、背後から急に声が聞こえた。
驚いて振り返るとそこには鈍色の着物を着た、剃髪した男が立っていた。
見るからに僧侶とわかるが、驚くべきは声をかけられるまで気配を感じなかったことだ。
紅葉も物音を立てず忍び足で気配を消して近づくことがあるが、その完成度たるや紅葉の比ではなかった。
「あ、あたしここの住職で雪柊という方を探していて……棗芽という人に助けられて——」
たじろぎながら言う紅葉に僧侶は優しく言った。
「そんなに怯えなくても取って食うようなことはしないよ」
「い、いえそういうつもりじゃ……」
「棗芽に助けられたと言ったけど、その本人は一緒じゃないのかい」
「それが、石段を下ってしまって。でもすぐに戻って来るって……」
「そうか。まあ、遠慮しないで入りなさい」
「え……でも、棗芽っていう人がこの寺の外には結界が張ってあって知らない者は門前払いされるって——」
「ずいぶんな言い方だぁ。門前払いなんてしないさ。ただどちら様かは確認させてもらうけどね」
開いているのかわからないほど細い目をさらに糸のように細めて微笑んだ僧侶の顔は紅葉にとっては何だか物騒に映った。
どちら様かは確認させてもらう、とはどういう意味だろう。
何となく穏やかではない何かを感じてしまう。
紅葉は無意識のうちに後退っていた。
「大丈夫だよ、お嬢さん。君の素性は後で訊くとして、君が探しているという雪柊というは私だから。お茶でも呑みながらここへ来た理由を聞こうじゃないか」
「あなたが雪柊……様?」
「そうだよ。さあ、ついておいで」
書院へ案内しようとする雪柊の背中に紅葉は慌てて声をかける。
「で、でもあの棗芽っていう人がまだ戻っていないから——」
「あの子なら放っておいて大丈夫だよ」
突然現れては助けてくれた三つ編みの男、棗芽。
気配もなく近づき不気味な笑みを浮かべる僧侶、雪柊。
紅葉はとんでもないところへ迷い込んできたような気になり、さらに不安を掻き立てられながら雪柊の後を追いかけた。
初めて足を踏み入れる紅蓮寺は、想像以上に大きかった。
さびれた寺と棗芽が表現していたためにもっと朽ちた印象を思い浮かべていたが、境内はきれいに掃除され、大きな仏堂と居住空間や離れと思われるいくつかの建物が廊下で繋がれている立派なものだ。
案内された書院に足を踏み入れると、雪柊に促されるままに向かい合って膝を折った。
程なくして若い僧侶が茶を運んできた。
屈託なく微笑む若い僧に安堵して紅葉は出された茶に口をつける。
(よかった……まともそうな人もいた)
ひと息ついた紅葉は懐から持参した文を雪柊に差し出した。
宛先が自分宛になっていることを確認した雪柊は文を裏返した。
裏の署名を見て表情を一変する。
「これは……君は風雅の君の知り合いなのかい」
出された茶を呑みながら様子を窺っていた紅葉は驚きのあまりむせ返った。
署名には『白椎』と書いてあるのを確認している。
『風雅の君』とはどこにも書かれていないのに、白椎と風雅の君が同一人物であることを雪柊は知っている、ということである。
「そういえば『白檀』と名乗っているとおっしゃっていたか。今は大人しく備中国におられるのか」
雪柊はぽつりと呟いた。
風雅の君が茶人の白檀と名を変え、備中国に拠点を置いていることを知っている者はほとんどいない。
白檀が、信頼している者と言っていた意味がようやくわかってきた。
古い知り合いと言っていたが、この人は何者なのだろう。
紅葉は首を傾げながら雪柊の様子を窺った。
極度の緊張感の中、雪柊が最後まで読み終えるのを紅葉は黙って待った。
しばらくすると雪柊は小さなため息とともに紅葉を見据えた。
「事情はわかった。君は紅葉というんだね。ずいぶんと風雅の君に可愛がられているようだ。この文の中には君のことを心配するあの方の想いが詰まっているね」
「…………」
「しばらくここにいたらいいよ」
「え……いいん、ですか」
「いいも何も、君はそのつもりで来たんじゃないのかい」
「…………」
「おおよその事情はここに書かれてあるからわかる。それに風雅の君からここまで丁寧に懇願されては引き受けないわけにはいかないよ。見たところ君はずいぶん疲れているようだし、まずは少し休んだ方がいいんじゃないかな」
言われてみればここ何日もろくに休んでいなかった。
京から寝ずに駆け戻り、やっと休息できると思った途端に梓に起こされた。
眠りに就くこともなく、白檀に呼び出されすぐに備中国を発った。
途中、仮眠程度に休んだが近江へ入ったかと思えば妹尾家の家臣に捕らえられそうになった。
戦いを決意したところで奇妙な三つ編みの男が現れ、気がついた時にはこの紅蓮寺にいた。
「ありがとう……ございます」
緊張の糸が切れた紅葉は急に意識が遠のくのを感じた。
疲れた……。
そんなことを思った時には全身の力が抜けていた。
「師匠、こちらに威勢のいい女子が——」
勢いよく襖を開けた棗芽は目に飛び込んできた光景に思わず駆け寄った。
書院の中で雪柊と向かい合うように正座している紅葉が今にも畳に倒れ込もうとしていたのである。
近くで控えていた鉄線も慌てて動きかけたがそれよりも棗芽の方が速かった。
間一髪で受け止めた彼は腕の中の紅葉をまじまじと見つめた。
「……寝ている?」
倒れそうになっていた紅葉を受け止めようと腰を上げかけた雪柊は安堵の息をもらしながら座り直す。
「よほど疲れていたんだね。一体何があったかわかるかい、棗芽?」
「石段の麓で男4人に囲まれていました」
「この子、追手を放たれていたのか」
「そうですね。備中国から夜通し駆けてここまで辿り着いたのは間違いありません」
「ずいぶんと詳しいね。まさか、君も彼女をつけてきたのかい」
「つけてきたと言いますか……興味本位で追いかけてきただけです」
雪柊の盛大なため息が聞こえた。
「まさか備中国から追いかけてきたわけじゃないだろうね」
「その通りです。先日の師匠の回答が納得できませんでしたので、自分でもう少し調べてみようと思って備中へ行っていました。兄上の指示で調査していた家にはよくこの子がいたので見かけたことはあったのです。それが、慌てて邸を出てきたかと思えば、それを男たちが追いかけていたので、何かあるなと」
「それで、君は彼女を追いかけてきた男たちを始末してきたわけかい」
「よくわかりましたね、師匠」
「君の頬に返り血が筋になってついている」
手の甲で頬を擦ると確かに血が付着した。
怪我はしていないから、返り血で間違いない。
「ああ、それで……ですが、正確には始末したのは3人です、ひとりはあえて逃がしました」
「逃がした? なぜ?」
「国に帰って状況を説明する者が必要でしょう? 全員殺してしまっては帰って来ない家臣は紅葉に返り討ちにあったと思われるではありませんか。紅葉に加担した者がいて、めっぽう強かったと証言してもらわなければ、またこの娘が狙われてしまいますからね」
棗芽は腕の中で眠る紅葉を抱き上げ、立ち上がった。
「棗芽、君にしてはずいぶんとその子に執着しているじゃないか」
「執着? そうですか?」
「そう見えるけど違うのかい? いつもは他人に関わらないようにしているのに、大して親しくもない紅葉を手助けしているだろう?」
「そう言われれば、そうですね。なぜでしょう。自分でもよくわかりません。でも放っておけなかったものですから」
確かになぜ放っておけないと思ったのだろうか。
棗芽は自分で自分のことがわからなくなっていた。
だが、考えても答えが出ないことは考えないようにしている。
雪柊は紅葉を抱える棗芽に言った。
「とにかく早く紅葉を休ませておいで。離れは空いているから」
棗芽は頷いて踵を返すと歩き出した。
その背中に雪柊は声をかける。
「彼女を休ませたら、君には本堂の掃除をしてもらうからそのつもりで」
振り向いた彼は至極不満そうに訊いた。
「なぜ私が本堂の掃除を?」
「先日、君が突然仕掛けてきたせいで箒が折れてしまったじゃないか。罰としてしっかり掃除してもらうからね」
「…………」
絶句する弟子に雪柊はさらに追い打ちをかけた。
「それから掃除が終わったら君は鎌倉へ向かうんだよ。鬼灯からそう命じられているだろう?」
「それは……できません」
「どうして?」
「また後で、とこの娘と約束しました。紅葉が目を覚ました時に姿を消してしまっては嘘をついたことになってしまう。そういう誠意のないことはしたくありません」
そう言うと棗芽は書院を出て行った。
雪柊は棗芽によって閉められた襖をしばらく呆然と見つめた。
誠意のないことはしたくない、とはどういう意味だろう。
まるで好意がある相手に嫌われたくないとでも言っているのだろうか。
するとそばに控えていた鉄線が不思議そうに言った。
「雪柊様……あの方と棗芽様は恋仲ですか」
「い、いやぁ……棗芽に限ってそれはないだろう」
確かに恋仲ではないだろう。
ふたりの話を聞いている限り、互いに初めて言葉を交わした様子だった。
もし棗芽が紅葉に好意を抱いているとすれば、それは雪柊の人生における七不思議のひとつに数えてもいいと思えるくらいの大事である。
天地がひっくり返ってもあり得ないことだ。
しかし他人に興味がなく、唯一付き従う兄の命に背いてでも貫くという想いはただごとではない。
本人がそれに気づいているかどうかは別として——。