第32話 追手を逃れて
妹尾家の邸の中に白檀のために誂えられた部屋がある。
部屋は茶人にふさわしく、茶室の仕様になっていた。
中央には湯を沸かすための炉が備えられており、いつでも茶を点てることができるようになっている。
白檀はぼんやりと湯を沸かしながら思いを馳せた。
文を持たせたから受け入れてくれるとは思うが……。
気の迷いを払拭するために、白檀は誰に振舞うでもなく精神統一を図るために茶を点てようとしていた。
ひととおり準備を整え、柄杓で湯を掬ったところで、けたたましい足音が聞こえてきた。
「び、白檀様っ!」
足音の主は山吹だった。
普段ならこんな無作法なことはしない。
必ず外から声をかけてから、返事を待って中に入る律儀な男である。
しかし今の山吹にはなりふりを構っていられない事情があるのだとすぐにわかった。
妹尾菱盛の書院を飛び出してきたのだろう。
その慌てようたるや、白檀の想像を超えていた。
何があったのか予想はついたが一応、訊ねてみることにした。
「……どうしました、山吹?」
彼は言葉を失い、驚愕した表情でこちらを見ていた。
いつにもなく冷静さを欠いたその姿を察した白檀は山吹を招き入れ、横へ座らせた。
自分のために点てようと思っていたが、図らずも客人が現れたのだ。
山吹に茶を振舞おうと白檀は思った。
内心は茶など嗜んでいる場合ではないのだろうが、山吹は黙って白檀に従った。
茶筅を動かすと泡立つ深緑の茶がいい香りを立てた。
点て終えた器を山吹の前へ差し出しながら白檀は言った。
「紅葉のこと、聞いたのですね」
出された茶碗に手を伸ばそうとして、山吹はその手を止めた。
大きく目を見開いている。
「……っ!」
「大丈夫、彼女はすでに逃がしました」
「……えっ?」
白檀は新しい器を取り出すと、自分のために茶を点て始めた。
「紅葉がこの邸に戻って来た少し後、梓が私のところへ駆け込んできたことがあったのです。今の山吹と同じようにね」
「あ、梓様が……?」
「血相を変えて何ごとかと思いましたよ。何しろ、梓が私を訪ねてくるなんてめったにないことですからね」
「それで梓様は何と?」
「紅葉が狙われている。子どもを授からない自分の代わりに紅葉を敦盛の側室にしようとあの人たちが画策しているようだ、とそう伝えに来てくれました」
「…………」
「ひと足遅かったですね、山吹。紅葉は昨夜、備中を発ちましたよ」
その言葉に山吹は作法も何もなく、出された茶を一気に呑み干した。
心配と不安のあまりよほど喉が渇いていたのだろう。
白檀は声を出して笑いながら、自分のために点てた茶を2服目として山吹に差し出した。
山吹はそれすらも一気に呑み干し、やっと生きた心地がしたのか額を畳にこすりつけるように首を垂れた。
「白檀様……本当にありがとうございます」
「礼には及びません。私にとっても紅葉は大事な女なのです。あなたとは違って私は家族として慕っていますけどね」
意地悪く微笑む白檀に山吹は赤面しながら顔を逸らした。
「紅葉が悲しむようなことはあってはならない。彼女には好いた相手にちゃんと嫁いでほしいと思うのは私も同じです」
「……それであいつはどこへ向かったんですか」
「近江の紅蓮寺へ向かわせました。文を持たせたから大丈夫だと思いますが——」
「雪柊殿のところですかっ!」
身を乗り出してきた山吹の勢いに圧倒された白檀は面食らって後ろに倒れそうになった。
辛うじて片手で体を支えると、山吹に答えた。
「え、ええ。他に信頼できる預け先がなかったものですから。国内には危なくて置いていけませんし、京にと言っても今出川家へ預けるわけにもいかないでしょう? 最初からそうできるのなら梓が私のところへ駆け込んでくることもなかったはずです。さすがに近江まで追手を放つようなことはないでしょうから雪柊なら受け入れてくれると思うのですが……」
「何か問題でも?」
「ああ見えて雪柊は疑り深いのですよ。寺の中まで辿り着けるのかどうか、心配ですね」
「それなら問題ないと思いますよ」
「ずいぶんと自信があるのですね」
「ここへ戻る前に俺も紅蓮寺へ寄りましたから」
「山吹も?」
「一度、ちゃんと雪柊殿と話をしてみたかったものですから。寺にはすんなり入れましたし、いつでも訪問していいと言ってくださいました。白檀様のことを頼むともおっしゃっていましたし」
「……そうですか。それなら問題ないかもしれませんね」
山吹は一度、雪柊と対面しているからすんなりと侵入を許したのだろう。
輪廻の華をあれだけ厳重に守っていた雪柊である。
女子とはいえ会ったこともない他人を簡単に寺に入れるだろうか。
それでも白檀は他に向かわせる先がなかった。
邸の中に置いておくことはできなかったし、頼れる友や親戚もいない。
唯一の親戚と言えばこの国の頂点にいる帝だけなのである。
そんな弟のもとに預けるなどできるはずがない。
白檀にとって頼れるのは雪柊しかいないのだった。
「白檀様のおかげで安心しました。これで息ができます。では鷹司家についての報告を——」
ひとしきり報告し終えると山吹は白檀のもとから去っていった。
よほど疲れていたのだろう。
自室に戻って休むと言っていた山吹を白檀は止めなかった。
白檀は茶の湯道具を片付けながら山吹の報告について考えた。
鷹司杏弥は動いていない。
備中まで出向いてきたからには後ろ盾がほしいのだろうと思っていた。
こちらからあえて動かなかったことでしびれを切らして何か動きを見せるかと思っていたが、見せたのは邸から出てくる痩せこけた姿だけだったという。
鷹司家の者は野心家だと思っていたが……。
だが紅葉に探らせていた鎌倉の方は鷹司と繋がった。
おそらく紅葉が京まで追いかけてきたという男は鷹司家の家臣だろう。
杏弥は刑部少輔として、近衛家の事件を裁く一端を担ったに違いない。
だとすれば皐英が風雅の君と繋がっていることを掴んでいる可能性がある。
だからこそ、この備中国まで出向いてきたのかもしれない。
近衛家が没落した今、九条家と並び立つには相応の後ろ盾が必要なことは野心家のあの者たちも理解しているはず。
倒幕を目論んでいた近衛家の手となり足となり動いていた皐英が風雅の君と繋がっていると知った彼らは、風雅の君こそが倒幕を目論んでいると勘違いしたことだろう。
そう、それはあの三公の存在を誰も知らないからである。
風雅の君を取り込むためには幕府の戦力を少しでも削げればいい手土産になる。
短絡的な公家の考えそうなことだ。
そこまでは白檀が考えた台本どおりだった。
この先、もし白檀が描いた台本どおりに杏弥が動くとするなら、次は風早橄欖の事件を調べ、風雅の君が宮中を追われた理由を探るはずだが……。
もしかしたら事態は白檀が思っている方向とは違う方向へ向かっているのかもしれない。
「紅葉は無事に着いただろうか……」
白檀は菱盛が紅葉に対して追手を放っていたことを、この時はまだ知らなかった。
紅蓮寺を出た後、北条棗芽は鎌倉には向かわず備中国へ向かった。
雪柊は風雅の君が玉座を狙うことはあり得ないと言っていたが、棗芽は納得できなかったのである。
風雅の君が玉座を狙っていなければ、結局のところ何のために倒幕を目論んでいたのかの説明がつかない。
だが、肝心の風雅の君は妹尾家の中から出てくる気配がない。
棗芽はどうしても真相を突き止めたくなり、風雅の君の動向を探りに備中国に再び入った。
国内に入り妹尾家の近くに到着してすぐ、細身の刀を背負った女子がひとり、人目を忍ぶようにして邸を出てきた。
これまで何度か妹尾家の邸内にいるのを見たことがある女子だったが、普段からよく邸を出入りしているため、別段気にせず1度は見逃そうとした。
ところが少し刻を置いて数人の武装した男たちが先に出て行った女子を追いかけている様子を見てしまったのである。
同じ邸に仕える家臣同士ならば、相手に気づかれないように離れて追いかけていくということは考えにくい。
後ろからつけている男たちの様子から、女子を始末しようとしているか、捕らえようとしているか、泳がせようとしているか……いずれにしても仲間を追いかけているようには見えなかった。
自分には関係ない。
一瞬そう思ったが、気がついた時にはなぜか彼らの後を追っていた。
理由はわからない。
刀を持った女子が何者なのか知りたかったのかもしれない。
本来女子は刀を持つような存在ではない。
侵入者から家を守るためというのならまだしも、刀を持って積極的にあちこち出歩くなど、何をしているのか以前から不思議に思っていたことは確かだ。
なかなかに勘の鋭い女子で、こちらの気配をある程度察していたようだった。
姿を見られることはなかったが、近くで邸の様子を窺っていると必ず、ふとした折に振り返ったのは彼女だけだった。
棗芽は風雅の君を探るつもりだったのになぜ妹尾家から出てきた怪しい家臣たちを追いかけているのだろう、と釈然としない感情を抱えながら闇夜を駆けた。
つかず離れず女子を追いかける男たちの後を追った棗芽は夜が明ける頃、近江に入っていた。
見慣れた景色が目に入ってきて、紅蓮寺の方向へ向かっているのだと気がついた。
(なぜ紅蓮寺に……)
そんなことを考えていると、遥か前方で鋼の打ち合う音が聞こえた。
近づくと案の定、男たちは刀を抜いた女子と対峙していた。
棗芽はしばらくその動向を見守ることにした。
彼らが対峙したいた場所は紅蓮寺の麓——108段の石段の前だった。