第31話 揚羽蝶の呪縛
備中国で最も有力な武家に妹尾家がある。
広大な敷地に建てられた武家屋敷は増築を繰り返したことによって巨大化し、中は迷路のようになっていた。
もともとの妹尾家は小さな武家であったが、過去の大戦で敗北し滅びた一族を匿ったことからすべてが始まっている。
匿った一族はその姓を『平』と名乗っていた。
平家一族は敗戦とともに滅亡してしまったが、生き残った者たちは何とか再興を夢見てその血を絶やさないことに注力した。
妹尾家もまた先の大戦ですべての男子を失い、血が途絶えることを懸念していた。
互いの利害が一致したことで、妹尾家は平家の男子を婿にもらうことで互いの問題を解決したのだった。
平家は、表向きは滅んだことになっているため、平姓を名乗ることはできない。
その代わり彼らが命の次に大事にしている刀の鞘に平家の家紋を刻むことにしたのである。
日が沈み、月が顔を覗かせる頃。
京から戻った山吹は増築を繰り返した妹尾家の邸の複雑な廊下を歩きながらぼんやりと雪柊が言っていた話について考えていた。
——決定的な理由は……まあ、とある事件がきっかけになったからです。
白檀が宮中を追われ、京を離れなければならなくなったきっかけについて雪柊はそう表現した。
その事件はすでに闇に葬られたとして詳細は教えてくれなかった。
一体何があったというのだろうか。
白檀本人は、もちろんその事件に関わっていたのだろうが訊いたところで話してはくれないだろう。
——今の帝がお生まれになった後も時華様は白椎様と帝のおふたりの面倒を見ておられたはずです。
先帝の御子たちの世話をしていたという現九条家当主ならば、あるいはその事件について知っているのだろうか。
だが九条時華と接点を持つことは難しいだろう。
——……先ほどお話したとある事件の後、急に亡くなられました。
そして謎の急死を遂げたという白檀の母君。
事件の後、急に亡くなったというが事件そのものと関係があるのだろうか。
今の山吹にとって、鷹司家よりもよほど興味深いことだった。
山吹は迷路のような廊下を奥へ進んだ。
複雑な構造になっていても暮らし慣れた我が家である。
考えごとをしていても迷子になることはなかった。
ひとつ先の角を曲がろうと進んだところで、山吹はとある人物と鉢合わせた。
「っや、山吹。帰っていたのですか」
そこに現れたのは、妹尾敦盛の妻——梓だった。
まっすぐに伸びた美しい黒髪に雅な着物を着た姿は到底武家屋敷には似合わなかった。
京から政略的に嫁がされてきた彼女はいつまで経っても武家には馴染んでいない。
今出川家では優雅に暮らしていたのだろう。
その名残をいつも感じさせる女だった。
だがそんな彼女でも山吹にとっては幼い頃から世話になっている、母のような姉のような存在であった。
子どもがいない梓にとって山吹や紅葉は子どものような存在なのだろう。
妹尾家は道行く牛車を停めた山吹たち双子の兄妹を引き取り育ててくれた。
白檀が牛車に乗せてしまったからというのが大きな理由であったが、邸に到着してからも武士となるべくあらゆる武芸を教えてくれた。
何度も実践に放り出され、その度に死にそうな経験をしたがおかげで今は白檀を守る盾となることができる。
下賜された刀の鞘には平家の家紋であった揚羽蝶が刻まれている。
これは妹尾家の中でもただの家臣ではなく、平姓を引き継ぐことを許された者にだけ下賜されているものである。
つまり山吹は平の血を引く妹尾家の家族と認められているのだった。
「ただいま戻りました、梓様。こんなところで何を……」
「や、山吹、大変です。わたくし、聞いてしまったのです。あ、あ、あの方たちが——」
尋常ではない慌てように何かあったのだろうと山吹は梓の肩を掴んだ。
「梓様、しっかりしてください。何があったんですか」
「で、ですから——」
目も泳いでいて埒が明かない。
落ち着かせようと腕を掴み、手近な部屋へ入ろうとした時。
山吹の後ろから厳しい声が飛んできた。
「何をしている」
山吹が振り返るとそこには敦盛の姿があった。
まるで妻を蔑むような視線を向けている。
その視線の先では、梓が震えていた。
ふたりの間に挟まれ、山吹はふたりを交互に見た。
どちらに加担することもできない。
夫婦の間に入るべきではない。
梓が何を聞いたというのか確認することはできないが後は夫である敦盛に預けるしかないだろうと判断した山吹は、梓から手を離した。
「敦盛様、梓様が少し錯乱されていますのでお願いできますか」
「ああ、わかった」
一瞬、梓がそれを拒絶するような視線を山吹に送っていたようにも見えたが、自分には関係ないことである。
面倒なことに巻き込まれる前に、自分は自分の成すべきことをしようと頭を掻きながらその場を後にしようとした。
すると敦盛は山吹の腕を掴んで言った。
「待て、山吹。あの方たちがお前をお呼びだ。ちょうどお前を探していたところだったんだ」
「俺を? なぜですか」
「そんなことは知らない。自分で確かめるんだな」
山吹は深くため息をつくと踵を返し、逆の方向へ向かわざるを得なかった。
あの方たちと呼ばれる者たちがいるのは目指していた白檀の部屋とは真逆の方向にあるからである。
突然呼び出されたことに嫌な予感がして、足取りは重くなった。
ふと気になって振り返ると、敦盛に無理やり手を引かれて去っていく梓の後姿が見える。
この邸で一体何が起こっているのだろう。
少し留守にしていただけなのに、急激に何かが展開しているような気がして、山吹は漠然とした不安に襲われた。
(白檀様はご無事なのだろうか……)
先に戻ると言った紅葉がそばにいれば大事はないだろうが……。
とっとと用事を済ませて白檀のもとへ行こうと山吹は心に決めた。
妹尾家には三公と呼ばれる3人の賢人がいる。
本当に賢人なのかはさておき、本人たちが家臣たちにそう呼ばせている。
三公とは太政官の長の役職3つを取ってそう呼ぶことが多いが、この妹尾家ではすべてのことが三公の権限によって決められているため、朝廷におけるそれと立場は何ら変わりないのかもしれない。
山吹は彼らのことを陰で老人たちと表現し、白檀はあの人たちと表現する。
その存在を認めたくはないが認めなければならない環境下であることを、その呼び方の代用が表していた。
山吹は敦盛があの方たちと表現した三公のいる書院へ辿り着くと、襖の外から声をかけた。
「山吹、戻りましたがお呼びでしょうか」
実に面倒くさそうな声で言ったが、中の人物たちは別段気にしていないようだった。
「戻ったか。入れ」
山吹がやって来た部屋はこの邸の主、妹尾菱盛の書院であった。
中に入ると3人の男たちが互いに向かい合うように腰を下ろしている。
菱盛に促され、山吹は彼らの前に正座した。
三公のひとりは当然、この部屋の主である菱盛である。
妹尾家に対し全権を持ち、彼の考えひとつで家臣一同は身動きしなければならない。
「久しぶりの京はどうであったかな」
そう言ったのは、三公のひとりで名を御形という。
目は細く鋭く、いつも薄ら笑いを浮かべている不気味な男だった。
齢50は超えていそうだが、実際の年齢はわからない。
怪しい呪術使いで亡くなった皐英の師匠であったということ以外、山吹は何も知らなかった。
「京はいつも変わりありませんね」
京へ行くことになったのは白檀の指示であり、誰にも告げずに出かけたはずなのになぜ知っているのだろう。
先に戻った紅葉の口から聞いたのだろうか。
不穏な空気が漂う中で山吹は精一杯自分を繕っていた。
「まあ、鷹司家はすぐには動かないでしょう。あの家は野心家な割に慎重なのだ」
そう答えたのは三公のひとりで名を橘萩尾という。
妙に京や公家の事情に詳しいが何者なのかはわかっていない。
普段は仏のような顔をしているが、時折見せる氷の表情は誰が見ても背筋を凍らせるに十分である。
「……それで、俺はなぜ呼ばれたんでしょうか」
三公の3人は一様に山吹を見た。
彼は3人に見つめられ固唾を呑んだ。
やがて口を開いたのは御形だった。
「何としても輪廻の華を捕らえなさい」
「……っ! それは、白檀様からご報告があったとおり——」
「九条家の嫁になったことは聞いている。だがそれでも何としても捕らえなさい」
「それは無理です! 守りが固すぎてあの邸から人をひとり攫ってくることはおろか、侵入することすらできませんよ。それに、輪廻の華を娶った男は腕利きの武士です。あの男がいる限り——」
「言い訳はよい。何としても捕らえなさい」
「一体何をそんなに執着しているんですかっ。今さらあんな異能をかさにして兵を集めたところで倒幕なんて簡単ではありませんよ。もっと別の方法を探した方が賢明ではありませんか。三公ともあろうお方が、何をひとりの女に……」
怒りをぶちまける山吹に、今度は菱盛がいたって冷静に答えた。
「倒幕のために必要なのではない」
山吹はますます混乱を極めた。
輪廻の華は倒幕の戦を起こすために必要だったのではないか。
だが三公はそれ以上語らなかった。
結局輪廻の華は何のために必要なのかわからないまま、何とかして捕らえなければならないという課題だけが残った。
捕らえて連れてこなければ目の前の賢人たちは納得しないのだろう。
「……わかりました。努力はしてみます」
揚羽蝶の家紋が入った刀を下賜された時から、賢人たちに逆らうことはできない。
しかしこれは自分だけでは解決できない。
紅葉の力を借りることになるかもしれない。
何より白檀の知恵を借りるしか道はないだろう。
肩を落として書院を出ようとした山吹の背中に菱盛は不意に声をかけた。
「紅葉だが——」
山吹が振り返ると菱盛は冷嘲していた。
「嫁の貰い手がないようなら敦盛の側室にでもしようと思うが、兄としてどう思う?」
驚愕した山吹が言葉を失っていると、菱盛はさらに続けた。
「まあ半分は冗談だが、今出川家から輿入れした梓との間に子がおらぬからな。妹尾家の血を絶やさぬためにも何とかして子を成さねばならん。妹尾家の血はたどれば平家の血。敦盛で途絶えるわけにはいかんのでな」
山吹は慌てて菱盛の書院を後にした。
紅葉を敦盛の側室に——そんなこと、許せるわけがない。
敦盛の側室にするくらいなら自分が紅葉を連れて逃げたいくらいだ。
納得のいく相手でなければ紅葉はやれない。
愛する紅葉を泣かせるような相手には絶対に——。
山吹はその後、どうやって迷路を潜り抜けたのか記憶になかった。