第30話 ふたりの決心
弾正尹としての職務を終えた榛紀は清涼殿に戻った。
ここからは帝としての仕事をしなければならない。
文机についた榛紀は懐から1冊の書を取り出し、それを眺めながらため息をついた。
それは、1度は書庫へ戻そうとした『橄欖園遊録』であった。
昼間、書庫へ持っていったものの、そこでばったり月華と鉢合わせてしまったため禁書の棚に返しそびれてしまったのだった。
持出禁止の禁書を持ち歩いていたなどと知られるわけにはいかなかったため、注意を逸らすために月華が禁書を見ていたことを言及した。
実際、弾正台の仕事は官吏の監察である。
怪しい動きを指摘したことに対して、月華は何ら疑問にも思わなかっただろう。
月華へ友になることを強要したのは単なる思いつきだった。
朝廷で仕事をする官吏たちを監察していると、彼らの中には仕事仲間を超えた関係があることがわかる。
もともと幼馴染の者から仕事を通して親しくなった者まで様々だが、一様に気の合う者同士は私生活でも親しくしていることが伺える。
だが同じ朝廷で仕事をしながらも自分にはそのような存在はいなかった。
みな糾弾されることを恐れ、弾正尹には近づこうとしない。
その上、本来は帝という立場である以上、誰彼構わず親しくすることもできない。
そこへきて月華の存在はうってつけだった。
今出川楓の代役として右大臣に召集されたが、役目を終えれば自然と朝廷を去っていく。
月華は知らないようだが、彼は自分とも血のつながりがある。
まさに兄弟のようなものなのだ。
その月華と忌憚なく話ができるようになれればどんなに人生が楽しくなることか。
かつて兄と過ごした楽しい時を取り戻すように。
書庫で別れる際、強引に友となったことを月華は訝んでいたようだったが今はこれでいい。
いつかは彼も真実を知る日が来るだろう。
図らずも月華との縁を結んでくれたような書を愛おしく思いながら榛紀は橄欖園遊録を文机の下に隠した。
この書は敬愛する兄が宮中を追われることになった事件を記録したものだ。
兄が月華との縁を結んでくれたような気さえする。
これを読み切り、事件の真相を突き止めた暁には必ず兄をこの宮中に取り戻す。
榛紀はそう心に決めていた。
九条時華が清涼殿に現れたのは星が瞬く夜になってからのことだった。
時華は現れるや否や、文机を挟み向かい合ったまま口を開かなかった。
いつもとは様子が違い、何度も首を傾げている。
榛紀は官吏たちから寄せられた報告の文に目を通していたが、目の前の客人が気になって仕方がなかった。
何かを語るでもなくいつものように説教するでもなく、ただ目の前に座っているだけの叔父は何を考えているのか。
榛紀の頭には文の内容が全く入ってこなかった。
しびれを切らした榛紀は時華に声をかけた。
「叔父上……そんなに首を傾げてどうされましたか。用事がないのでしたら私のことには構わずもうお帰り下さい」
「あ、いえ、これは失礼いたしました。私はただ、榛紀様がお元気でしたらそれでよいのです」
「はぁ、そうですか。おかげさまで私は元気にしておりますが……それで、首を傾げられている原因は何なのですか」
「それが……書庫から1冊、大事な書がなくなっておりまして。一体どこへ行ったのかと考えていたところです」
榛紀は一瞬、どきりとした。
無意識のうちに文机の下に隠した書に手がいった。
だが榛紀が持ち出した証拠はどこにもない。
時華もそれは疑っていないはずである。
榛紀は動揺を悟られまいと平静を取り繕って答えた。
「紛失、ですか。そんなに大事な書なのですか」
「まあ、そうですな。何しろ所在不明になっておるのは禁書ですので。それも先帝自ら禁書と定められた門外不出の大事なものです」
「…………」
「ですが、なくなったことよりもなぜその書が持ち去られたのかという方が不思議でして」
「それはどういう——」
「その禁書はもう10年も前に起こったある事件を記したものなのですが、そんなものを今さら調べたところで何も利がないはずなのですよ。それが今になって誰かが意図的に持ち去ったのだとすればその目的は何なのかと思いましてな」
手のひらにじんわりと汗が滲んでくるのを感じた榛紀は努めて明るく言った。
「本当に紛失したのですか? 禁書とはいえ、蔵書は膨大ではありませぬか。どこかに紛れているとか——」
「それはあり得ませぬ」
「な、なぜそう言い切れるのですか」
「私自身がその禁書を閲覧したかったからです。隅々までひっくり返しましたが見つかりませんでした」
「お、叔父上こそ、そのような10年も前の禁書を閲覧して、ど、どうしようと?」
図らずも口調に動揺がにじみ出てしまったが時華は特に不審に感じていないようだった。
「今朝、六波羅の男が突然おかしなことを言い出したものですから、私も少し昔のことを調べたくなりまして。ですが、ないものは仕方ない。持ち出した者が戻すことを祈るしかありませぬな。このようなこと、榛紀様にお話しするようなことではなかった。それでは私はこれにて……榛紀様、夜更かしはいけませぬぞ」
時華はおもむろに立ち上がると、その場を離れようとした。
「え、叔父上、もう行かれるのですか」
榛紀が声をかけると時華は満面の笑みで言った。
「ええ。今夜の榛紀様はご機嫌もよいようなので、私がお傍にいる必要はないでしょう」
「なぜ機嫌がいいとわかるのですか」
「恐れ多いことですがあなたがご幼少の時分からお世話をさせていただいているのです。息子同様、お考えは手に取るようにわかるつもりですぞ」
そう言い置いて時華は清涼殿を出て行った。
残された榛紀は時華の言葉の意味を考え、背中に冷たいものを感じた。
手に取るようにわかる、とはどういう意味だろう。
榛紀は文机の下から先ほどの1冊を取り出した。
もちろん表紙には禁書の印がついている。
時華はこの禁書を持ち出したのが榛紀だとわかっていてここへ来たのだろうか。
いや、そんなはずはない。
持ち出した記録はどこにも残っていない。
なくなった事実はわかっても誰が持ち出したのかはわからないはずだ。
榛紀は不安を払拭すべく深呼吸した。
自分でも意識していなかったが、確かに今夜は機嫌がいいのかもしれない。
もしそうだとするならば、それは月華とのことがあったからに違いない。
それにしても——。
月華は禁書の棚で何を探していたのだろう。
友になってほしいと言った時にはずいぶんと奇妙な顔をしていたが、禁書について知り尽くしていると言ったことに対して興味を示していた。
いずれにしても月華は友となることを了承した。
禁書を探している理由についてはおのずとわかることだろう。
心許せる唯一の相手であった兄と疎遠になってから、やっと得た友という存在なのだ。
その存在が嬉しくないはずはなかった。
同じ頃。
月華は華蘭庵の障子を開けて星空を眺めていた。
今夜は朔月の夜。
浮かび上がる天の川をぼんやりと見つめ、月華は考えていた。
『常闇日記』。
あの続きには一体何が書かれているのだろう。
異能について書かれていたようだが、もしかしたら百合の異能と関係があるのではないだろうか。
禁書は持ち出すことができない。
もう少し先を読み進めようとしたところで邪魔が入ったことで、結局その異能の詳細については知り得なかった。
榛と名乗った弾正尹の男——あれは何者なのだろう。
みなが言っているほど恐ろしい存在にはどうしても思えない。
家は明かせないと言っていた。
その上、外には出られない事情があるという。
しかも友になってほしいなどと、わけがわからなかった。
(あれは交換条件というよりも脅しに近かったよな……)
月華は盛大なため息をついた。
すると愛娘の寝顔を見つめていた百合が月華の隣に腰掛けて言った。
「ずいぶんと大きなため息ですね。朝廷勤めはそんなに大変ですか」
「あ、いや、そうじゃないんだ」
心配そうに覗き込んでくる百合を抱き寄せると月華は最愛の妻を膝に乗せた。
後ろから抱きすくめると百合の体温を全身に感じる。
月華はこの瞬間が永遠に続けばどんなにいいか、そんなことを思った。
「朝廷勤めは思いの外おもしろいよ。みなそれぞれに事情があるようだが、国のために一生懸命働いている。そういう意味では幕臣の俺たちと何ら変わりない」
「ふふふっ。月華様からそのような言葉が出るとは思いませんでしたね。あんなに朝廷勤めやこの九条家に世話になることを嫌がっていらしたのに」
「……仕方がない。父上には返しきれない借りがあるし、百合と花織を安心して預けられるのは九条家以外にはないからな」
「そんなにご心配なさらなくても、もう近衛家は衰退してしまいましたし脅威は去ったのではないですか。私も誰かに狙われるようなことはありませんし」
今はまだ、だ。
百合を怖がらせたくないと思った月華はそんな言葉を吐き出す代わりに百合をきつく抱きしめた。
百合と異能を切り離さない限り、第2の近衛柿人は必ず現れる。
百合を輪廻の華と言わしめた異能。
この正体を必ず突き止め、異能を消してみせる。
月華はそう心に決めていた。
しばらく百合を抱きしめていると月華はずいぶんと彼女の体温が高いことに気がついた。
顔を覗き込んでみると赤いようにも見える。
額に手を当てると少し熱かった。
「百合、熱があるんじゃないのか?」
夏の夜の寝苦しい暑さのせいではない。
発汗せずに体内に熱がこもっているような状態だった。
「少し、寝不足のせいではないでしょうか」
「いや、それだけじゃない。体はだるくないのか」
「もともと、花織を産んでから調子が戻っていないので——」
月華は百合の話を最後まで聞くことなく膝から降ろすと、抱きかかえて畳に敷かれていた布団へ彼女を横たえた。
「つ、月華様、私は平気ですので——」
起き上がろうとする百合を月華は強制的に布団へ戻した。
「駄目だ」
「でも、花織の世話もしないといけませんし、それに——」
さらに抵抗する百合の両肩を布団へ押さえつける。
「駄目だと言ったら駄目だ」
「どうしてそんなに——」
「それは俺が言いたい」
「……え?」
「どうしてそんなに百合はいつも無理をするんだ。辛いなら辛いと言えばいい。休みたいなら休みたいと言えばいいんだ。女中たちも松島も、俺もいるのにすべて自分で背負い込もうとするな」
百合が見上げた月華の顔は今にも泣きそうな悲しみに満ちていた。
無理をしているつもりはなかったが、確かに最近、体調が思わしくないことが多かった。
これまで離れていた夫がこんなにも毎日そばにいてくれるのに頼ることを忘れていたことに気がついた百合は、見下ろす月華の頬に手を当てた。
「ごめん、なさい」
月華が言うとおり、熱はある。
だがこれはただのはやり病のようなものではない気がする。
何かが確実に体を蝕んでいる。
そんな漠然とした不安の中で、百合にとって月華の存在だけが一条の光となっていた。