第3話 亡霊の如く
砂埃が舞い、鋼を打ち合う音が響く戦場。
怒号とともに血の臭いが辺りを埋め尽くす。
かつてはこんな戦場を駆け巡ることなど造作もないことだったが、重い大鎧を纏い、星兜をかぶることすらも負担に感じるほどに年を取ってしまった。
男は追いかける相手に目を細めた。
前方を行くのは今回の戦を任された若い大将だった。
(一体、どこへ向かっているのだ。大将自らが本陣を離れるとは……しかもあんな格好で)
突然去って行ってしまった大将を咄嗟に追いかけて来たものの、追いかける相手がどこに向かっているのかはわかっていない。
徐々に離されていく距離を縮めることに精一杯だった男は、必死で馬の腹を蹴った。
男——竹崎は鎌倉幕府に所属する武将のひとりである。
血気盛んな頃はとうに過ぎ、髪は白髪交じりになった。
そんな初老の竹崎が戦場に出てきたのにはわけがあった。
竹崎が命を預けるに値する唯一の将と認めた北条鬼灯から文を受け取ったのは7日ほど前のことだった。
彼が六波羅探題として京へ移住してからというもの、ほとんど顔を合わせることはなかったが、信を置いている相手からの文である。
竹崎は突然の文に慌てて目を通した。
中にはこれから起こるかもしれない戦についての詳細が書かれていた。
もし戦になったとしたらと仮定した上で、迫りくる敵の予測される進路や戦術などがこと細かに書かれており、最後にはこの戦を任せる大将を支えてほしい旨の内容が書かれていた。
他でもない鬼灯からの頼みだ。
老体に鞭を打ってでも戦場に出向かないわけにはいかなかった。
竹崎は大将の背中を追いかける羽目になった本陣でのことを思い返した——。
本陣を囲む天幕の中で怒号が飛び交ったのは一刻前のことである。
鬼灯からの文にあったとおりの進路で奥州の残党と思しき一軍が北方から南下してきたのは2日前のことだった。
事前に情報を得ていた幕府軍は平野で敵軍を迎え撃ったものの、思いの外粘り強く戦いを挑んでくる相手に業を煮やしていた。
打開策を検討するため、大将として床几に身を預ける若者の前に集まったのは竹崎を含めて3人。
彼らはかつて猛将と言われた男たちで、大将よりもふた回り以上年上の面々だった。
このような若造に大将が務まるものか。
竹崎を含む全員がそう思っていたが、将軍より命を受けた相手に対しそんなことを口にするわけにはいかない。
戦況が思わしくない上にそのような不満も相まって、男たちの態度は冷静さを欠いていた。
軍議を始めるために集まった竹崎たち3人に加え、参謀として同行してきた若者を加えた5人が一堂に会した。
大将は集まった男たちの言い分を黙って聞いていた。
「このままではこちらの損害が大きすぎる。幕府へ増援の打診をするべきではありませんか」
「いや、まだ開戦してから2日しか経っておらぬ。戦況はまだまだ変わる可能性がある」
「そんな悠長なことを言っている場合ですか。本来なら寄せ集めのような相手をすぐに殲滅していてもおかしくないはずなのに、このままでは押し切られて鎌倉へ攻め入られるかもしれませんよ」
「そなた、少し大げさすぎるのではないか。戦いはまだ五分五分だ。これ以上攻め込まれると決まっているわけではないぞ」
竹崎も他の男たち同様、不満は頂点に達していたが鬼灯から大将を支えるよう頼まれた手前、あくまで冷静を装い他のふたりの会話に耳を傾けていた。
「何ですと!? そもそも死に損ないの亡霊たち相手になぜこんなに苦戦しているのですか。みな手を抜いているのではないか!」
死に損ないの亡霊たちとは言い得て妙だ。
今対峙している敵が本当に数年前に幕府が征伐した奥州の残党だとすれば、なぜ今頃になって幕府へ攻めてくるのか解せない部分がある。
苦戦を強いられているのは大将の指揮が悪いのか、それとも相手が予想以上に強敵なのか。
この戦況をどう打開するつもりなのか、大将の様子を窺ったが彼は静観しているだけだった。
するとそれまで黙って聞いていた参謀の若者が口を開いた。
「方々の言うことも一理あります。いくら始まったばかりとはいえ、このままというわけにはいきませぬ」
参謀は地図を広げながら言った。
男たちは全員、その地図に目を向けた。
「わかっている」
「それにしても何だって今頃、奥州藤原氏の残党が現れたのでしょうか。藤原氏が殲滅されたのはずいぶん前のことではないですか」
「本当に奥州の残党なのかどうかはわからない」
大将の答えに竹崎を含む男たち全員が顔を上げた。
「…………?」
「俺たちが掴んでいるのは、『奥州藤原氏を名乗る一軍が鎌倉を目指して進軍してきた』という情報だけだ」
竹崎は耳を疑った。
誰もが自分たちが相手にしているのは奥州の残党だと思っていたからである。
だが確かにすでに殲滅された一族の正規軍ではない敵軍はそれを証明するものを示していない。
一体、この大将は何を考えているのだろうか。
何か他の情報を知り得ているのだろうか。
竹崎は黙って続く言葉を待った。
「仮に今相手をしている敵軍が奥州の者でなかったとしても、鎌倉に攻め入ろうとしているのは事実です。敵の目的は何だと思いますか」
参謀の問いに対し、大将は不敵な笑みを浮かべた。
「そんなこと、直接相手に訊いてみなければわからないだろう? 幕府の戦力を削ることが目的なのかもしれない。もしそうだとすれば、俺たちがこれ以上戦を長引かせることは得策ではないな」
床几から立ち上がると、大将はそれまで黙っていた男たちをまっすぐに見つめた。
「いい打開策を思いついたから、貴殿たちはここで休んでいればいい」
「……はっ!?」
3人の武将たちが言葉を失っていると、大将は参謀に向かって言った。
「ここはお前に任せる」
大将はその場に大鎧を脱ぎ捨て、星兜を取ると身軽になって刀1本だけを持って天幕を出た。
次の瞬間には馬の嘶く声と駆け出した蹄の音が鳴り響いていた。
「……えっ!? ちょっと、月華様っ!?」
参謀——早川蓮馬は慌ててその後を追いかけ幕の外に出たが、大将である九条月華は何の防具も身に付けずに身ひとつで戦場の中心へ駆け出していってしまった。
天幕に取り残された3人の武将たちはその行動に唖然としたが、すぐに我を取り戻した竹崎だけが慌てて月華の後を追いかけた。
鬼灯からの文に書かれていた、月華のことを頼むという一文を忘れていなかったからだった。
奥州藤原氏——。
かつては栄華を誇った一族で、奥州は百合の出身地でもある。
京の公家とも交流があったが徐々に勢力を増し、幕府にとって脅威となってきた頃、将軍は奥州征伐の決断を下した。
月華も鬼灯に同行した最後の戦のことは今でも鮮明に覚えている。
ここ何年かは戦と言えるほどの場に出向くことはなかった。
最後に大きな戦場を経験したのは数年前の奥州征伐ではなかっただろうか。
あの時は鬼灯のもとで、右も左もわからないまま戦場にいた。
何万もの兵の犠牲の上に成り立った幕府軍の勝利だったが、考えてみれば自分が無事に生き残ったことさえ不思議なほどの戦だった。
奥州は殲滅され、跡形もなく焼き払われた。
あの禍々しい炎がすべてを呑み込む残酷な光景は今も脳裏に焼き付いている。
あの時、すべて葬られたはずなのに今になってなぜ——。
百合も『輪廻の華』と呼ばれ、その戦場で異能を使うことを強要されていたという。
彼らにとって必要とされていた百合を取り戻そうとしているのか。
いやそんなはずはない。
百合が生きていることがわかっていたなら、彼女が鎌倉にいないこともわかっているはず。
ならば、弔い合戦のつもりなのか。
だが、もしそうならもっと早くに動き出していてもよかったはずだ。
月華は鎧と兜を脱ぎ捨て身軽になったことにより、戦場の中を誰よりも早く駆け抜けた。
誰がどう見ても、戦場に出てくるような恰好は見えない。
四方八方から飛んでくる矢をかわし、時には狙いを定めてくる矢柄を素手で掴めるほど感覚は研ぎ澄まされていた。
辺りを見回すと息絶えて地面に転がる兵や傷つきうめき声を上げる者もいる。
混戦していて、もはや自軍の兵なのか敵兵なのかもわからないほどだった。
後ろから追いかけてくる武士が容易には追いつけないような速さで戦場を駆け抜けながら、月華はさらに表情を曇らせた。
(あの奥州征伐の戦場に百合もいたとは信じがたい。命が削られていく光景だけでも残酷なのに、死にゆく自軍の兵たちを看取っていたとは、想像するに堪えない……確かにこの殺伐した空間で、百合の存在は希望の華のように見えただろうな)
月華は戦場の中心まで来ると駆ける馬の動きを止めた。
開戦してから2日——膠着状態が続く戦場をぐるりと見回す。
そこへ月華を追いかけて来た武将のひとりがようやく追いつき、苦言を呈した。
追いかけてきたのは竹崎だった。
すっかり息を切らせている。
「く、九条殿っ! 簡単に本陣を離れられては困りますっ」
「本陣には参謀として蓮馬がいるのだから、別に問題ないだろう」
「あなたは我々幕府軍の大将なのですぞ! その自覚はおありなのか」
「俺に何かあろうと、次の戦略は必ず参謀である蓮馬が考える。貴殿たちもいるのだから兵が路頭に迷うこともなかろう」
「そういう問題ではないっ! それに鎧を脱ぎ捨てて戦場の中を駆けるなど、正気の沙汰とは思えぬ」
「かつての鬼灯様もよくこうやって戦場の中心を駆けていたではないか。似たようなものだろう? 竹崎殿だってあの方の本性をよく知っているはずだが。俺はいつも鬼灯様の後ろで戦場を駆けてきた。自分がすべきことが何なのかわかっているつもりだ」
「し、しかし……北条殿はそなたほど無謀ではなかった。一体何をなさろうとしているのだ」
「俺は今、敵の本陣へ向かっている。この戦場で最も危険な場所ゆえついて来なくてよい」
「……何だと!?」
「戦を早く終わらせるには敵将の首を押さえるしかなかろう? 直接訊きたいこともあるしな」
竹崎はそれ以上何も言わなかった。
年下の、それも経験の浅い者を大将に据えられるというのはいくら命令とはいえ、さぞ気分を害していることだろう、と月華は思う。
だが、今はそのような矜持に気を配っている場合ではない。
少ない犠牲でこの戦を終わらせるために、自らが動くしかないと月華は考えていた。
ぐるっと見回し、向かうべきところを見定めた月華は一気に駆け出した。