第29話 常闇日記
中務省を出た月華は図書寮が管理する書庫へ向かった。
道はすっかり覚えたので、考えごとをしていても辿り着ける。
月華はうたた寝の間に夢に見ていた鎌倉でのことを思い返した。
奥州の残党を率いていた男とは牢で柵を挟んで長い間話をした。
最後には延々と奥州を攻めた幕府の愚痴を聞かされたが、なぜか悪い気はしなかった。
男は百合が輪廻の華と呼ばれ戦場にいたことを知っていた。
世話になったとも言っていた。
その百合のために奥州を再建しようと残りの人生を賭けたと語った男に、百合を妻にしたとはどうしても言えなかった。
百合も自分のために命を賭けた故郷の者がいると知って喜ぶはずはない。
これ以上、輪廻の華の影を巡って争いが起きないように、あの異能を消滅させる方法を探らなければならない。
無事に書庫へ辿り着いた月華は、中に誰もいないことを確認すると奥へ進んだ。
奥には禁書の棚と言われる蔵書棚があり、そこにはすべての表紙に禁書の印が付いた書物がびっしりと積まれている。
積まれた蔵書には別段、規則はないようでいくつか手に取ってみたものの、とにかく誰も見ない前提で無造作に積まれているようであった。
月華は適当に1冊手にとってみた。
中身をめくるとずいぶん昔の官吏の醜聞を記録した書のようだった。
誰彼が盗みを働いただの、誰彼が不貞を働いただの、どうでもいいことがそこにはびっしりと書かれている。
(……こんなもの、保管しておく意味があるのか?)
それを棚に戻し、月華は次の書を手にした。
そこにはかつての京に蔓延った妖をとある呪術師が退治した話が書かれている。
まるで夢物語のようだが一応、事実として記録されていた。
こんなものが人目に触れれば民を脅かすだけだと禁書の扱いになったのかもしれない。
その後もいくつか目を通して見たものの、ろくなものがない。
(謎を解く鍵が禁書にあると感じたのは気のせいか……)
月華は同じ禁書の棚からふと目についた1冊を手にとった。
どうせまたろくでもない内容なのだろうと適当にめくった頁を開くとそこには思いもかけないことが書かれていた。
『常闇の術は大きく5つに分かれる。
常世渡り
常世戻し
業縛り
業解き
解
この5つは異能を受け継いだ術者が自由に使うことができる』
月華は目を見張った。
内容は全くわからないが、異能という言葉だけはまるで浮かび上がっているかのように目に飛び込んできた。
百合が持つ異能とは程遠いように思えるが、とにかく月華は先を読んでみることにした。
求めているものの手掛かりがあるかもしれない。
夢中になって頁をめくった。
『常世渡りと常世戻しは非常に危険な術である。
この異能を使うことは命がけであると心得なければならない。
わたしはこの術を受け継いだ時、それらについて知らされていなかった。
何も知らず使い続けた結果、想像以上に負担になった』
何かの異能について書かれているのは間違いない。
月華は慌てて書を閉じ、表を見た。
表紙には『常闇日記』と書かれてあり、間違いなく禁書の印がついている。
彼は深呼吸すると、初めの頁から読み直すことにした。
書き出しはまるで謎かけのようだった。
『常闇の術。
それはこの世の理を無視した禁忌の術である。
常世の国と現世を行き来することができる人ならざる力。
血で受け継がれることはなく、人から人へと受け継いでいく忌むべき術。
わたしはこの力を受け継いだことを後悔していない。
だが、できれば後世に受け継ぎたくはない。
なぜなら——』
月華が続きをめくろうとしたまさにその時、背後から声が聞こえた。
「月華、そこで何をしている」
普段ならそんなことは絶対にないが集中しているあまり、背後に近寄る気配に気づくのが遅れてしまった。
びくりと肩に力が入る。
恐る恐る振り返るとそこには全官吏が恐れをなす弾正尹が立っていた。
禁書は持出禁止、閲覧制限のある書である。
それを臨時の官吏とはいえ、勝手に見ていたとわかればお咎めは免れないだろう。
月華は咄嗟にそれまで読んでいた常闇日記を勢いよく閉じると後ろへ隠した。
「だ、弾正尹、様……奇遇ですね。2日連続書庫でお会いするとは」
辛うじて絞り出した声は多少裏返っていたかもしれない。
月華の様子がおかしいと感じた弾正尹はさらに距離を詰めてきた。
「今、何か隠さなかったか」
「い、いいえ。何でもありません」
「何でもないならなぜそのように動揺を見せる?」
官吏たちが恐れおののくだけあって指摘は鋭かった。
弾正尹の視線を痛く感じ、月華は目を逸らした。
「それは——」
何とか言い訳を考えている月華の隙をついて、弾正尹は背後に回り月華が隠した書を取り上げた。
表紙の禁書印を見るなり、弾正尹は月華に疑いの目を向ける。
「そなた、これは禁書ではないか」
「えっ、あ、ああ本当だ。これは失礼しました。禁書というものが存在するとは教わっていたのですが、まさかこれがその禁書だとは気づきませんでした」
どうにも苦しい言い訳に弾正尹は取り上げた書の禁書印を指さして月華に見せた。
「よいか、ここに禁書を表す印がついている。どの棚に紛れていようとこれが禁書であることには違いない。本来なら罰に処するところだが——」
そう言って弾正尹は取り上げた禁書を棚に戻しながら、ずるい笑みを浮かべて月華に耳打ちした。
「そなたが私の友となってくれるのなら、今回のことは不問にしてもよい。どうだ、月華?」
「不正を正す立場のあなたが駆け引きを持ちかけるつもりか?」
「禁書は持ち出した場合は厳罰に処するが、閲覧は禁止されてはいない。制限されているだけだ。そなたにはまだ閲覧許可が下りていなかったのに見てしまった、これならば正論として成り立つ」
「何だって?」
「これから閲覧許可を申請すればよいのだ。順序が逆になってしまっただけだと言えば、許される」
「…………」
月華は混乱していた。
弾正台とは官吏が不正を働かないように常に監察している部署だと聞いたはずだ。
弾正尹ともなればその弾正台の官吏たちを統制するもっとも規範に忠実な人物のはずなのに、一体どういう風の吹き回しなのだろうか。
「私はこの禁書の棚を知り尽くしている。そなたに閲覧許可が下りれば探しているものを教えてやることもできるかもしれぬ。どうする?」
「……なぜ俺と友になりたいと?」
「残念ながら、私には友はおらぬ。弾正尹とは官吏を監察する立場にあるゆえ、誰かに傾倒することはできぬのだ。官吏たちがともに職を終えた後、仲良く呑みながら愚痴をこぼし合っていることは知っている。だが私にはそういった相手はないからだ」
「だからってなぜ俺なのですか」
「そなたは鎌倉の武士だからだ。今は臨時で官吏をしているが、期間を終えればそなたは朝廷を去っていく。だからだ」
月華は自分の素性をどこまで知っているのか、少し恐ろしくなった。
父がこの弾正尹を説得したから臨時の官吏をしていられるのは理解しているが、それにしても父からどこまで聞いているのだろう。
「では外で友を作ればいいではないですか」
「……外には出られぬ事情があるのだ」
暗い影を落とす弾正尹を見て、月華はどうするべきなのか迷い始めた。
友となる条件を呑めば禁書を自由に見ることができるかもしれない。
目の前の本人が禁書を知り尽くしていると言っているのだ。
それは月華にとっても都合がよい。
だが、あまりにも怪しすぎる。
官吏たち全員の素性を知っているらしいが、外には自由に出ることができないという。
信じてもよいものなのか……騙されているのではないかと思わなくもない。
「——わかりました、俺でよければ友になりましょう」
「そうか、それはありがたい」
弾正尹はこれまでの固い表情とは打って変わって柔らかく微笑むと月華の手を取って固い握手を交わした。
月華はやはり最初に感じた親近感は間違っていなかったように思った。
「ありがとう、月華。閲覧許可は私が用意し図書寮に提出しておこう」
「あ、ありがとうございます」
「礼には及ばぬ。私たちは友ではないか」
友とはこうやって公言してなるものだっただろうか。
よくわからなくなってきた月華だったが、禁書を目にしていたことを咎められずに済み、その上今後も禁書を閲覧できるようになるのは好都合であった。
「ところで、友だというのならあなたの名前を伺ってもいいでしょうか。普段はよいが、ふたりの時も『弾正尹様』では距離がありすぎるように思いますが」
「な、名か? 名は——」
弾正尹は一瞬目を泳がせたがすぐに閃いたように言った。
「榛だ」
「榛? 変わった名なのですね。家はどちらなのですか」
「それは言えぬ」
月華はますます首を傾げた。
「そんなことよりも月華。友となった私に敬語はいらぬ。もっと近づきたいのでな」
「はぁ……」
月華は変な人物に懐かれてしまったような気がして、肩を落とした。
結局、それまで見ていた禁書は弾正尹の手によって棚に戻されてしまった。
あの常闇日記という書の書き出し。
続きの頁が気になって仕方がない。
閲覧許可が下りれば短い間でも自由に見ることができるようになるだろう。
それに新しく友となった榛があの日記について何か知っているかもしれない。
月華はそんな期待を持ちながら書庫を後にした。