第27話 取り越し苦労
時華と鬼灯が牛車に乗り込む四半刻前のこと。
昨夜、出先から帰った父に捕まった九条家の兄弟は、早朝から出仕するために父よりも先に邸を出た。
路地は人影もまばらで雀の鳴き声が聞こえる。
快適な夏の朝だった。
にも関わらず悠蘭が頭を押さえながら歩いているのは、呑んだ酒の量が許容を超えていたからだろう。
隣を歩く月華は同情して弟を気遣った。
「大変だな、悠蘭」
「……まったくです。だいたい、何刻まで呑んだと思っているのですか」
「さあ……覚えていないな」
「信じられない……兄上は本当に平気なのですか」
「まあ、多少寝不足ではある」
悠蘭は呑み過ぎで頭痛のする頭を抱えながら唸った。
みつ屋で呑んだ時点ですでに呑み過ぎたと感じていた悠蘭だったが、帰宅した折に父に捕まったのが不運の始まりだった。
親子3人で呑んだ量は計り知れない。
ほとんどを父と兄が消費したが、悠蘭も呑まずには済まされなかった。
それでも休まず出仕しようと邸を出た弟のことを、月華は感心した。
「そう言えば菊夏殿は一緒に出仕しないのか」
「……間もなく出てくるのではないですか」
面倒くさそうに答える悠蘭に月華は噴き出した。
「呑んで帰ったせいで喧嘩でもしたのか」
「ち、違いますよっ。最近、菊夏の様子がおかしいんです」
「様子がおかしい?」
「先日、相談したいことがあると話したことを覚えていますか。あれは菊夏の件だったのです」
月華は御所までの道のりを歩きながら悠蘭の話に耳を傾けた。
弟の話によれば新妻の菊夏は近頃、何かを悩んでいるようだとのことだった。
それとなく様子を窺っても「何でもない」の一点張りでなかなか打ち明けてくれない。
菊夏の好きなものを買って帰ってもさほど反応はなく、たまの休暇に外へ連れ出しても心ここにあらずでさして喜ばなかったという。
「一体何を悩んでいるのか……もうお手上げです。頼ってもらえないことがこんなに情けないとは」
「正直に心配している、悩みを打ち明けてほしいと言ってみたのか」
「それらしいことは言ったことがありますが、そんな真正面からは……だって、俺に打ち明けられないような悩みだったら……そうか、もしかして問題は俺にあるのか」
ひとりでぶつぶつと悩みだした悠蘭に月華は肩を落とした。
自分も妻のこととなると弟のように盲目なのかもしれないが、右往左往している彼を見ていてすっかり呆れてしまった。
「お前は菊夏殿のことが好きか」
「好きです。そんなこと、訊かれるまでもありません」
「それならお前は何もせずとも今のままでいいんじゃないか」
「……はっ?」
「お前の心配している言葉や行動は必ず彼女に伝わっている。だからじたばたせずに見守っていればいいんじゃないか。変に深掘りしたところで逆効果だと思うぞ」
「本当にそれでいいんでしょうか」
「とにかく、今は打ち明けられない何かが菊夏殿の中にあるんだろう? お前は愛情を注いで支えていればいい」
「はぁ……そんなことでいいのでしょうか」
「あとは、少しふたりで旅にでも行ったらどうだ?」
「旅?」
「ああ。日常を忘れて心安らぐ時に本音が出るかもしれない。まあ、多忙なお前が何日も休暇を取れるとは思えないけどな」
「うぅぅぅ……」
呑み過ぎによるものなのか、解決しない悩みによるものなのかわからないがますます痛みが増して悠蘭は頭を抱えた。
そんな話をしているうちにふたりは目的の御所へ辿り着いた。
今日も官吏としての1日が始まる。
次々と出仕してくる官吏たちが互いに朝の挨拶を交わす中、月華は襟を正して1歩を踏み出した。
月華の勤める中務省と悠蘭の勤める陰陽寮は隣り合っている。
朝靄が立ち込める中、ふたりが同じ方向へ歩いていると前方からある男がこちらに向かってきた。
背中を丸め、まるで人目に付かないようにしているかのような男は、目の下にくまを作り頬はげっそりとこけて見える。
目もどこか虚ろでまるで魂がここにないようであった。
月華は男の顔を思い出し、ぽつりと呟いた。
「あの男……」
月華の呟きに悠蘭は答えた。
「ああ、杏弥ですか。面識がおありなのですか」
「いや昨日、図書寮の近くですれ違ったのだが、向こうは俺のことを知っているようだった」
「それはそうでしょうね」
「…………?」
「兄上はもうお忘れでしょうが、かつて鷹司家の茜音殿と見合いの話が上がっていたのに断ることもなく家を出て行かれたから、その後大変だったのです」
「大変だった?」
「はい。お相手の茜音殿というのはあの杏弥の姉上なのですが、破約にされたと鷹司家が九条家へ文句をつけてきたのです。父上が丸く収めてくださいましたけどね。そういう意味でも兄上はずっと父上には頭が上がりませんね」
頭痛はどこへ行ったのやら意地悪く微笑む悠蘭に、月華は肩を竦めた。
「髪を染めたのに俺の顔がわかるとはよほど恨まれているのか……」
「もう昔のことです。ですがそれ以来、あの杏弥は何かにつけて悪態をついてくるのですよ。兄上もお気をつけください」
「悠蘭はずいぶんと仲が良さそうだな」
「仲がいいなんて冗談はやめてくださいよ。杏弥とは年が同じでちょうど同じ頃に朝廷勤めを始めたというだけで友人ではありません」
ふたりが自分の話をしているとも知らず、すれ違いざまにも鷹司杏弥はふたりに気がつくこともなく去っていった。
その様子に不信感を抱いた月華は訝しげに言う。
「少し様子がおかしくなかったか」
「確かに。いつもなら睨んできたり、ひと言吐いていくような悪態をつくのですが……まあ、別に俺たちには関係ありませんので放っておきましょう。関わっても百害あって一利なしですから」
その後、月華が中務省へ入っていくのを見届けると悠蘭は陰陽寮へ入っていった。
中に入ると中務省に匹敵するほど、陰陽師たちは疲弊していた。
疲弊している原因は人が足りないだけでなく、滞っているものを急いで執り行おうとしているからだった。
そのうちのひとつに、四堺祭がある。
四堺祭は年に2回執り行われる陰陽寮でも大きな行事であったが、春先に毒殺事件があったために準備が間に合わず、ずれ込んでいた。
自分の文机に着くと青ざめた顔をした陰陽師のひとりが悠蘭に声をかけてきた。
「悠蘭様、お目どおりを願い出ている方がいるのですが、こちらへお連れしてもよいですか」
「それはかまわないが、こんな朝早くから一体誰が来たというのだ?」
「六波羅の御仁でございます」
驚いた悠蘭は慌てて立ち上がろうとして文机に膝小僧をぶつけた。
苦痛に耐えながら膝を抱えていると、頭上から声が聞こえた。
「膝など抱えて、腹でも痛いのか」
見上げるとそこには今や義叔父となった鬼灯が堂々と自分を見下ろしている。
悠蘭は目尻に涙を溜めながら答えた。
「腹ではなく、見たとおり膝が痛いのですっ」
嘲笑した鬼灯は了承も得ず、堂々と文机を挟んで悠蘭の向かいに腰を下ろした。
御所の中でもほとんど見かけることがない鬼灯が初めて陰陽寮を訪れたため、室内は騒然としていた。
妻の実の叔父である鬼灯がわざわざ悠蘭を訪ねてきたのだからよほどの用事なのだろう。
悠蘭は、まさか菊夏の悩みについて話に来たのではないかと内心、気が気ではなかった。
やはり直接打ち明けられないような悩みなのか、それも原因は自分なのか。
鼓動が早鐘を打つ中、まるで探りを入れるかのように動揺を隠しきれないまま悠蘭は鬼灯に言った。
「き、鬼灯様、こんな朝早くからどうなさいましたか?」
月並みではあるが、これ以上に的確な言葉が出てこなかった。
「いや、お前に少々訊きたいことがあって参ったのだ」
やはり、話は菊夏のことかっ!
まさか離縁させられることはないだろうが、なんらかのお叱りがあるのかもしれない。
自分のどこがいけなかったのか。
徹夜することが多く、菊夏に寂しい思いをさせているからだろうか。
それとも、彼女と婚姻する際に鬼灯に念を押された「早く子を成せ」と言われたことがまだ実現できていないからだろうか。
それは授かりものだからどうしようもないのに……。
などと、悠蘭の中での妄想はどんどんとあらぬ方向へ膨らんでいった。
「悠蘭、お前は鷹司杏弥のことをよく知っていると聞いたのだが、少し教えてくれぬか」
菊夏が夫である自分に悩みを打ち明けられないのに、叔父上には打ち明けられるのか。
夫といえども赤の他人。
やはり血の繋がりには勝てないのだろうか。
ああ、どうしてこんなに自分は不甲斐ないのだろう……。
「悠蘭、聞いておるのか」
こうなったら目の前の義叔父には早々にお引き取りいただいて、菊夏には平謝りするしかない。
原因は自分ではないかもしれないが、とにかく謝っておくことが先決だ。
「悠蘭っ!」
目の前の鬼灯が声を荒げたことで悠蘭は我に返った。
呆れ顔の鬼灯が眉間に皺を寄せている。
「お前は何をひとりで百面相しているのだ。私の話を聞いていたか」
「え? お話ですか……申し訳ありません。考えごとをしていて聞こえておりませんでした」
正直に答えると鬼灯はため息交じりに言った。
「だから、鷹司杏弥について訊ねたいと申しているのだ」
「はっ……? 杏弥のことですか? 菊夏のことではなく」
「菊夏? あの娘がどうかしたのか」
「い、いえっ! どうもしておりません、元気にしております」
「それならばよい。私が訊きたいのは菊夏のことではなく、鷹司家のことだ」
「は、はい、それならば——」
悠蘭はそれまで考えていたことがすべて取り越し苦労だったとわかり、若干赤面してしまった。
悩み過ぎて先走り過ぎだったようだ。
とりあえず質問された鷹司家について悠蘭が知っていることはすべて回答した。
鬼灯は礼を言ってすぐに立ち去ったが、悠蘭の頭の中では疑問が沸いていた。
兄といい、義叔父といい、なぜみな鷹司杏弥に注目しているのだろうか。
考えても答えはでなかったが、頭の片隅でいつまでも引っかかっていた。