第26話 暗黙の了解
棗芽が出て行った後、鬼灯はすぐに邸を出た。
まだ朝靄の立ち込めるような時刻だったが、朝廷の朝は早い。
目当ての人物に接触するためにはのんびりなどしていられなかった。
相変わらず着流しの姿にだらしなく髪を垂らしたままの鬼灯は偶然を装って九条邸の前にやって来た。
邸の前には牛車が停まっており、当主が現れるのを待っているようである。
どこまでも続く高い塀はその広大な土地を隠すように巡らされ、外とは空間を別にしているかのようだ。
何度も訪れたことのある邸だが、その権力の大きさを象徴する巨大な門を鬼灯は改めて見上げた。
すると重々しい音を立てて開かれた門から九条家当主が現れた。
鬼灯の姿に気がついた彼はその足を止めた。
「鬼灯殿ではないか。こんな早朝から珍しいな。どこかへ出かけるところか」
「私もたまには朝議に顔を出そうかと思いまして」
鬼灯は不敵な笑みを浮かべて答えた。
しばらく沈黙していた九条家当主——時華は深くため息をつくと言った。
「……では一緒に参ろうか」
朝議に顔を出すというのは鬼灯の嘘だと、時華は気がついていた。
一緒の牛車に乗って出仕すれば確かに朝議に出席する可能性は否定できないが、現れた目的が別にあると時華は理解している。
この男は何か話をしたい時には決まって偶然を装い、姿を現す。
旧知の仲であるからこそ、それは互いに暗黙の了解といったところであった。
ふたりを乗せた牛車は朝靄の中を動き出した。
時華はあえて何も言おうとしない鬼灯を訝しげに見つめた。
「それで、何を訊きたいのだ?」
「……実は、少々鷹司家についてお訊きしたいと思いまして」
「鷹司? 近衛家の次は鷹司家が何か企んでおるのかっ」
「いえ、企んでいるのかどうかはまだわかりませぬ。ですが今は、動き出しているかもしれないとだけお答えしておきましょう」
「…………」
うんざりした様子の時華はこめかみに手を当て、ため息交じりに答えた。
「鷹司家の当主は棕梠といって、今は内大臣の職に就いておる。棕梠には茜音という娘がおって、かつては九条家の親戚が月華の見合いの相手として挙げたこともあったのだ」
「見合いですか? それは初耳です」
「当時の鷹司家は九条家と関係を持ちたいと考えていたらしい。私の知らぬところで話が進んでいたが、私が断ろうとした時にはすでに月華が家を出た後だった」
「ははぁ、見合いが嫌で家を出たという噂もあながち外れてはいなかったということですな」
公家の世界では家同士が決めた相手と婚姻するのは普通のことなのだろうが、それを受け入れられなかった月華が公家の世界を捨てたことを鬼灯はしかるべきと考えていた。
もし見合い話が出ていた時にそれを受けていたら月華は今頃どんな人生を歩んでいたのだろうか。
あの性格であれば、おそらくすでに離縁していただろうと想像し、鬼灯はほくそ笑んだ。
「棕梠は昔から野心家の一面を持っていたが表立って動くことはなく、いつも裏で暗躍しているような輩だ。今、何かを企んでいたとしても何ら不思議はない」
「野心家だとすれば左右大臣の座を狙っていることもありますか」
「さぁ、どうだろうか。そういった動きを見せたことはないが、今は左大臣の座が空席ゆえあり得るかもしれぬ」
「実際には可能なのですか」
「これまで長年、左大臣は近衛家が、右大臣は我が九条家が務めてきた。だが近衛家はすでに名ばかりとなってその勢力を失っておる。空席のままというわけにもいかぬから残る摂家の鷹司家、一条家、二条家のいずれかから選ぶことも考えねばならぬな」
「はあ、なるほど……」
鬼灯は腕を組みながら時華の話を掘り下げて考えてみた。
いきなり左大臣の座に、残る3つの摂家から選ぶということはないだろうが九条家当主を左大臣に据えることはあるだろう。
そうなれば右大臣の座が空席となる。
左右大臣は両翼があって初めて均衡が保てるのだから、誰かは右大臣の座に就くはずである。
そうなった時に最も有力なのは内大臣である鷹司家当主ということか。
「鷹司家の現当主は鷹司棕梠殿とおっしゃいましたね? 嫡子も朝廷にいるのですか」
「おるぞ。杏弥といってな。今は刑部少輔を務めておる」
「刑部少輔……評判はどうなのですか」
「評判? 特に何も聞いたことはない。だが、あの棕梠の息子が同じように野心を持っていないとは思えぬな。杏弥のことは悠蘭の方が詳しいのではないか」
「どういうことですか?」
「杏弥は悠蘭と同じ年でな、それほど親しくはないと思うが時折、言葉を交わしているところを見ることがある。確か朝廷勤めを始めたのも同じ頃ではなかったろうか」
「なるほど……」
時華の話で少しずつ見えてきた。
もし想像どおり鷹司家が左大臣に就くかもしれない九条家と並んで右大臣の座に就きたいと考えているとしたら、どういった行動を取るだろうか。
同じ摂家の一条家や二条家を牽制するためにも、強力な家や人物の推薦が必要だろう。
他の官吏たちが納得するような者からの推薦でなければならない。
時華の様子から見て、鷹司家とはあまり親しくなさそうである。
とすれば九条家の推薦を得ることは難しいだろう。
今の帝の推薦はどうか。
いや、それはあり得ない。
時華は帝の実の叔父であるのだ。
その叔父が認めないのに、帝が認めてくれるとは考えないだろう。
そうすると——。
「時華殿、備中国にいる風雅の君と呼ばれる御仁をご存じですよね?」
鬼灯の思わぬ言葉に時華は絶句した。
その様子を見た鬼灯は確信した。
やはり先帝の落とし種——つまり今の帝と血の繋がったもうひとりの皇子がこの世には存在する。
風雅の君と呼ばれ、おそらく備中国に身を隠しているのだろう。
鷹司家は風雅の君を味方につけ、のし上がることを狙っている。
そう考えれば、かの家の者が備中国を訪れていたことも辻褄があってくる。
備中国を訪れたのは果たして当主の棕梠か嫡子の杏弥か。
帝と血の繋がりのある御仁に面会しようというのだから、家臣の者に任せることはないだろう。
「そなた、風雅の君について調べてどうするつもりだ」
「さぁ、今のところはどうもしませぬ」
「今のところ、とは」
「昨年の倒幕を狙った事件に備中国が関わっていることはすでに明るみ出ております。その渦中にいてそれを指揮しているのが何者なのか、まだ倒幕を目論んでいるのかはわかっておりませぬが同じ場所に風雅の君と呼ばれる方がいて、そこを鷹司家の者が訪ねていたという事実があることだけはお伝えしておきましょう」
「…………」
鬼灯が冗舌に語るのとは対照的に、時華は黙していた。
ふたりが腹の探り合いをしているうちに、牛車は御所の入口へ到着した。
まだ出仕する人影はまばらで、朝靄が広がる幻想的な空間になっている。
鬼灯は誘われて同乗しておきながら、先に降りようとした。
中腰に立ち上がった彼の腕を掴んだ時華は眉間に皺を寄せて言った。
「鬼灯殿、どこへ行く」
「私は用事を思い出しましたので、ここで失礼いたします」
「そなた、朝議に出るのではなかったのか」
「あぁ、その予定でしたが気が変わりました。では朝議に出るのはまたの機会にということで」
軽く時華の腕を振り払うと、鬼灯は優雅な仕草で長い髪を揺らしながら牛車を降り、朝靄の中へ消えていった。
自らも牛車を降りると見えなくなった鬼灯の背中をぼんやりと眺めながら、時華は呟いた。
「まったく……勝手な男だ」
邸の門前で会った時から、朝議に出るつもりがないことはわかっていた。
鬼灯はいついかなる時も自分の義を貫く上に、主へ忠誠を誓う将軍の忠臣である。
これからも倒幕を目論むような輩を絶対に許さないだろう。
それがたとえ高貴な方であったとしても。
鷹司家の者が風雅の君に会いに行ったというのは本当だろうか。
いや、本当なのだろう。
鬼灯があそこまで言い切ったのだ。
鷹司棕梠は右大臣の座を狙って、風雅の君の後ろ盾を得ようというのだろうか。
だが今の朝廷に風雅の君を知っている者がどれだけいるだろう。
仮に風雅の君の存在を多くの者が知っていたとしても、帝が呼び戻したのでない限り、突然現れれば大変な騒ぎになる。
長年、京を離れていた理由を詮索する者や現れた風雅の君が本物なのかどうかを邪推する者も出ることだろう。
風雅の君が備中国にいる理由を説明するには、闇に葬られたあの事件を再び掘り起こすことになる。
事件を記した橄欖園遊録はすでに先帝の御代に禁書となった。
あの事件を掘り起こすことは誰も幸せな気持ちにならない。
白椎も榛紀も雪柊も、誰も彼も——。
時華はそうならないことを祈りながら自らの役目を果たすため、朝堂院へ向かった。