第23話 逆鱗に触れるひと言
紅蓮寺の住職、雪柊から使いを頼まれた修行僧の鉄線は用事を済ませて寺へ戻る途中、首を傾げながら108段の石段を見上げた。
近江の山奥にそびえ立つ紅蓮寺は慣れない者にとって息を切らすほどの長い石段を上った上に存在する。
来訪者はほとんどおらず、たまに訪ねて来る多くは鉄線の見知った人物であったが、見上げた先にいたのは見たこともない風体の人物だった。
2尺はあろうかという太刀を背負った武士のようだ。
後ろで三つ編みにした長い黒髪を揺らしながら、堂々と石段を進んでいる。
鉄線は不審に思いながらも、その後ろ姿を追いかけるように石段を1段ずつ上り始めた。
寺の周りには望まぬ侵入者が入れないように雪柊が結界を張っているという。
滅多なことはないだろうと、鉄線は思った。
長く紅蓮寺で修業してきた鉄線にとって、この1年余りの出来事は一生分に相当するのではないかというほどに目まぐるしかった。
百合とともに下の沢で月華を発見してからというもの、紫苑だけでなく李桜や鬼灯までもが寺に出入りするようになった。
気がつけば月華の弟、悠蘭までもが雪柊に弟子入りしている。
事件がある程度落ち着いた今となっては、出入りするのは修業に来る紫苑や悠蘭だけになったが、何かが動き出す時には再び多くの者が出入りするようになるのだろう。
雪柊にはなぜか人を惹き付ける引力があるようである。
だが自分の師匠ながら、実はその本当の顔を知らない、と鉄線は思う。
時々、日頃の顔とは違う厳しい一面を見せる時があるが、それもすぐに元通りになってしまうため本当の雪柊は一体どんな人物なのか、未だによくわからなかった。
そんなことを考えながら上りなれた石段を進むと、寺の境内の方から何かが激しくぶつかるような物音と砂を蹴るような音が聞こえてきた。
争いごとのような気がした鉄線は残りの30段を駆け上った。
鉄線が紅蓮寺の境内へ辿り着くと、そこでは見たこともない光景が繰り広げられていた。
先ほど前方にいた長い黒髪の男が鞘ごと太刀を振り回しており、それを雪柊が箒の柄で受け止めている。
ふたりも目で追うのがやっとなほどの速さで打ち合っては離れ、間合いを詰めては睨み合うということを繰り返していた。
固唾を呑みながら身動きも取れずに見守っていた鉄線は、打ち合う雪柊の表情が見たこともないほど厳しいものであることに気がついた。
いつもは開いているのかわからないほどの細い目であるのに、今は大きく見開かれている。
力でも若干競り負けているように見える。
じりじりと押されている様子に、鉄線は思わず叫んだ。
「雪柊様!」
その声に一瞬気を取られた雪柊は黒髪の男に押し切られ、折れた箒の柄とともに後ろへ吹き飛ばされた。
さすがに身を翻して受け身を取っていたが片手と片膝は完全に地面についている。
雪柊が鬼灯以外の相手に打ち負かされるのを見るのはこれが初めてだった。
鉄線が雪柊に近づこうとするよりも早く、打ち負かした相手の方が雪柊に向かって手を差し伸べた。
「師匠、少し鈍っているのではないですか」
「いやいや、君が強くなったんじゃないかな」
男の手を取り立ち上がった雪柊は膝や手に着いた砂を払いながら苦笑して答えた。
「ご冗談を。本気でなかったことはわかっていますよ」
「遊びだったのは君も同じだろう?」
それまで打ち合っていたとは思えないほど屈託なく笑い合うふたりのもとへ鉄線は慌てて駆け寄った。
「雪柊様、大丈夫ですか!」
「やあ、鉄線。早かったね。私なら大丈夫だ、問題ないよ」
「……雪柊様が打ち負かされるところを初めて目の当たりにしました。こちらのお方は一体……」
「ああ、そうか。鉄線は初めてだね。彼は北条棗芽といって私のひとり目の弟子なんだ」
「……北条?」
「そう、鬼灯の弟だよ」
黒髪の男——北条棗芽は鉄線に向かって手を差し伸べた。
握手を求めているらしい。
鉄線は恐る恐るその手を握った。
「はじめまして。私は君の兄弟子ということですね。ここには久しぶりに来ましたが、たまには出入りすることもあるのでどうぞよろしく」
「棗芽、たまには出入りすることになる、とはどういうことだい?」
「おや、弟子が出入りしてはいけませんか」
「そういうことを言ってるんじゃないよ。こんなところで油を売っていていいのかい」
「ご心配には及びません。私の速さは雪柊様がよくご存じでしょう? 必要とあればすぐにどこへでも駆けつけますから」
満面の笑みで言う棗芽にはどこか不気味さが垣間見え、鉄線は背中に冷たいものを感じた。
「棗芽のことを心配してるんじゃないよ。鎌倉に行くために鬼灯に呼ばれたことは聞いている。君が早く鎌倉に行かないと困る人がいるんじゃないかと心配なだけさ。とにかく君は他人を巻き込む傾向があるからね」
「これはまた手厳しい。まあ、私が動くたびに巻き込まれる人がいることは否定しませんが……今回は師匠の過去に深く関わることが気になって参ったのですよ」
「…………お茶でも呑みながら話を聞こうか、棗芽」
「いえ、ここで結構です。私がお訊きしたいのは4つ」
棗芽は雪柊の誘いをあっさりと断り、指を4本立てて突き出すと話を続けた。
「ひとつ、風雅の君とは何者なのか——師匠、お答えいただけますか」
単刀直入に質問する棗芽に面食らった雪柊は、半ば呆れ気味に答えた。
「何者か、だなんてずいぶんな言いようだね、棗芽。あの方は間違いなく先帝の御子で今の帝の兄君だよ」
「へぇ。ですがあまりその存在は知られていないようですね。現に、兄上はご存じありませんでした」
「そうだね。風雅の君はほとんど表舞台に出られることはなかった。六波羅に来て日の浅い鬼灯が知らなくて当然だ。もしかしたら今の朝廷でも風雅の君のことを知らない者は多いかもしれない」
「なるほど。ではふたつ、風雅の君はなぜ備中国に潜んでいるのか」
棗芽の問いに冷笑した雪柊は鋭い眼光を質問者に向けた。
「潜んではいないだろう? あの方は少し前にはこの京にいらしたくらいだ。今も堂々と暮らしていらっしゃる。備中国に行くことになったのは先帝がそう指示なさったからだ。その理由なんて誰にもわかるはずがない」
「今現在は備中国を出ていません……そうか、国を出ることもあるのですか」
ぶつぶつと呟く棗芽の質問攻めに雪柊は若干、うんざりしていた。
自分の過去に関わる話だというから何を訊かれるのかと内心身構えたが、結局は風雅の君のことを知りたいだけらしい。
調べたところでどうにもならないだろうに。
「そしてみっつ。師匠が風雅の君を備中国に送り届けたらしいですがそれは本当なのか」
「本当だよ。そんなことを確認してどうするんだい、棗芽」
「なぜですか。なぜ師匠が風雅の君の世話を?」
「なぜってそれは当時、私が兵部省に務める官吏だったからだ。本来、警護は六衛府の仕事だが当時から武術を身に着けていた私のことをご存じだった先帝に命じられて風雅の君を護衛していた。備中国まで送り届けるよう命じられたのは先帝だよ」
「そんな特別な警護が必要な相手だったと?」
「それはそうさ。だって高貴な血を引く方なんだから。君は知っているのかどうかわからないけど、風雅の君の母上は身分の低い方だった。だからそのせいで風雅の君は公家たちからは認められず、よく命を狙われていた。まあ、教育係のような役割でもあったけどね」
肩を竦めた雪柊に棗芽は最後の質問を投げた。
「そうですか。では最後に——」
棗芽はまっすぐに雪柊を見つめた。
「風雅の君は玉座を狙っていると思いますか」
質問を手前に3つも並べたものの、結局、最も知りたかったのは最後の質問だったのである。
倒幕を目論んでいたらしいという西国を調べていた棗芽は、月華の調べたとおりの妹尾家をしばらく探っていた。
どういう意図で倒幕を目論んでいたのかはわからなかったが、棗芽はそこに絡んでいるかもしれない風雅の君に目をつけた。
今の朝廷、もっと言えば現在の帝と幕府はそれなりに良好な関係を保っている。
仮に京を追い出された風雅の君がその地位を取り戻そうと帝位に返り咲くことを考えたならどうか。
帝位につくには現在の帝を退けなければならない。
場合によっては弑逆することも考えられる。
だがそうなった時、それを許すまじとする幕府が進軍してくる可能性があるのではないか。
もしそうなれば幕府と戦わなければならなくなる。
そうなる前に先に目を摘んでおきたかったのではないだろうか。
そうすると、多くのことの辻褄があってくるように棗芽には思えた。
風雅の君を預かることになった備中国が西国をまとめ、倒幕を目論む。
目論見どおりにことが運んだ際には、風雅の君を担ぎ上げ、帝に据える。
幕府もなくなり、この国のすべては再び朝廷と、しいては帝が掌握することになるだろう。
すべては思いのままである。
父である先帝に京を追い出されたという風雅の君がそれを恨みに思って玉座を狙っていてもおかしくはない。
しばらく沈黙していた雪柊だったが、やがて棗芽との距離を詰めると鼻が付くほどの近さで答えた。
まるで地獄の底を這うような恐ろしさを感じさせる声音だった。
「それは風雅の君が帝である弟君を弑するという意味か」
さすがの棗芽も師の逆鱗に触れたことを理解し、固唾を呑んだ。
黙って小さく頷くと、雪柊は妙に明るく答えた。
一瞬見せた鬼の形相はすでに消えている。
「それはあり得ない。あの方は弟君をとても大切にされていた。棗芽の考えすぎだよ」
「……そう、ですよね。今日はこの辺で失礼します、師匠」
雪柊に劣らず、満面の笑みで返した棗芽はひとしきりから笑いすると恭しく頭を下げ、早々に立ち去った。
棗芽はあっという間に軽やかに石段を下っていく。
その様子を見守りながら鉄線はぽつりと呟いた。
「鬼灯様の弟君とは思えない、不気味な方ですね」
「はははっ、言い得て妙だな」
「す、すみません、余計なことでした……」
「いいや、鉄線の感想は的を射ているよ」
「…………」
一瞬別人のような素振りを見せた雪柊の様子を伺うと、子どもを見送る親のような顔をしており鉄線は少し安心した。
不気味な雰囲気も持つ人物ではあったが雪柊の信頼を得ているのだろう。
折れた箒を片付けようと鉄線が動き出した時、さらなる来訪者に雪柊が口を開いた。
「おや、あれは——」