第21話 兄弟ふたり
みつ屋を出た九条家の兄弟は呑み仲間と別れた後、歩いて邸へ戻ることにした。
夜も更け、辺りには人影すらも見えない。
月は出ているがこの状況で、ひとりで歩いていればそのまま攫われたとしても誰にも気づかれないだろう。
ほろ酔いになった弟の悠蘭とは対照的に兄の月華は平然としていた。
「相変わらず兄上の酒の強さには敵いませんね」
「そうか? そんなに呑んでいないだろう」
「俺の倍は呑んでいましたよ。まったく、どうなっているのですか……と言うかなぜその体質は俺には受け継がれなかったんでしょうね。もしかして本当は兄上とは血がつながっていないのでは——」
「こら、悠蘭。滅多なことを言うものじゃない。お前はちゃんと母上のもとに生まれたよ。父上が母上を溺愛していたのは、今も寝殿に母上の着物を飾っているのを見るだけでわかるだろう? お前は紛れもなく父上と母上の間に生まれ、俺の血を分けた弟だ」
酔った冗談にも本気で返してくる兄を悠蘭は微笑ましく思った。
改めて兄が生きていてくれたことに感謝する。
「お前が生まれた日のことはよく覚えているよ。あの父上が、苦しむ母上の声を聞いて失神しそうになったんだ。花織のお産には立ち会えなかったが、その場にいたら俺も父上と変わらない状況だったと思う」
月華は昔を懐かしみながら月を仰いでそう言った。
それだけでも望まれて生まれてきたのだと実感できた悠蘭は、胸にこみ上げてくるものがあった。
「お前と菊夏殿との間にも早く子が生まれないかなぁ」
「えぇ!?」
「お前たちの間に生まれた子は花織とも血のつながりができる。遊び相手にもちょうどいいじゃないか」
「兄上、花織を京に置いておくつもりなのですか。てっきり落ち着いたら鎌倉に連れて行くものと思っていました」
「……そうしたいのは山々だが、やはり京に留め置く方が安全なのかもしれないと最近思うようになった」
まだ調査中の西国の動きはまったく掴めていない。
西国を探っていた北条棗芽は、月華の代わりを務めるために鎌倉へ向かってしまった。
月華と入れ替わりで京に戻ってくるまで、西国の調査は中断してしまうだろう。
自分が調査を引き継ごうにも図らずも官吏として働かなければならなくなってしまい、調査に出向くことができなくなった。
輪廻の華を利用して倒幕を目論んでいたという連中の正体はわからないままだ。
まだ百合のことを狙っているのかどうか。
月華はふと悠蘭が菊夏を迎えに鎌倉へやって来た時に持参した文のことを思い出した。
——九条月華様、輪廻の華を隠しておられるようだが、誰かの手に奪われぬよう大事にされよ。
ゆめゆめ油断なされませぬよう。
文に差出人の署名はなかった。
悠蘭の話に寄れば、あの文は李桜の文机に置かれていただけで誰がそこに置いたのかはわからないとのことだった。
あの時は白檀がしたためたものだと思ったが、今はそうではないような気がしてきた。
仮に白檀がしたためたとしても、彼と通じる誰かが朝廷内にいない限り中務少輔の文机に文を置いてその場を離れるなど、そう簡単にできることではないだろう。
ましてあの優秀な官吏たちが揃う中務省である。
無関係の者が潜り込めるとは到底思えなかった。
そう考えれば、まだ百合は何者かに狙われている可能性がある。
やはり鉄壁の守りを誇る九条邸の敷地から出すべきではないのかもしれない。
そんなことを考えながら歩いていると遠くに九条邸の門が見えてきた。
ふたりはゆっくりと歩きながら目的地へ向かう。
「そうだ、悠蘭。ひとつお前に訊ねたいことがある」
「何ですか」
「弾正尹と呼ばれる者を知っているだろう? あれは何者か知っているか」
悠蘭はぴたりと足を止め、半分怯えた様子で逆に質した。
「な、な、何者とは、ど、どういう意味ですか」
「落ち着け、悠蘭。別段、何かあるわけじゃない」
「はぁ……脅かさないでくださいよ。弾正尹様に睨まれたら朝廷にはいられないんです。みな関わりたくないと思っていますよ。食って掛かるのは李桜さんくらいのものじゃないですか」
「そうらしいな。だがそんな変な男には見えなかったが——」
「お会いになったのですか!?」
「ああ、会った」
「ど、どこでっ!」
「書庫だ」
「……何も言われませんでしたか」
「楓殿の代わりを頼むと労いの言葉をかけられた。なぜそんなに恐れている?」
月華の問いに悠蘭は深く息を吐いた後、重い口を開いた。
「……あの方は名前すら明かされていない謎だらけの方だからです。公家のはずなのにどこの家の者なのかもわかりませんし、何の記録もなくて不気味ではないですか。弾正尹というのは役職名なだけで彼の名ではありません。年齢からしても我々とそう変わらない若さで、あの役職に就いているのですから相当な切れ者なのでしょう。関わらないに越したことはありませんよ、兄上」
「楓殿も同じようなことを言っていた。だが俺にはどうもお前たち官吏が言っているような妙なやつには見えないんだよな。むしろ親近感があるというか——」
「し、親近感!? それは気のせいです、兄上」
必死に訴えてくる悠蘭に月華は思わず吹き出してしまった。
なぜ多くの官吏たちがこんなにも弾正尹を恐れているのか、何かまだ他に理由があるように思えたが、月華はそれ以上追及しなかった。
「ところで兄上、書庫では目当てのものがありましたか」
「いや……楓殿に推薦してもらった書物をいくつか持ち出したが有力な情報はなさそうだ。備中国については楓殿を通して少しわかることがありそうだが、百合が異能を受け継いだという樹光和尚の方は記録があるとは思えない。禁書の棚にはあるかもしれないがな」
「き、禁書!?」
悠蘭は声を裏返らせ、声を荒げた。
「持出禁止の上に閲覧制限があるそうだな」
「は、はい。俺も禁書の棚には手をつけたことがありません。でも、皐英様はすべての禁書に目を通したと聞いたことがありますね」
「土御門のやつが? あいつ、どこまでも破天荒な男だ」
「はははっ。探求心の強い方だったのです。ですが、禁書の閲覧をされるのでしたら誰にも知られないようにされませんと、危険です」
「危険? おいおい悠蘭、俺は武士なのだぞ? 刀を持っていなくても自分の身を守れる武術は雪柊様に十分仕込まれている。その俺に危険が迫ることなんて——」
「兄上。武器を持っていなくても官吏には官吏の戦い方があるのです。相手を貶め、名家を没落させ、自分が代わりに成り上がると考える官吏がそこら中にうようよといるのです。用心するに越したことはありません」
「そ、そうか……朝廷はまるで魔の巣窟のようだな。妖でも潜んでいるのではないか」
「否定はしません」
「…………」
「実際に妖はいませんが、似たようなものはたくさんいます」
月華は開いた口が塞がらなかった。
淀んだ空気を感じなくもなかったが、何年も朝廷に身を置く弟が断言するのだ。
その進言に従った方が身のためだと、月華は直感的に感じた。
そんな話をしているうちに、ふたりは九条門の前に辿り着いた。
気がついた門番が門を開けようとしたところで、逆方向から現れた牛車が同じく邸の前で停まった。
中から出てきたのはふたりの父、九条時華だった。
「父上」
ふたりが同時に父を呼ぶと、この上なく破顔した時華は牛車を降りた。
「今日はいい日だな」
「はっ?」
「私の大事な息子たちがふたり揃って官吏として帰宅したのだ。こんなに喜ばしいことはない」
兄弟ふたりは互いに顔を見合わせた。
「月華、お前、朝服も似合うではないか」
そう父に言われ、自ら全身を眺めてみる。
着る物で何かが変わるとは思っていない月華は首を傾げた。
「そうですか……? ですが、腰に刀がないというのは何とも心もとないものですよ」
「心配せずとも、3日もすれば慣れる。だいたいこの平和な京で刀など必要なかろう。お前は少し争いの世界に身を置き過ぎなのではないか」
「本業は武士なものですから、戦は避けて通れません」
冗談を言う父に対し悪態をついて答えた月華。
はらはらと見守っていた弟はやがて互いに吹き出した父と兄を見て安堵した。
「お前たちはそろってどこかへ行っていたのか」
「はい、紫苑に誘われて外で呑んでいたのです。父上は会合か何かですか」
「まあ、そんなところだ」
門番が門を開けるとそこには迎えに出てきた家臣の松島が立っていた。
驚いた顔で3人を見ると、すぐに目尻を下げて微笑んだ。
「おやまあ、みなさまお揃いでしたか」
「いや、偶然門の前で遇っただけだ」
「さようでしたか」
門を潜る当主に道を譲ると松島はすぐにその後ろへ続いた。
同じ邸の中とはいっても3人が向かう方向はばらばらである。
自分の住まいへ向かおうとする悠蘭と華蘭庵に向かおうとする月華の腕をそれぞれ掴み、時華は松島に揚々と言った。
「松島、酒の用意をせよ。せっかく家族が揃ったのだ。これから酒盛りをするぞ」
時華は息子たちの腕を強引に引っ張った。
「ち、ちょっと待ってください父上。俺はおふたりみたいに酒に強くないのでこれ以上は無理です」
「無理なわけがあるか。お前は蘭子の体質を強く受け継いだのかもしれぬが、私の血も流れておるのだから何も問題はない」
「も、問題ないとは何を根拠に!?」
同じように腕を引かれる月華は半ばあきらめたように父に従った。
「あ、兄上、何とか言ってくださいよっ」
「悠蘭、父上は言い出したら聞かない方なのはわかっているだろう? どうせこんな時分に戻っても菊夏殿は寝ているだろうから、諦めてお前もお付き合いするんだな」
「そ、そんな……俺は明日も朝から出仕しなければならないのに」
「それは俺も同じだ」
「それは私も同じだ」
父と兄に同時に返答され、悠蘭はもう逃げられないのだと悟ったのだった。