第20話 謎が深まる夜に
月華たちが酒盛りをしている同じ頃。
鷹司杏弥は薄暗い行燈の光が照らす自室で、朝廷の書庫から図らずも持ち出してしまった書物2冊を目の当たりにして深いため息をついた。
(……驚いて咄嗟に持ち出してしまった)
1冊は風雅の君が生まれる前から宮中を去る時までの記録として書かれた『白蓉記』だった。
風雅の君とその母である芙蓉を世話していたという今は亡き女中の日記で、現在は禁書とされている。
杏弥は備中国にまで赴き、茶人の白檀を通して風雅の君の後ろ盾を得ようと考えていたが、京に戻ってきてから数日が過ぎても、何の音沙汰もないことに業を煮やしていた。
姿形もわからない相手のことを少しでも知ろうと書庫へ行ったはいいが、まさか関係する書物が禁書になっているとは思っていなかった。
書庫で漁っている間に人が入って来る気配がしたため慌てて白蓉記を懐に入れたようでその際、重なっていた1冊を同時に手に取ってしまい、結局禁書の棚から2冊も持ち出してしまったようだ。
図らずも持ち出すことになってしまったもう1冊は書名に『常闇日記』とある。
読むか読まないかは別として、本来持ち出してはいけないこの2冊は明朝には誰にも気づかれないように禁書の棚に戻さなければならない。
杏弥は夕餉を取ることも忘れ、まずは白蓉記に目を通し始めた——。
鷹司家の邸は九条家同様、寝殿造りになっている。
南側に大きな池を擁し、中央の寝殿と左右と北側に対の屋がありそれぞれが渡殿で繋がれている。
桂田は邸の見回りを兼ねて回廊を歩き始めた。
池に浮かぶ月は明るく足元を照らす。
寝静まった邸の中を歩きながら、桂田は考えていた。
最近、妙に視線を感じることがある。
あれはおそらく東方から戻ってからのことではないだろうか。
どこを向いてもその視線の主は姿が見えないため、気のせいと言えば気のせいなのかもしれない。
だが、確実に悪寒を感じるような時がある。
幕府の戦力を少しでも削げれば風雅の君へのよい手土産になると思い、恨みを持っているであろう奥州の残党を仕向けた作戦は敢え無く失敗に終わった。
戦況を最後まで見届けることはせずに戻ってきたが風の噂で聞くところによると、幕府の若い武将が単騎で奥州の残党軍の将を打ち取ったと言う。
こちらの作戦を無にしたその若い武将とやらに桂田は腹立たしさを覚えた。
(その武将がいなければ、今頃、幕府にひと泡吹かせていたかもしれない……)
桂田自身は幕府に対し特別な感情があるわけではないが、風雅の君を味方につけるために必要だという杏弥のため、必要なことだったと理解している。
桂田が邸内を歩いていると、ちょうど東対の前へ辿り着いた。
東対は鷹司家嫡子の杏弥が使用している。
いつもなら寝静まっているはずなのに、明かりが漏れていることを不審に思った桂田は外から声をかけた。
「杏弥様——まだ起きておいでですか」
返事はなかった。
嫡子に何かあっては一大事である。
さらに不審を感じた桂田は室内へ入っていった。
そこには一心不乱に書物を読んでいる杏弥がいた。
「杏弥様」
再び近づいて声をかけたが、それでも彼は気がつかなかった。
桂田は杏弥の目の前に正座すると下から見上げるように顔を覗き込んであえて視界に入ると語気を強めて声をかけた。
「杏弥様!」
「うわっ」
驚いて後ろにひっくり返りそうになった杏弥を桂田は慌てて支える。
「か、桂田、脅かすな」
「申し訳ありません。何度も声をおかけしたのですが」
「そ、そうなのか」
杏弥が必要以上に驚愕していた様子を見た桂田は彼の手にある書物を訝しげに見た。
古い書物のようで、表紙には禁書の印がついている。
「杏弥様、それは禁書——」
「桂田、声が大きいっ」
杏弥は書物を投げ出し、桂田の口元に両手を当てた。
声が大きいと言われるほど大きな声だったわけではなく、むしろそれを叱責した杏弥の方がよほど大きな声を出していた。
手を離すとばつが悪そうに視線を逸らした杏弥をよそに、桂田は投げ出された禁書を拾い上げた。
表には白蓉記と書かれてある。
めくった冒頭に書かれてある一文に目を通した。
『芙蓉様が帝に見初められた本当の理由を誰も知らない。
それはほとんど知る者がいない。
芙蓉様は帝の命の恩人であるからこそ、妃に迎えられたというのに。
出自を理由に宮中では自由を与えられないというのはあまりにもお気の毒。
わたしはお傍仕えとして芙蓉様の記録をここに日記として残すことにした』
「杏弥様、これは——」
「言うな、桂田。禁書を持ち出してはいけないことは俺も官吏として十分に理解している」
「でしたらなぜここに禁書が?」
「緊急事態だったのだっ」
「緊急事態?」
「ああ。せっかく備中国まで出向いて行ったのにあれから風雅の君からの音沙汰は何もないだろう? あの茶人の記録を探したがどこにもなかったからいっそのこと風雅の君について少し調べてみようと思ったのだ。いろいろ漁っていたら気がついた時には禁書の棚に手を付けていた」
「……ですが持ち出すことはなかったでしょうに」
「それが、あまり長居はできないと思って一度棚に戻したところでなぜか弾正尹様が近づいて来たのだ。あまりにも驚いてしまってそこから書庫をどうやって出たのか記憶にないのだが、気がついたら懐に2冊も禁書が入っていた」
「…………よくそれで咎められずに戻れましたね」
「まったくだ。これは奇跡としか言いようがない」
桂田は禁書を持ち出したことがどれだけ重罪なのかほとんど理解していないと思われる主を前に盛大にため息をついた。
だが持ち出してしまった事実は変えようがない。
明日の朝には戻すつもりなのだろうことを考えると、夜更かしをしてでも少しでも目を通しておきたい杏弥の気持ちは理解できた。
桂田は続きの頁をめくった。
『芙蓉様はとてもお優しい方だ。
人の痛みをよくご存じで、わたしたちお傍仕えにも優しくしてくださる。
相変わらず公の行事には参加を許されないが、帝の寵愛は変わっていない。
何より帝のお心遣いなのか、蘭子様が芙蓉様のお相手をしてくださるので安心だ』
「杏弥様、この蘭子様というのは確か——」
「先帝の妹君だ。行方不明とされたまま、今もご存命なのかどうかさえわからないがこの頃はまだ宮中におられたようだな」
桂田は古い記憶を辿りながら思い返した。
確かにもう20年以上前になるが、公家の間では帝の妹君が妖にかどわかされたと噂になったことがあった。
その後、帝自身が行方を追わないと決断されたために誰もが釈然としないまま、闇に葬られたことを覚えている。
桂田はさらにぱらぱらとめくり、適当なところでその手を止めた。
日記の中ではだいぶ時が流れていた。
『芙蓉様がお産みになられた皇子は白椎様と名付けられた。
すくすくと成長されている。
だがなぜか芙蓉様はいつも浮かない顔をされているのが気にかかる。
それは帝が新しい妃を迎えられることになったからではないようだ。
蘭子様のお姿が見えなくなってから、お悩みを聞くお相手はいなくなってしまった。
帝は変わらず芙蓉様と白椎様を溺愛されているのに、何を憂慮されているのか』
さらに頁をめくると、そこからは白椎の成長記録と、それを喜ぶ芙蓉の様子が書かれていた。
その後、帝が新しく迎えた正妃との間に現帝の榛紀が生まれ、兄弟は仲良く育ったことが記録されていたが、日記は中途半端なところで終了していた。
『園遊会で突然、帝が倒れられたらしくそれを耳にした芙蓉様は珍しく叫ばれた。
芙蓉様の指示で清涼殿の奥深くへ帝をお運びした。
翌朝、帝は目を覚まされ芙蓉様もお喜びになった。
だが何の因果か、今度は芙蓉様が危篤となられた。
ああ、何ということだろう。
母君の危篤を最も案じておられるであろう白椎様のお姿を見ることはなかった』
その先は数頁を残して空白の頁が続く。
残りの記録はほとんどなかった。
「この白椎様というのは風雅の君のことですね」
「ああ、そうだ。第1皇子である白椎様はその聡明さから風雅の君という二つ名をお持ちだった。この傍仕えによると母君である芙蓉様が危篤になられたのに風雅の君は姿を現さなかったとあるが、おそらくこれは帝によって宮中追放されたためであろうな」
「そのようですね。この、園遊会で帝が倒れられたというのは例の風早橄欖と関係あるのでしょうか」
「風早橄欖?」
「あ、ええ。杏弥様はまだ幼かったのでご存じないかと思いますが、かつて宮中には先帝と大変親しかった風早橄欖という茶人がいたのです。その親しさたるや、帝に取り入ろうとする公家たちの羨望を一身に受けたと聞いたことがあります。ですがある園遊会で何かの事件があったようで橄欖は処刑された上に、風早家はお取り潰しになったのですよ」
「そんなことがあったのか……。処刑の上に家の取り潰しともなればよほどの罪を被ったに違いないが、刑部省にはそのような記録はなかったように思うが」
「記録には残っていないのかもしれませんな。風早家にはふたりの娘がいたと聞きますが、そのふたりも何の罪もないのに流刑にされたとか。お気の毒なことです」
杏弥はだらしなく両足を投げ出すと、不機嫌に言った。
「あんな決死の思いをしてまで持ち出すことになった禁書なのに結局、謎が深まっただけではないか」
「禁書などに手を出すからです、若君」
「若君と呼ぶな、桂田」
「風雅の君は我々の手には届かない雲の上の方なのですよ。そのような方を調べようなどと、そもそも度が過ぎているのではありませんか」
「そんなこと、言われなくともわかっている。だがこのままでは何も前に進まないではないか。せっかく例の文を手に入れ、のし上がる好機があるのにそれを無にするなど俺は嫌なのだ」
「ないよりはあった方がよいですが、行き過ぎた野心は人の身を食い殺すことがございますのでお気を付けなさいませ」
悪態をつく主をなだめながら、桂田は投げ出されたもう1冊の禁書に目を向けた。
表紙には『常闇日記』と書かれてある。
白蓉記同様に禁書の印が付けられていたが、状態からするとさらに古いもののように見える。
「杏弥様、そちらの禁書は?」
「ああ、これか? これはこの白蓉記と重ねられていたせいで一緒に持ち出してしまったようなのだ。中身はまだ見ていない」
「禁書を2冊も持ち出したとなれば、重罪ですな」
「言うなっ」
「明日、早々にこっそり棚にお返しになるのがよろしいでしょう。禁書は触れてはいけない闇の記録だからこそ禁書なのです。関わっては身を滅ぼしますよ」
「言われなくともわかっているっ!」
不機嫌な杏弥を愛しく思いながら桂田は東対を出た。
すでに夜も更け、邸は静寂に包まれている。
桂田は禁書に目を通したことを少し後悔していた。
根拠はないが、漠然とした不安感に襲われている。
禁書の呪いとでも言うべきか——桂田は夏の夜に身震いしながら見回りを続けた。