第2話 摂家の誇り
鷹司家の邸も他の摂家同様、京都御所からほど近いところにある。
大きな門には家紋の鷹司牡丹が刻まれ、巨大な敷地を囲うように塀が張り巡らされているのは他家と変わらない。
だが近衛家当主が左大臣、九条家当主が右大臣なのに対し、鷹司家当主は内大臣止まりであることを、当主である鷹司棕梠は面白く思っていなかった。
左右大臣と同じく太政官に置かれた官職とはいえ、実情は代理の役目であり、左右大臣の次に置かれる官職である。
近衛家や九条家よりも下に見られているのは間違いない。
近衛家が没落した今、左大臣の地位には帝からの信頼も厚い九条家当主——九条時華が就くのも時間の問題だろう。
であれば空席となる右大臣の地位には鷹司家当主の自分が就くべきだ、棕梠はそう考えていた。
一条家や二条家に出し抜かれるわけにはいかない。
朝廷での推薦を受けるにはそれなりの功績を上げるか、強力な後ろ盾が必要であるが 今の鷹司家を推してくれるような家があるとは思えない。
数年前、あわよくば九条家と親戚になろうと娘を九条家の嫡子と見合いさせようとしたが先方からはあっさり断られてしまった。
その嫡子は今も行方不明とされているが、朝廷で官吏もしていないような男と娘を婚姻させたところで価値があるとは思えない。
次男である陰陽頭は最近、妻を娶ったばかりだから九条家の後ろ盾を得る機会は永遠に失われた。
ではどうすればいいのだろうか。
そもそも誰の後ろ盾を得られるというのか。
近衛家はすでにその力を失い、九条家との婚姻もままならず、敵対する可能性のある一条家、二条家とは手を組みたくない。
寝殿で満月を眺めながら、眠れぬ夜を過ごす棕梠のため息は深くなるばかりだった。
「棕梠様、今宵も眠れませんか」
声のする方を振り返ると、そこには気心の知れた家臣——桂田が控えていた。
年の頃は四十路を越えていないが落ち着き払った様子と、皺の深い老け顔のせいで、実年齢よりもずいぶんと年上に見える男であった。
棕梠は突然現れた家臣を訝しく見つめた。
「……こんな夜分に何かあったのか、桂田」
「いいえ、何もございません。ただ、杏弥様の使いから戻ったところで寝殿の明かりが見えたものですから、先に棕梠様にごあいさつをと思った次第です」
「杏弥の使い? あの愚息、何か企んでいるのではなかろうな」
「企んでいるなど、滅相もありません。杏弥様もこの鷹司家の行く末を案じていらっしゃるだけでございます」
「ふん、どうだか。本当に案じているというのなら自らの力でのし上がっていけばいいものを。刑部少輔止まりではどうしようもない。九条家の次男は陰陽寮を束ねる陰陽頭になったというのに」
「刑部少輔も位階の序列は陰陽頭と同じではありませんか」
「位階は同じでもやっていることはまったく違う。陰陽頭は陰陽寮を束ねる唯一の役職だ。それに比べ少輔はたとえその存在が役割を果たせなくなったとしてもその上の大輔が役割を果たす。中務少輔ならまだしも、刑部少輔では意味がない。まあ、こんなことをお前に言っても仕方のないことだ。杏弥が暴走しないようによく見張っておけ、桂田。今は我が鷹司家にとって大事な時期なのだから」
桂田は恭しく首を垂れると、足早に寝殿を去った。
寝殿と対屋を繋ぐ渡殿を歩きながら、桂田は考えていた。
主人の言う大事な時期、とはおそらく空席の左大臣職のことだろう。
だが、立ちはだかる九条家の壁は高い。
朝廷でも評判の九条時華を出し抜いて左大臣に就くなど、天地がひっくり返ってもありえないだろう。
だとすると、狙うは右大臣職か……。
特に功績を残していない主人が朝廷から推薦されることは難しいかもしれない。
もし本当に右大臣職を狙っているとしたら、何か後ろ盾が必要である。
主人は杏弥がそのために動いていることを知らない。
愚息と表現するほど信用していない息子が、誰よりも鷹司家のことを想っていることを証明しなければならない。
そのために桂田は全力を尽くすことを改めて心の中で誓った。
同じ頃、邸の自室で鷹司杏弥は1通の文を読み返していた。
何度も目を通したもので、すでに紙はくたくたになっている。
杏弥は朝廷で刑部省の少輔として官吏をしている。
今年は18になる年で、父の棕梠と同じく野心的な性格であった。
刑部省は刑罰や訴訟を担当する部署で、杏弥自身、これまでに多くの者を裁く仕事に関わってきた。
その対象は、一般の民だけに限らず官吏を裁くこともある。
目の前の文は昨秋に捕らえられた前陰陽頭がしたためたもので、刑部省へ提出された証拠品の中から杏弥が偶然発見したものだった。
他の官吏たちは気にも留めていなかったが、杏弥だけはそれが今後を左右する重要な文に思えて、懐にしまった。
杏弥はこの文を足がかりに何とか鷹司家を他の摂家に劣らぬ地位に押し上げようと、半年以上もの間、躍起になっていた。
杏弥の闇のように黒い瞳は、今夜も爛々と輝いている。
「杏弥様——桂田、ただいま戻りましてございます」
杏弥の自室である東対へ現れた家臣の桂田は恭しく主人に声をかけた。
桂田は長年、鷹司家に仕える家臣で杏弥が幼い時分から頼りにしている人物である。
「ああ、桂田。ご苦労だったな。それで備中からの返答はあったか」
「はい。杏弥様のご希望を聞き入れていただき、茶人の白檀殿が近く野点を催してくださるとのことでございます」
「白檀なる人物には会えたのか」
「いいえ。残念ながらお返事は妹尾家嫡子の敦盛様より頂戴しました」
「そうか……こちらを警戒しているのか? まあいい。茶会となれば実際に顔を合わすことになるのだ。焦ることもない」
杏弥は廊下で正座していた桂田を室内に招き入れた。
板間の上に敷かれた畳に腰掛けるよう促すと、桂田は杏弥と向かい合って正座した。
「……またその文を眺めていらしたのですか」
「当り前だろう? 何度読んでもこの文を手に入れたことは奇跡としか言いようがない。これがなければ到底、行動を起こす気にはならなかった。まさに俺が刑部少輔であったゆえの好機だ」
杏弥はそれまで眺めていた文を桂田に差し出した。
何度も読まされたにも関わらず家臣として桂田はそれを受け取り、目を通さなければならなかった。
「何度も読ませたと思うが、もう1度読んでくれ」
「はっ」
桂田は受け取った文に目を通し始めた。
すると不満そうな杏弥は腕を組みながら苛立たしげに言った。
「桂田、声に出して読め。お前はこの文がどれだけ重要なものかわかっていない」
「はぁ……」
またですか——そんな声を押し殺して頭をぽりぽりと掻きながら主人の指示に従った。
「『白檀様、やっと輪廻の華を捕らえることができました。今、近衛邸の倉に閉じ込めております。間もなく倒幕の準備が整うでしょうから、輪廻の華の存在を出しに西国各国の協力が得られれば、その先は風雅の君の出番です。倒幕が叶い、朝廷を乗っ取ることに成功した暁には私に輪廻の華を預けていただきたく、お願い申し上げます』」
何の感情もなく棒読みに読み切った桂田は、文を杏弥へ返した。
文は昨年の秋に、生前の土御門皐英が備中国にいる茶人の白檀に宛てたものだった。
「お前は……何の感情も沸いてこないのか」
「ええ、まあ。私などには想像もつかない話なものですから」
「よく読め、桂田。これは前の陰陽頭が備中国の茶人に宛てたものだ。宛先が白檀という人物になっている。差出人は土御門皐英だ。だが、中には風雅の君の出番だと書かれている」
「はい、そのようですね」
「気のない返事だな。いいか、風雅の君とはずいぶんと昔に京を追われた現帝の兄上のことだ。追われはしたがその位を失ってはいない。帝はまだ独身で世継ぎがいないから帝に何かあれば、後を継ぐのは風雅の君しかいないだろうが」
「そう、なりますね」
この会話はこれまで幾度も繰り広げられており、いい加減、飽き飽きしてきた桂田は適当に受け流し始めた。
「しかし、この茶人について調べるのは骨が折れたな。幻か何かなのかと思ったくらいだ。まさか、あの有名な甘味処に出入りする馴染の客から足がつくとは」
その茶人の存在を突き止めたのもまさに偶然のことだった。
たまたま訪れたみつ屋という甘味処で、別の客がしていた会話を盗み聞きしたところから端を発している。
桂田はその時のことを思い返して苦笑した。
「この文から察するに白檀なる茶人は風雅の君とつながりがある、ということだ。我が鷹司家が摂家の中でのし上がっていくためには強力な後ろ盾が必要だ。つまり、我々には風雅の君との親交が今後を左右する鍵になるということだ、わかるか桂田」
「わかっております。左右大臣職に就くのは棕梠様の長年の悲願でもありますし」
「そうだ。だが、この文の中でもいくつかわからないことがある」
「なぜ倒幕を目論んでいたのか、ですよね? 若君」
「わ、若君などと呼ぶなっ。俺はもう子どもじゃない!」
顔を赤らめて息巻く杏弥を桂田はなだめた。
「それで、倒幕を望んでいたのはなぜなのか、わかったのですか」
「いや、何度読み返してもわからないし、朝廷でもそういった噂は何も聞こえてこない。何しろ六波羅の男はぷらぷらしているばかりで朝議にも顔を出さないし、幕府の動きがどうなっているのか、さっぱりわからない」
「……幕府の力をそぎたかったのか、はたまた相当な恨みがあるのか——恨み……恨みか」
桂田は顎に手を当てながら明後日の方角に視線を向けた。
少し考え込んだ後、視線を戻すと光を宿した桂田の瞳は杏弥をまっすぐに見据えた。
「どちらにせよ、倒幕を望んでいるのは風雅の君なのかもしれません。であれば倒幕までいかずとも戦力をそぐことは、風雅の君に恩を売る機会になるかもしれませんな」
「…………その手があったか。だが、幕府は強靭な武士の集まりだろう? ただ者では太刀打ちできないのではないか」
「そうですね。ですが、私にひとつ考えがあります。早速、動きますのでこれにて失礼いたします、若君」
「若君と呼ぶなっ。あ、おい、桂田!」
杏弥の叫び声もむなしく、桂田は逃げるようにその場を去っていった。
何を思いついたのかはわからなかったが杏弥は桂田を信頼している。
考えがあると言って去ったからにはすぐに行動に移すのだろう。
再び文に目を落として杏弥はため息をひとつ、ついた。
「それにしても最もわからないのは、この輪廻の華という言葉だ。これは一体何を指しているのか……いや、捕らえて閉じ込めたと書かれているのだから、人……なのだろうな」
満月が中庭の池に映る様子をぼんやりと眺めながら、杏弥はまだ見ぬ輪廻の華と呼ばれる人物に想いを馳せた。