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第19話 仕事上がりの酒盛り

 かえでに見繕ってもらったいくつかの記録簿を片手に書庫を出た月華つきはなたちは中務省なかつかさしょうを目指してもと来た道を戻った。

 行き交う官吏たちはみな、忙しそうに足早にすれ違っていく。

 そろそろ1日の勤務が終わろうという刻限になってもまだ仕事をしている官吏たちが大勢いることに月華は驚いていた。

 辺りはすっかり日が傾き、茜空が広がり始めている。

 目的地を目指すふたりの影が石畳に長く伸びていた。

「楓殿、先刻さっきの禁書のことだが、どんなものが保管されているかわかるか?」

「いや、私は知らぬな。そんなに禁書が気になるのか」

「まあな。俺が得たい情報はあの禁書の棚の中にあるような気がしている」

「事情はわからぬが、禁書を閲覧するなら誰にも知られぬようにされた方がよいかもしれぬ。万人に知られたくない内容が書かれているからこその禁書だ。そんなものを閲覧していると知られれば、何かを画策しているように勘ぐられる可能性がある」

「……そうだな。肝に銘じるよ」

 苦笑した月華を見て、楓が屈託なく微笑んだところで彼らは中務省へ辿り着いた。

 中に入ると李桜りおうは相変わらず書簡の山に埋もれていた。

 談笑しながら戻って来た月華と楓を見た他の官吏たちは中務少輔なかつかさしょうゆうの機嫌を損ねはしないかと気が気ではなかった。

 いくら右大臣の親戚で李桜とは旧知の仲だと言っても、仕事を投げ出して出て行ったようなものなのに、意気揚々と戻って来た臨時の官吏の一挙手一投足が他の官吏たちは気になって仕方がない。

 頼むから李桜の逆鱗にだけは触れないでくれ——そう願ってやまなかった。

 そんな彼らの心配をよそに月華は呆れた様子で言った。

「李桜、まだ仕事をしているのか。もうじき日も暮れる。とっとと椿つばき殿のところへ帰った方がいいんじゃないか」

 動向を見守る他の官吏たちの視線を背中に感じながら、李桜の感情を逆なでるようなことを平気な顔で言う月華に楓は目を剝いた。

「月華、おかえり。どこに行ってたの」

「書庫だ。楓殿に案内してもらった」

「書庫? また厄介なことに首を突っ込んでるんじゃないだろうね?」

「また、とはどういう意味だっ。俺は好きこのんで事件に巻き込まれるわけじゃない。いつも気がついたら渦中にいるだけだ」

「同じようなものじゃないか。まあ別にいいけどね、また困ったら助けてあげるからさ。そんなことより——」

 顔を上げることなく筆を走らせながら李桜が言いかけたところでいつものやかましい人物が悠々と現れた。

 官吏たちがまたか、と思いながらも身分の高い彼に頭を下げる。

 月華が振り返るとそこには大手を振って近づいて来る幼馴染といやいや連れてこられたと思しき弟がいた。

「月華、官吏になったって話、本当だったんだな」

「だ、だから本当だと言ったじゃないですか、紫苑さん」

 毎日のように仕事終わりに楓を誘いに来る兵部少輔ひょうぶしょうゆう久我紫苑くがしおんはすでにこの中務省の常連となっている。

 夕刻に現れたところで他の官吏たちは別段驚きはしなかったが、後に続く珍しい訪問者には目を見張った。

 呼び出しがなければ滅多に現れることがない陰陽頭おんみょうのかみが同行していたからである。

 陰陽頭——九条悠蘭くじょうゆうらんが九条家の次男であることは周知のことであったが、官吏たちが驚いたのは臨時で九条家の親戚として配属された月華と顔があまりにも似ていることであった。

 髪の色が違うために一瞬、気がつかなかったがよく見ればずいぶんと似ている。

 官吏たちはその違和感に首を傾げながら仕事を続けた。

「何て言うか、月華がここにいるのは違和感があるな」

 神妙な顔で言う紫苑に月華は大きなため息をついた。

「——で、お前はもう仕事を終えたのか、紫苑」

「ああ。仕事終わりにはよく楓殿を誘って酒を呑みに行ってるんだ。中務省ここに向かってる途中で悠蘭にばったり会って月華のことを聞いた。だから悠蘭と、お前のことを誘おうって言ってたところだ」

「う、嘘を言わないでくださいっ! 俺は断りましたよね!?」

 平然とする紫苑と目を吊り上げる悠蘭。

 ふたりの様子を見ればどちらが言っていることが真実なのかは一目瞭然だった。

「悠蘭、お前も仕事は終わったのか」

「あ、はい。今日はもう帰ろうかと思っていたところです、あ——」

 兄上と言おうとしたところで、月華から目配せされたことに気がついた悠蘭は、

「あー、たまにはみなさんと酒もいいかなぁなんて思っていました」

 などと心にもない言葉でごまかした。

 髪まで染めて臨時の官吏として来ているのだから、ここは他人のふりをするしかない。

「たまには菊夏きっか殿と過ごした方がいいじゃないのか」

 耳元で囁いてくる兄に、悠蘭も声を潜めて答えた。

「菊夏は花織かおるの様子を見に行くと言っていましたよ。今頃、義姉上あねうえと話し込んでいるのではないかと」

 兄弟がひそひそと話している横で紫苑は心配そうに楓の右手を覗き込んだ。

 先日一緒に呑んだ帰りに転んだと聞いて、紫苑はずっと気になっていた。

 別れ際にふらついていたことを知っていたのに家まで送り届けなかったことを今でも後悔している。

 本当は再び酒に誘うなど、非常識な気もしていた。

「楓殿、怪我したっていう手は大丈夫か? やっぱり酒はよくねぇかなぁ、傷に」

 紫苑はばつが悪そうに言った。

「いや、動かさなければ痛みはないので問題ない。だが先日のことがあるのでもしこれからみつ屋に行くのなら、私は茶を呑みながらお付き合いするとしよう」

「本当か!? さすがは楓殿。わが友よ。話がわかるやつだと思ってたんだ。悠蘭が来るって言うんだから月華も来るだろ?」

「……わかった」

 半分強制的に引き入れられた月華は弟と顔を合わせ、互いに苦笑した。

「ところで中務少輔さんよ、お前も行かないか。忙しい事情はわかってるけど」

「僕はいい。仕事もまだ残ってるし、気にしないであんたたちで行ってきなよ」

「おーい、李桜。お前、息抜きって言葉、知ってるか」

「うるさいな。息抜きなら家で十分できてるから余計なお世話だよっ。今夜は手が離せないけど、別の日にまた誘って。その時は一緒に行くからさ」

 李桜は珍しく筆を止めて顔を上げた。

 その微笑みが妙に含みがあるように見えて、その場にいた全員が凍りついたのだった。



 馴染みのみつ屋に場所を移した4人は混雑し始めた店内に席を見つけると、月華と悠蘭、紫苑と楓がそれぞれ横並びになり向かい合って腰掛けた。

 注文を取りにきた店主に、順次注文する。

 久しぶりに来店した悠蘭はぽつりと呟いた。

「みつ屋に来るのも久しぶりだな」

「悠蘭はここへ来たことがあるのか」

 初めて来店した月華は店内をぐるっと見渡しながら訊ねた。

「はい、でも来ていたのは前の店主がいた頃ですけどね。最初はここのあんみつが有名だと聞いて、義姉上への土産を買うために来たのですが、それから何度か立ち寄る機会がありまして……。結局、店主が代わってからは来ることがなくなってしまいました」

「新しい店主になってせっかく酒を出すようになったっていうのに悠蘭は忙しくてなかなか捕まらねぇし、徹夜してることが多いから誘いづらいんだよ」

「俺には晩酌の習慣はありませんから、おふたりには付き合いきれませんよ」

 紫苑と楓を前に悠蘭は憤然と言い放った。

 春先のみやこでの事件をきっかけに楓とも打ち解けた悠蘭は、気心知れたふたりを前に悪態をつく。

 そんなやり取りを見ていた月華は噴き出した。

 兄に笑われ、急に恥ずかしくなった悠蘭は取り繕うように続けた。

「そ、それに俺は仕事が早く終わった日はすぐにでも帰りたいんです」

「そりゃ、愛妻が待ってるだろうからな」

「な、何ですか、紫苑さん。いけませんかっ」

「誰も悪いなんて言ってねぇよ。悠蘭には菊夏殿がいるから羨ましいよなぁって思っただけさ」

「……ずいぶんと含みがあるように聞こえるんですけど」

「すねるなよ、別に他意はねぇから。お前たちはいいよな、それぞれ生涯の相手に出会ったんだからよ」

「紫苑にも早くいい人が見つかるといいな」

「月華ぁ、だから誰かいい人を紹介してくれよ」

「久我家で誰か探してもらえばいいじゃないか」

「それは絶対嫌だね」

 それまでにやけた顔で話をしていた紫苑は、急に真顔になった。

 目が笑っていないことに月華は目を見張ったが、訊ねる間もなくすぐにいつもに紫苑に戻ってしまった。

 いつでも明るく軽口をたたく紫苑が見せた珍しい表情に月華は首を傾げたが、真顔になった真意は掴み切れなかった。

 するとまたふざけた様子で紫苑は言った。

「そんなことより、お前たちも変わったよな。ほんの1年前だったらふたりが並んで酒を呑んでるなんて想像もつかなかったぜ。まぁ俺たち4人がこうして顔を突き合わせてること自体が奇跡だけどな」

 紫苑は向かいに座る兄弟をまじまじと見つめ、月華の盃に酒を注いだ。

 自らも手酌で酒を継ぎ足すと、空になった徳利を掲げて追加注文を店主に叫ぶ。

 髪の色は違えどそっくりな顔をする九条家の兄弟、毒殺事件がなければ同じ朝廷で働いていながら接点がなかったはずの楓を見ると、改めて奇跡的な縁で繋がった仲間だと紫苑は実感する。

「俺が家を出てから5年以上になるが、その間は一度も家に帰ることはなかったからな。当然、悠蘭に会うこともなかったことを考えると、俺たちがこうして外で酒を呑むなんて俺自身も想像しなかったよ。まして朝廷で仕事をした帰りに酒を呑んでるなんてな」

 月華は紫苑と軽く盃をぶつけ合うと、一気に酒を流し込んだ。

 もし自分が家を出ることなく、そのまま朝廷で官吏となっていたならこんな感じだったのだろうか、などと月華は想像する。

 だがすぐに飽きて辞めていただろうとその想像を払拭した。

「兄上——」

 遠慮して声を潜めて言う悠蘭に月華は言った。

「悠蘭、ここでならもう大丈夫だろう。誰も俺たちを見知った者はいない。だが仕事中は『兄上』とは呼ぶなよ」

「はい、兄上」

 楓はふたりのやり取りを微笑ましく見守った。

 傍から見ていると本当に兄弟なのだとわかる。

 兄は弟を可愛がっているし、弟は絶大な信頼を兄に向けている。

 髪の色が違おうとやはり流れる血は同じなのだ。

「それで、兄上。官吏の仕事はどうでしたか」

「ん? 官吏の仕事か……とにかく無駄が多いな。もっと効率的に仕事をした方がいいと俺は思う。あれでは人手がいくらあっても足りないのも頷ける」

 正規の官吏である3人は面食らったように絶句した。

 たった1日朝廷にいただけの月華にはすべてが見えているのではないかとさえ思えた。

「さ、さすが兄上ですね。そんなに核心に迫られては返す言葉もありません」

「確かに。だがあれは構造的な問題だ。我ら一介の官吏がどうこうできる問題ではないな」

 月華の批評に楓も頷いた。

「そうだよな。とにかく書類が多すぎるんだよっ。もっと簡単に処理できれば楽にことが運ぶはずなんだ」

 紫苑がそう言い切ると、月華は噴き出して笑った。

「紫苑もたまにはまともなことを言うんだな」

「どういう意味だよ、月華!」

 やり取りを見ていた悠蘭と楓も声を上げて笑った。

 日が沈むにつれ、みつ屋に入って来る客は増える。

 4人は夜が更けるまで奇跡の呑み会を続けた。

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