第18話 禁書
それは今から10年ほど前のこと。
よく晴れた春先だった。
年に一度宮中で行われる春の園遊会は、帝だけでなく多くの貴族や客人を招いて行われる茶会を主とした催しであった。
風早橄欖はそのすべてを取り仕切る茶人で帝の最も信頼する人物である。
橄欖は、身分は高くないものの、橄欖の父もまた茶人として宮中に出入りしていた縁から帝とは竹馬の友と言えるほど親しかった。
この年の園遊会は特別なものだった。
帝のふたりの皇子が初めて参加する園遊会となったからだ。
これまで園遊会に皇子たちを参加させることはなかったが、第1皇子の白椎が橄欖に茶を習い始めたと耳にした帝がふたりの皇子を呼び、白椎に茶を点てさせる機会を与えたのである。
橄欖にはふたりの娘がいたが、決して自分の娘たちには茶の湯を教えなかったという。
それにも関わらず皇子には茶の湯を教えたことを帝が喜んでのことだった。
園遊会には第1皇子の母、芙蓉も正妃である第2皇子の母も参加しなかった。
芙蓉は身分が低いからという理由であったが、正妃は病弱で参加できなかったとされている。
紫宸殿の前にある南庭に特別に床が誂えられ、朱傘を立てた野点の会場はまさに春の園遊会にふさわしい華やかさだった。
腰掛ける亭主の橄欖の隣では、唯一の弟子と言ってもいい白椎が居心地悪そうにしていた。
白椎が辺りを見渡すと、摂家当主の面々だけでなく清華家や大臣家、羽林家など様々な家格の者たちが一堂に会している。
これまで身分の低い母のもとに生まれた皇子と揶揄されることを恐れた帝は白椎を表に出すことを嫌っていた。
そのために白椎にとってこれほど多くの人が集まる場所に出るのは初めてのことだった。
参列者たちにとって白椎は初めて見る人物だったが帝は来客たちに橄欖の隣にいるのが第1皇子であることは公表しなかった。
彼が白椎であるということを万人に知らしめるつもりはなかったのだろう。
白椎は多くの人を前に緊張していた。
上座には父である帝、その隣には弟が白椎の点てる茶を楽しみにしている。
後方には園遊会を華やかにする楽士たちが雅楽を奏でていた。
その端には白椎の護衛を請け負う久我雪柊の姿がある。
本来皇子の特別な警護人はなく六衛府が内裏の警護を担当しているが、白椎は幼少期よりその生まれを快く思わない者たちに命を狙われてきたために、父である帝が武術の達人である雪柊を兵部省の官吏でありながら護衛につけたのだった。
雪柊は白椎にとって厳しい兄のような存在だが、ほとんど笑うことがない雪柊がこの日ばかりはなぜか細い目をさらに細め、微笑んでいた。
それがかえって白椎の緊張を高めたのだった。
「師匠、本当に私がみなに茶を振舞ってよいものでしょうか」
弱冠10歳の白椎は、不安そうに隣に座る橄欖を見上げた。
橄欖は呆然としながら湯釜を見つめている。
心なしかその手は震えているようにも見える。
当代随一と謳われる茶人も緊張することがあるのだろうか。
「師匠……?」
もう1度白椎が声をかけると驚いたように橄欖は驚愕した表情で振り向いた。
「は、白椎様……どうなさいましたか」
「そのお言葉、そのままお返しします、師匠。ぼうっとされてどうなさいましたか」
「あ、いえ、失礼いたしました。少し考えごとをしておりまして……いけませんな。集中力の欠如は茶の湯の道に反します。いついかなる時も、一期一会の精神で臨みませんと」
苦笑した橄欖はすぐにいつもの調子に戻っていた。
客人が徐々に揃い始める中、橄欖は並べられた道具のひとつひとつを確認しながら言った。
「それで、白椎様。何か不安でもおありなのですか」
「不安しかありませんね」
「それはまた、いつものあなたらしくありませんな。自信に満ち溢れたあなた様はどこへ行きましたか」
「師匠……私もただの人です。緊張することもありますよ」
「はははっ。そうでしたか。あまりにも万物に精通しておいでなので、わたくしはてっきり白椎様は天から遣わされた神の御子かと思っておりました」
「ご冗談を……私はそんな大それた人間ではありません。他人より何でも深堀したがる性格なだけです。それに、こんなにたくさんの人と面することもこれまではなかったことなので……私のことは伏せられているとはいえ、みなここにいる私をどう思っているのだろうと、気にならないわけはありません」
白椎も師匠に倣って自分の道具をひとつずつ確認しながら答えた。
「ご心配なさいますな。今日は気楽な野点ではありませんか。初めての経験というのは誰でも緊張するものです。ですが、あなた様は素晴らしい感性とのみ込みの速さで、短期間でわたくしの教える茶の湯を習得なさったのです。胸を張ってみなさまに振舞われたらよいと思いますよ」
そう励ました橄欖の表情はどこか曇っていたことを白椎は気がついていたが、この時は自分のことで頭がいっぱいでそれを追求するほどの余裕はなかった——。
弾正尹——榛紀は書庫の奥でひとり、手にした書をぱらぱらとめくっていた。
少し前にこの書庫からこっそり持ち出した橄欖園遊録。
結局、目を通す機会がなく冒頭を読んだだけで一旦書庫に戻すことにした。
書庫には膨大な蔵書があるが禁書の棚を含め逐一、図書寮が書物の管理をしているため長い間、所在不明にするわけにはいかない。
まして持ち出したのは持出禁止の禁書である。
あるべきところにないとなれば騒ぎが大きくなることはわかっている。
長期間、自分の手元に置いておくとなれば、それは写しを自ら作成するしかない。
この春の園遊会は自分も参加していたにも関わらず、当時は幼かったためにほとんど記憶に残っていないことが悔やまれる。
読んだところまでをもう1度めくり、榛紀は眉根を寄せた。
書き出し部分の内容はいつもと変わらない園遊会だったように思える。
多くの貴族たちが集まり、紫宸殿の南庭で野点を行うことになったとある。
解せないところと言えば、橄欖の様子が少しおかしいところだろう。
弟子が様子を窺うほど、いつもとは違ったということだ。
橄欖の身に一体何があったのだろうか。
禁書の棚の前でもう少し続きを読もうと1枚めくったところで書庫の入口から話し声が聞こえてきた。
榛紀は泣く泣く橄欖園遊録を閉じると棚に戻した。
「それで、過去といってもいろいろあるが何を調べようとしているのだ?」
月華と楓は書庫に足を踏み入れた。
中には人の背丈ほどもあろうかという高さの棚が無数に並んでおり、書物は横にした状態で数冊ずつ上積みされている。
月華は手近な棚から1冊手に取ると、適当にめくりながら楓の問いに答えた。
「そうだな。まずは近江の紅蓮寺にいた樹光という僧侶についての記録を探したい」
「紅蓮寺? それは紫苑殿の叔父上が住職をされているという寺か?」
「そうだ。俺もかつてそこで紫苑とともに武術を教わった。だが俺が知りたいのは前の住職のことだ」
百合が受け継いだ異能は前の紅蓮寺の住職であった樹光が持っていたものだ。
月華は彼女が持つ異能を知るためにはなぜ樹光がそれを持っていたのかを知れば手掛かりが掴めるかもしれないと考えていた。
死にゆく人の業を解き放つという不思議な異能。
血で受け継がれることはなく、自ら選んだ相手に受け継がせることができるという。
そして、自らを殺めることはできない。
結局この正体は何なのか、未だに何も掴めていない。
「個人のこととなるとどこまで関係する資料があるかわからぬが、朝廷に出入りしていた者だったなら式部省の資料に記録があるかもしれぬ。もしくは民部省の戸籍関係から探ることも可能かもしれぬな」
「そうか。楓殿は頼りになるな、ありがとう」
「例には及ばぬ。他にはあるのか」
「あとは、西国の備中国——三つ巴の家紋を掲げる妹尾家という武家に関する記録を見たい」
「妹尾家? そなたも妹尾家のこと探っているのか?」
「楓殿、知っているのか!?」
「知っているも何も私の姉の嫁ぎ先でな。以前、京で毒殺事件があった時にも李桜が、妹尾家がどうのと言っていたのだ。もしかして白檀殿のことを調べているのか」
「……ああ、そうだな。それもある。白檀はあの事件の後、忽然と姿を消したと聞いている」
「記録にも残らなかった。白檀殿のことを調べるのなら、風雅の君の記録を調べた方が何か掴めるのではないか。おそらく茶人白檀としての記録はどこにもないだろう」
「確かに。風雅の君は確か、先帝の落とし種と言われていたらしいな?」
「そうらしい。私もその時代のことは知らぬが、あの事件の後に調べたところによれば今の帝の兄君で確か名は白椎と——」
楓がそう言ったところで書庫の奥から音もなくひとりの男が現れた。
「騒がしいと思ったら、楓、ここで何をしている? 手を痛めてすることがなくなりぶらぶらしているのか」
ここが朝廷の書庫であることも忘れ、条件反射で楓を守るように後ろ手に隠した月華は堂々と男を睨みつけた。
「っ弾正尹様!」
楓が頭を下げたのを見た月華は慌ててそれをまねたが、すでに後の祭りだった。
近づいて来た弾正尹は月華の頭の上から足の先までじっくり見た後、腕を組んで言った。
「そなた、もしかして右大臣様が連れて来たという九条家の者か」
「……月華と申します。短い間ですがどうぞお見知りおきを」
「そうか。ところでふたりはここで何を?」
「いろいろと調べたいことがあったので……楓殿には案内を頼んだだけです。書庫の閲覧許可は右大臣様にいただいておりますので」
「月華——みなにどう言われたのか知らないが、そう警戒しなくよい。別に私はそなたを取って食うわけではない。楓の怪我が治るまで代役を頼む」
弾正尹は月華の肩に軽く手を置くと、それ以上何も言わずに去っていった。
それまで息を殺していた楓は、新鮮な空気を吸うかのように深呼吸する。
「楓殿……あれだけ脅すからどんな人物なのかと思っていたが、別に俺たちと年も変わらないような普通の官吏じゃないか。何をそんなに怯えているんだ?」
「月華殿はあの方の本性を知らないのだ。時には情け無用に粛清する恐ろしさで言えばそれは李桜の遥かに上を行く」
「そうか? そんな風には見えなかったが……」
月華は楓の怯えように首を傾げるばかりだった。
「そう言えばあの弾正尹、書庫の奥から出て来たな。何か探していたのだろうか」
「さて、どうだろう。この奥は禁書しかないはずだが」
「禁書?」
「持出禁止の閲覧制限がかかっている書物のことだ。概ね重要な記録が残されているとされているが、私も禁書には目を通したことがない」
「楓殿も? そこまで言われると気になるな」
月華は弾正尹が出てきた書庫の奥へ向かおうとした。
だが、1歩踏み出したところで楓に腕を掴まれる。
「月華殿、今日のところはやめておいた方がよい。書庫には長居できぬゆえ、必要な書物を持ってそろそろ出なければならぬ。禁書はまたの機会に」
月華が突き止めようとしているのは常識を外れた内容である。
禁書の中にこそ、真実があるような気がしていたが今日のところは大人しく楓に従うことにした。
それにしても。
(あの弾正尹、妙に近しい雰囲気を感じたのは気のせいだろうか。それに名も訊きそびれた)
朝廷で働く数多の官吏が恐れるという弾正尹。
月華はなぜか謎めいたその男に親近感を覚えていた。