第17話 かりそめの官吏
翌日、髪を黒く染めた月華は黒い朝服に身を包み中務省で西園寺李桜と文机を並べていた。
正確には李桜と文机を並べている今出川楓の文机である。
同省の官吏たちには右大臣の親戚として紹介され、手を負傷し書き物をできなくなった楓の助手として、しばらくともに仕事をすることになったと説明している。
鬼のように文机に積まれた書簡を前に、月華は朝からため息が止まらなかった。
「何なんだ、この量は」
苛立ちを隠すこともなく幼馴染にため口で不満をぶつけると、周りの官吏たちは戦々恐々とした。
いくら右大臣の親戚だとはいえ、その態度で中務少輔に接しているのが信じられなかったのだ。
「文句言ってないで早く片付けなよ。やることはまだまだあるんだから」
「……俺は臨時で来ているということを忘れるなよ、李桜」
「臨時でも官吏は官吏でしょ? 中務省に配属されたからには僕の指示に従ってもらうからね」
「ううぅ……」
そんな憎まれ口を叩きながらも李桜は次から次へと書簡に目を通している。
さすがは朝廷一の切れ者と称されるだけのことはある。
李桜の噂どおりの仕事ぶりに月華は友人として感心した。
月華は深く息を吐くと山のように——いやもはや山として積まれた書簡の1番上から目を通した。
彼の隣では右手を怪我した楓がすまなそうに書簡の積み上げをしていた。
利き手を怪我したことで筆を持つことができなくなってしまったが、左手は問題なく動いている。
月華の文机に山を作っているのは楓だった。
「月華殿……こんなことに巻き込んでしまってすまぬ」
「いや、楓殿のせいではない。引き受けたのは事実だしな」
「だがせっかくの休暇だったのではないのか」
「まあ、そうだが……恥ずかしながら父には借りがありすぎて逆らえないのも事実なんだ。引き受けたからには、多少の役には立つよう振舞うつもりだ。とりあえず目の前のことをこなしていくしかないな」
「申し訳ないと思いながらも、だが来てくれて本当に助かった」
月華は頭を下げる楓に苦笑すると、一層処理速度を上げて仕事にとりかかったのだった。
昼餉を済ませ一刻ほどが過ぎた頃、月華の文机にあった書簡の山はふた山に分けられていた。
最後に目を通したものを片方の山の上に置くと、月華は言った。
「李桜、今日の分は終わったからここからは俺の好きにさせてもらうが、問題ないだろう?」
「えっ?」
相変わらず崩れそうな山の隙間から顔を出した李桜は隣の文机の山がふたつに分かれているのを見て首を傾げた。
「何言ってるんだよ、月華。ただ半分に分けられただけじゃないか」
「失礼なやつだな。こっちはすべて処理済みだ。それからこっちは急ぎじゃない分だから明日以降に片付ける」
月華は山のように積まれていた書簡を数刻の間に仕分けしていた。
これまで中務省の官吏たちがとにかく目の前のものから処理しているのを見て効率が悪いと感じた彼は、今日処理しなければならないものだけを選別して片付けたのである。
隣でともに作業をしていた楓は感心していた。
不慣れなものを処理しているにしては冷静に判断して最善を尽くしている。
やはり相当有能なのだと改めて思った。
「まだ刻限じゃないんだから、余力がなるなら明日以降の分とやらもやってよ。それでもまだ持て余すって言うなら僕の分を分けてあげるから」
李桜が適当に山から抜き出した束を月華に突きつけると彼はうんざりした顔でそれを差し戻した。
「冗談じゃない。俺が官吏の仕事を引き受けたのにはもうひとつ目的があったからだ。今日の分は終わったんだからあとは自由にさせてもらう。じゃあな、李桜」
そう言うと月華は立ち上がって部屋を出て行った。
やり取りを見守っていた官吏たちは背中に冷たいものが流れるのを感じながら恐る恐る李桜を見る。
言うことを聞かない臨時の官吏に腹を立てているかと思えば、彼はご機嫌に鼻歌を歌っていた。
それが妙に不気味でこの日の官吏たちは生きた心地がしなかった。
楓は部屋を出て行った月華の背中を慌てて追いかけた。
入口で沓を履く彼の背中に声をかける。
「月華殿!」
振り返った月華はにこやかに返事をした。
朝服を着た彼を見ていると、とても鎌倉の武将とは思えない。
以前会った時には腰に刀を指していたから武士と言われれば疑う余地もなかったが、さすがに御所の中ではそうはいかない。
武士である彼が同じ職場にいること自体、違和感があってしかりなのになぜか朝服を着ている月華がしっくりくるのはやはり彼が摂家の人間だからなのだろうか。
「月華殿、一体どこへ向かわれる? 邸へ帰るのなら御所の門までお送りしよう」
「楓殿、そんなに俺に気を遣わなくていい。帰り道ならわかっているし、あいにくと帰るわけじゃないんだ」
「ではどこに向かっているのだ」
「朝廷には貴重な書物を収める書庫があると聞く。俺は臨時の官吏として働く条件として書庫の閲覧を許可してもらっている」
「書庫? それなら私が案内しよう」
「いいのか?」
「忘れたのか? 私は利き手を怪我して筆を持つことすらままならぬ。そなたの手伝いをする以外にできることは少ないのだ。あそこにいても役に立たぬゆえ、月華殿を手伝った方が役に立つだろう」
楓は中務省を出ると向かいにある内裏の建礼門を素通りし対角にある図書寮を目指した。
玉砂利の敷かれた整備された道を進む。
幾人もの官吏たちとすれ違ったが誰も月華の存在に気がつく者はいなかった。
赤茶色の髪ではすぐに気づかれるのだろうが、さすがに黒く染めた甲斐があったらしい。
「その髪、染めた効果があったようだな」
歩きながら楓は含み笑いをした。
「そのようだ。こんなにも誰も俺の存在に気がつかないとは思わなかった。ある程度声をかけられるものと覚悟して来たのだが」
「そなたを呼び寄せると豪語していた右大臣様が言ったとおりになったな」
「父が何か言っていたのか?」
「ああ。朝廷には数多の官吏が働いている。誰も全員の顔を見知っているわけではないから、臨時の官吏がひとり増えたとて誰も気がつかぬ。唯一すべての官吏を把握しているのは弾正尹様だけだと」
「その弾正尹とは……?」
「朝廷には官吏たちの不正を防止するための監察機関が存在する。弾正台と言うのだが、弾正尹というのはその長官たる立場にいる方のことだ」
「なるほど。官吏たちを監察する立場だからこそ、すべての官吏を把握しているということか。ではもぐりのような俺がここにいてはまずいのではないか?」
「それなら問題ない。右大臣様がそなたの話を持ち出した時に、その場に弾正尹様もいらしたから黙認されていると思う。だが、臨時とはいえ官吏は官吏。弾正尹様に睨まれぬよう、気をつけられよ。あの方に睨まれては朝廷にいられなくなるからな」
「……面倒なことだ」
うんざりした様子で肩を落とした月華を励ますように楓は言った。
「巻き込んでしまって月華殿には申し訳なかったが、そなたが来てくれて本当にありがたいと思っている」
その言葉に救われた気がした月華は眉尻を下げた。
「役に立っているのなら何よりだ」
ふたりはしばらく談笑しながら歩いた。
父に無理やり押し付けられた仕事だったが、そもそもなぜ官吏が必要だったのか理由を聞いていなかったため、月華はここに至るまでの詳細を楓に説明させた。
詳しく聞けば聞くほど、眉根を寄せたくなるような話だった。
人手不足なのは中務省だけでなく、すべての部署で慢性的に官吏が不足しているという。
帝はこの現状を一体どう思っているのだろう、などと柄にもなく月華も朝廷の現状を心配した。
少し歩いた先、前方に見えてきた新たな建物に目を移すとそれが目的の場所だと楓が指さした。
「ところでそなた、書庫へ何しに行くのだ?」
「いろいろ調べたいことがあるんだ。特に過去のことについて調べたいと思っている」
「そうか……何だかよくわからぬが、これまでの記録であれば図書寮が管理する書物は参考になるかもしれぬ」
「図書寮?」
「ああ。中務省に属する部署だ。図書寮の許可がなければ書庫の閲覧はできぬのだ」
「そうなのか? それなら李桜に言って許可を——」
「いや、それには及ばぬ。月華殿、少しここで待っていてくれぬか」
楓はそう言って、そそくさと目の前の建物へ入っていった。
状況がわからず月華は周囲を見回した。
中務省から目前の図書寮へ来るまでの間にもいくつもの建物が並んでいた。
道は石畳と玉砂利で整備されており、ところどころに木々も植えられている。
行き交う官吏の人数も多く、政の中心であることが容易に理解できた。
図書寮へ入っていった楓を待ちながら呆然としていると、楓と入れ違いに出てきた男がこちらへ向かってきた。
朝服を着た男で官吏のようだが、難しい顔をしながら首を傾げぶつぶつと呟いている。
男は月華の目の前まで来たところでぶつかりそうだと気がついたらしく、顔を上げた。
「おっと、失礼」
碧色の朝服を着た相手に対し、道を開けようと月華が避ける時に一瞬ふたりの目が合った。
月華はなるべく目立ちたくなかったためにすぐに視線を落とし相手に軽く首を垂れたが、男は訝しげに月華を見つめるとぽつりと言った。
「お前……どこかで——」
男が続いて言おうとしたところで図書寮から楓が出てきた。
「待たせた」
男は振り返り、声の主が楓だとわかると月華を尻目にそそくさとその場を去っていった。
月華が男の背中を見つめていると近づいて来た楓が不思議そうに声をかける。
「月華殿、いかがした?」
「あ、いや。先刻、その図書寮から出てきた男が俺に何か言いたげだったんだが、そのまま去っていった。誰なのかと思っていたところだ」
視線の先にある男の後姿を見た楓は何でもないことのように答えた。
「あれは刑部少輔ではないか」
「刑部少輔?」
「ああ。確か、鷹司家の嫡子だったと思うが……。そなたと同じ摂家の者だから面識があるのかもしれぬな。あの者には気をつけられた方がよい」
「何かあるのか」
「何ということはないが、野心家だと裏ではよく噂されている。鷹司家は表立って目立った動きはしていないが、陰では暗躍しているのではないかともっぱら官吏たちの間では噂が絶えない」
「火のないところには何とやら、ということか」
「そんなところだ。さて、月華殿。話はついたゆえ、中へ参ろう」
「許可は下りたのか」
「ああ。ちゃんと伝えていなかったが、中務省の中で図書寮とのやり取りを担当しているのは私なのだ」
「さすがは腕利きの官吏だな」
「茶化さないでくれ。私以外でも少輔や大輔、それに左右大臣などの高位の方たちも自由に出入りできる。あとは……弾正尹様くらいか」
「弾正尹とはずいぶんと権力がある役職なのだな」
「権力もあるが、みな睨まれたくないので関わらないようにしているだけだろう。それに不正を監察する立場にあって何か悪さをするとは誰も思っていない。だから弾正台の官吏たちはどこへでも自由に出入りできるのだ」
月華は楓の導きで図書寮の入口に向かった。
振り返ると去っていった刑部少輔の姿はもう見えなくなっていた。
(少輔だからこそ、自由に書庫へ出入りできるということか)
何か言いかけた男のことが気になったものの、月華はそのまま書庫へ入っていった。