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第16話 髪を染める理由

 臨時の官吏を引き受けることになった月華つきはな悠蘭ゆうらんとともに寝殿を出た。

 少し背丈が違う程度で見た目は双子かと思うほど似てきたふたりが邸の中で並んで歩くことは珍しく、すれ違う女中たちがみな2度見するほどだった。

 髪は月華の方が少し長いがふたりの髪色は同じく赤茶色で、時華ときはなのそれを受け継いでいる。

 紅蓮寺ぐれんじで修業するようになった悠蘭の体格もますます月華に似てきており、後姿では見分けがつかなくなってきていた。

「こうして悠蘭と邸の中で並んで歩くなど、いつぶりだろうな。菊夏きっか殿は元気か?」

「まあ、そうですね。見た目は元気にしています」

「なんだかずいぶん含みのある言い方だな」

「妻といえども女子の考えていることは俺にはさっぱりわかりませんよ。兄上は義姉上あねうえのことをよく理解しておいでのようですが、どうしてわかるのですか」

「すべて理解しているわけじゃないさ。知らないこともたくさんあるし、時々理解できないこともある」

「へぇ、そんなものですか……まあ、女子には女子の考えがあるのでしょうね。花織かおるも将来、そうやって男を悩ませるのかな」

「それは悩むに及ばない」

「えっ……?」

「花織を嫁にやるわけがないじゃないか。最悪、婿でも取らせてこの邸に留め置くなら認めてもいい。花織にふさわしい器量の男がそうそういるとは思わないがな」

「はあ……!? 兄上に息子が生まれたらどうするのですか。兄上の後は花織の弟が継ぐことになるのですよ? 婿が可哀そうではないですか」

「何を言う! その時はみな一緒に九条邸ここに住めばいい。これだけの広さがあるんだから問題ないだろう」

「いや、広さの問題ではないと思いますが……」

 すっかり親ばかになってしまった兄を半ば呆れながら見つめた悠蘭は自分にも娘を授かることがあればこんなばかげたことを言うようになるのかと、少し恐ろしくなったのだった。

「そうだ兄上、今度相談したいことがあるので少しお付き合いいただけませんか」

「相談? 今ではだめなのか」

「いえ、急ぎではないので。昨夜戻ったばかりなのですから、まずは義姉上と花織のそばにいてあげてください。それに——」

 悠蘭は意地悪く言った。

「今度は朝廷内でも顔を合わせることになるわけですし。陰陽寮おんみょうりょう中務省なかつかさしょうの隣ですからね」

「悠蘭……一瞬忘れていたことを思い出させるなよ」

 悠蘭は声を上げて笑いながら自分の邸へ帰っていった。

 途中で弟と別れた月華は、その足で妻子の待つ華蘭庵からんあんへ向かった。

 回廊から中庭へ抜けるとそこには大きな池がある。

 燦々と降り注ぐ陽が池に映り込む様子はかつて暮らしていた頃とまったく変わっていない。

 この九条邸の中はいつも外とは隔離された平和なときが流れ、世の中の喧騒を忘れさせてくれる。

 この邸の中が何者にも侵されることなく過ごせているのはその権力の強さゆえのことなのだろう。

 それを堅苦しく思って家を出たが、今はその力こそが自分にとって最も大切なものを守ってくれていることに、月華は妙な因果を感じた。

 池に架かる橋を渡り中島に建てられた華蘭庵に着くと、月華は深呼吸した。

 本当ならふた月の休暇は家族と過ごすために充てるつもりでいた。

 いつかの反物屋店主のように幼子を妻とともにあやし、日が昇ってから暮れるまでを穏やかに過ごしてみたかった。

 だが何の仕打ちなのか、休暇の半分は朝廷で官吏の仕事をしなければならなくなった。

 そのことを百合ゆりに伝えなければならないことが、何よりも心苦しかった。

 襖を開けると小さな布団に寝かしつけられている子どものそばで百合がうたた寝をしていた。

 あれだけ大声で泣いていた花織かおるを寝かしつけるのはひと苦労だったことだろう。

 日頃の世話で寝不足なのかもしれない。

 起こさないように気をつけながら、近くに畳まれていた百合の羽織と思しきものをそっとその肩にかけた。

 月華は腰から刀を鞘ごと抜くと畳の上にそっと置いて百合の隣に腰掛けた。

 すぐそばにすやすやと寝ている花織を見ているとすべての悩みが小さいことのように思えてくる。

 ちょうど1年前の夏、月華はまだ鎌倉にいた。

 みやこにいる鬼灯きとうに代わって仕事に追われる多忙な日々を過ごしていた。

 その頃は実家に帰ることになるとも、弟と言葉を交わすことになろうとは想像していなかった。

 隣でうたた寝をする百合に目をやると、少し疲れているように見える。

 立ち会うこともできなかったのに命がけで花織を産んでくれたことに、月華は心から感謝した。

 縁は異なもの味なもので、百合との出逢いが月華の人生そのものを変えてしまった。

 彼女と出逢うことがなければこんな幸せな気持ちを味わうこともなかっただろう。

 月華は眠る百合の手をそっと掴み、その甲に口づけた。

「いつもありがとう、百合」

 それだけ伝えると、月華は立ち上がった。

 明日からの出仕に向け、ひとつやらなければならないことがある。

 華蘭庵を後にした月華はくりやへ向かった。



 日が沈み、夜の静寂に包まれる頃。

 百合は静かに目を開けた。

 室内の行燈には明かりが灯されており、ぼんやりと室内を照らしている。

 足元では娘の花織が大人しく眠っており、百合は安堵した。

 百合が愛おしそうに花織の頭を撫でたその時、華蘭庵の襖が静かに開かれた。

 義父や義弟が訪れる時は必ず声をかけてから襖を開くために、何も言わず開かれた襖にどきりとしながら見守ると、黒髪の男が現れ、百合は声を張り上げた。

「きゃ——」

 ところが慌てて駆けこんできた黒髪の男に口元を強く塞がれ、その張り上げた声は声にならなかった。

 男は耳元で囁いた。

「静かにっ。花織が起きてしまうじゃないか」

 聞き覚えのある声に冷静さを取り戻し、視線を向けるとそこには見慣れた愛しい夫の顔があった。

 が、どこかがおかしい。

 よく見ると特徴的な赤茶色の髪が黒く染まっていた。

「つ、月華様っ。その髪——」

「ああ、これか?」

 月華は照れながら自分の髪をひと房すくって百合に見せた。

 赤茶色だった髪は確かに紫がかった黒に変色している。

「どうされたのですか、その髪」

「これは……染めたんだ」

「それは見ればわかります」

「そう、だよな。実は——」

 ふた月の休暇は家族水入らずでしばらくゆっくり過ごしたいと思っていたが、休暇を満喫できなくなったことを説明しなければならない。

 月華は父から依頼され断れないままに臨時の官吏を引き受けたことを打ち明けた。

「臨時とはいえ官吏は官吏だからな。父上や悠蘭と同じ髪色で出仕するわけにはいかないだろう? 血縁だとばれて臨時ではこと足りなくなっても困るしな」

「それにしてもよく染まりましたね」

「ああ。くりやで藍から染料を作ってもらった。思いの外よく染まったよ」

「ふふっ。何だか月華様ではないみたい」

「惚れ直したか」

「そうですね。黒髪もお似合いです」

 百合が愛しそうに月華の髪に触れると、彼はその手を掴み強く自分の方へ引き寄せた。

 百合の長い髪に顔をうずめると月華は深く深呼吸した。

「百合——本当ならふた月の休みはすべて百合と花織のために費やすつもりだったが、そうはできなくなってしまった。すまない」

「どうして謝るのですか」

「戦があったとはいえ、辛い出産にも立ち会えなかったのにせっかくの休暇でも俺は何の役にも立てない」

 百合は顔を上げると珍しく落ち込んだ様子の月華の頬を両手で包んだ。

 まっすぐに瞳を見つめる。

「お勤めがあっても、毎朝お見送りができて日が暮れる頃にはお迎えができるのですから、百合はそれだけで幸せです。昼間はあなたがいなくても、この子には私がいるから大丈夫です。だから——」

 恥ずかしそうに顔を赤らめて百合は言った。

「夜は月華様のおそばにいさせてください」

 なぜ、どうして、ともっと非難を浴びせられると思っていた月華は面食らった。

 だが考えてみれば妻はこういうひとだということを失念していた。

 いつだって自分のことよりも相手のことを優先する。

 忍耐強く、でも主張はする。

 だからこそ月華もそのすべてを受け止めたいし、愛しいと思う。

 月華は気がつくと百合の頭を引き寄せ、口づけていた。

 久しぶりに味わう感触に酔いしれ、すでにたがが外れたまま自分では制御が効かなくなっている。

「んっ、ん——」

 百合の小さな抵抗すらも押さえつけるように力で制した。

 そのまま押し倒し、百合の背中が畳に付いたところで一瞬開放すると、百合は強い抵抗を見せた。

「月華様っ、花織が起きてしまいますっ」

 百合は抵抗する力とは裏腹に小声で囁く。

 彼女の顔の横には眠る花織がいた。

「まだ起きていない」

「起きたら大泣きして大変なのです」

「起きたらやめればいいだけだろう? やめられるかどうかはわからないが」

「んもうっ」

「怒ってもかわいいだけだから無駄な抵抗だ」

 再び月華が百合に口づけると、彼女は諦めたかのように身を委ねた。

 百合が月華の首に腕を回すとふたりは息が苦しくなるほど長い間、口づけていた。

 それはまるで会えなかったときを埋めるかのようなひとときだった。

「百合——愛している」

 月華は百合の前髪を掻き分け、愛しそうに見つめた。

「私もです、月華様」

 そう百合が答え、再びふたりが唇を寄せたところでぱちりと目を開いた花織が大声を発した。

 親であるふたりがしばらく見つめ合った後、互いに吹き出すと先に体を起こした月華は百合の手を引いて彼女の体を起こした。

「今日のところはお預けだな」

「そうですね」

「さて、それじゃあ姫のご機嫌取りでもするか」

「ふふっ。お手並み拝見いたします、旦那様」

 花織を抱き上げてあやす月華を百合は微笑ましく見守った。

 寝不足のせいか、どことなく体はだるかったが月華が戻ってきたことで心の不安は払拭された。

 やはり月華がそばにいてくれる安心感は何ものにも代えがたい、百合はそう実感した。

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