第14話 上限のない贈り物
九条邸に戻って来た翌朝——月華は自分の愛娘に釘付けになっていた。
小さな手で一生懸命に自分の指を握ってくる娘が微笑んだ瞬間はもう死んでもいいとさえ思う可愛らしさだった。
月華の腕に抱かれる赤子はふた月ほど前に、妻である百合が産んだ子で名を花織と名付けた。
九条家に生まれた初めての女子ということで誰もが必要以上に花織を可愛がり、愛されてすくすくと育っている。
中でも孫の可愛がり方が半端ではない父、時華の溺愛ぶりは時々百合を困らせるほどだという。
首も座らないような花織に新しい着物を誂えてみたり、極上の筆を揃えてみたりと、まだ必要のないものばかりを買いそろえては部屋を手狭にしているのだった。
おかげで夫婦の暮らす華蘭庵は物であふれている。
その時華の気質は月華の実弟である悠蘭にも受け継がれているらしく、姪の誕生を誰よりも喜び、時間ができては花織の顔を見ずにはいられないほどに可愛がっていた。
華蘭庵の中に腰を下ろし胡坐をかいて花織を揺らしながら寝かしつけている月華の隣に百合は寄り添った。
日が昇り朝餉の時刻も過ぎた頃、月華の腕の中で目を閉じた花織を見つめ百合は嬉しそうに言った。
「やっと寝てくれましたね」
「…………」
返事がないことを不思議に思い月華を見上げると、目尻が下がり愛情にあふれた表情で愛娘を見下ろしていた。
「月華様——お顔が腑抜けになっております」
「し、仕方ないじゃないか。こんなに可愛いものだとは想像もしていなかったんだ」
「もう……親子してそっくりですね。父上様もそうやって花織の前ではでれでれなのですよ」
「父上が? ……なるほど。そういえば以前に文句を言われたことがあるな」
「文句?」
「女子が欲しかったのに男ばかりふたりもいて残念だったそうだ」
「ふふふ、父上様らしい。でもそれは言葉のとおりではないと思います。月華様や悠蘭様のことをとても大事になさっているのは私にもわかりますもの」
「ああ、わかっている」
月華と百合は愛娘を囲って微笑み合った。
ふたりはしばらく離れていた間の近況を報告し合った。
月華はあえて奥州の残党と戦ったことは言わなかった。
出自の一族に道具のように扱われ、家族や故郷を失って命からがら逃れてきた彼女にその辛い時代を思い出させたくなかったからである。
「月華様、本当にふた月もお休みされて問題なのですか」
「大丈夫だろう。鬼灯様が他意はないとおっしゃったし、俺の代わりに棗芽様がしばらく仕事を代行してくれることになったからな」
「棗芽様……?」
「鬼灯様の末の弟君だ。雪柊様の1番弟子で腕っぷしはめっぽう強いし、頭の回転が速い方だから何が起きても安心してお任せできる」
「そんなにすごいお方なら1度お会いしてみたいものですね」
「いや、やめた方がいい」
「なぜですか?」
「あの人は少し毒が過ぎる。本心から言っているのかあえてああいった物言いなのかよくわからないが、とにかくまともに取り合っていたらこちらの身が持たない」
まったく想像がつかない人物像に百合はますます興味が沸いたが、月華の手前、それは口にしなかった。
百合が含み笑いしていると、ふいに襖の向こうから声が聞こえた。
「月華様、準備が整いましてございます」
襖を開けると、そこにはふたりを迎えに来たという家臣の松島がいた。
松島は百合に軽く会釈すると、室内にいる月華に目で合図した。
月華と松島を交互に見ながら、百合は言葉なくして会話するふたりの様子に首を傾げる。
「松島、手間をかけた。では行こうか」
月華は腕の中の花織を松島に預けると、最愛の妻に向かって手を差し出した。
「さて、百合。一緒に来てもらえないだろうか」
「どこへ、ですか」
「行けばわかる」
月華に手を引かれ辿り着いたのは今では空き室となっている東対だった。
かつて月華がこの邸に暮らしていた頃に使っていた部屋だと、以前松島から教えてもらったことを百合は思い出した。
子どもが生まれれば華蘭庵が手狭になるかもしれないからとすす払いをしたばかりだと言っていたが、結局未だに居を移してはいない。
ここで松島の茶を呑みながら九条家の昔話をしたのは春先のことであった。
九条家に嫁いでから半年以上もの月日が流れたのに、百合は家のことを何も知らないことに気がついた。
過去のことは松島に濁され話を最後まで聞くことはできなかったし、月華も九条家のことは多くを語ろうとしない。
考えてみれば月華の亡くなったという母のことでさえ、よく知らなかった。
かつての奥州で藤原家が異能を持つ百合のことをひたすらに隠していたように、この九条家でも何か隠しごとがあるのだろうか。
そんなことを考えながらふと顔を上げると、板間の上に置かれた畳には、見知らぬ男たちが何人もいた。
彼らの後ろには大きなつづらがいくつも並んでおり、そばには女たちが控えている。
それまで互いに談笑していた様子の男たちは到着した月華たちを見るなり、その場に平伏した。
面食らった百合が1歩後ずさると月華は繋いだ手を強く握り、すかさず引き寄せた。
「大丈夫だ、百合。ここには信頼できる者しかいない」
月華は、そう耳元で囁いた。
(何が始まるの……?)
何の説明もなしに連れてこられ、百合が不安にならないはずはなかった。
その様子を察した松島は花織を抱き、ゆりかごのように揺らしながら百合に言った。
「奥方様、彼らは九条家御用達の商人たちでございます。呉服屋にかんざし屋、草履屋に菓子屋、絵師もおりますのでどうぞご随意に。姫様のことは私にお任せくださいませ」
「…………?」
最初に持ち込んだつづらを開け、中から大量の品を並べ始めたのは呉服屋だった。
色とりどりの反物を広げ始め、その中から薄緑の1本を手に取った月華は百合の肩に当てた。
「百合にはやはりこういう淡い色が似合うな」
「月華様、お目が高い! 奥方様にはこちらもお似合いになるでしょう」
呉服屋が月華に手渡したのは地紋入りの藍白に手書きで花の絵が描かれた反物だった。
百合の黒髪に映え、上品な印象を与える品物である。
「いい品だな。今から仕立てれば季節的にもちょうどよいか。呉服屋——」
月華は言いかけながら、反物の山から気になった物を数点選ぶと呉服屋の手に預けた。
相手の手には抱えきれないほどの反物が抱えられている。
「これをすべて彼女のために仕立ててもらいたい。大至急頼む」
「はい、しかと承ります」
月華と呉服屋が会話をしている隙に、呉服屋が連れてきたと思しき女たちが3人がかりで呆然とする百合の採寸を始めた。
「それから今日、帯は何本持ってきてくれたんだ?」
「20でございます」
「ではそれはすべて置いていってくれ」
平然と言う月華に百合は目を剝いた。
反物が8点に帯が20本で一体いくらになると思っているのだろう。
しかもぱっと見ただけでわかるほど上質な物ばかりで百合は言葉を失った。
「かしこまりました。ありがとうございます。それにしても月華様、ご無事で何よりでございました」
「何のことだ?」
呉服屋が残った反物を片付けながら言った。
「時華様より、長年行方不明と伺っておりましたもので……。あなた様がご幼少の頃からお世話になっておりますが、時華様の様子を見て行方不明というのは表向きのことなのだろうと思っておりました。それが先日、松島様より本日のご用向きをいただき驚いたものです。ですがこうしてまたお世話になることができること、恐悦至極でございます」
「ははっ、大げさだな。だが邸へ来てくれて助かった。外へ出れば彼女の負担になると思っていたんだ。また妻のために品物を持ってきてはくれないか」
「もちろんでございますっ!」
呉服屋はこの上ない喜びに溢れ、大量の仕立てを開始するために急いで邸を出て行った。
次に進み出たのはかんざし屋だった。
銀細工、象牙、螺鈿、漆塗りに金箔をまぶしたものまで種類は豊富に用意されている。
百合がその品物の数に驚愕しているとあれよという間にかんざし屋が連れてきたと思しき女たちに髪を梳かされ、きれいに結い上げられた。
月華が銀細工のかんざしを1本、手に取ると結い上げられた髪に差した。
「悪くないな。松島はどう思う?」
1歩後ろで控えながら花織をあやしている松島は満足そうに頷いた。
「奥方様の凛とした美しさにぴったりですね」
「そうだな。百合も見てみるといい」
かんざし屋が用意した手鏡を渡され、百合は言われるがまま自分の顔を映した。
曼殊沙華を模した銀細工が光を反射して輝いている。
「きれい……」
思わずそう呟いたが最後、次から次へと試され、結局用意されたかんざしすべてを試すことになってしまった。
「かんざし屋、今試した品物はすべて置いていってくれ。もしこれ以外にもいい品が手に入ったら持ってきてほしい」
「か、かしこまりました! ありがとうございます。それにしてもこうやってまた九条邸にお呼びいただけるとは思いませんでした。何しろ、こちらの敷居を跨いだのは蘭子様がいらした時以来ですから……」
「これ、かんざし屋。余計なことは言わなくてもよい」
ぴしゃりと松島に叱られたかんざし屋は冷や汗を搔きながら慌てて出て行った。
大量のかんざしだけがそこに残されている。
それを見て我に返った百合は月華の腕を掴んで迫った。
「つ、月華様っ。これはどういうことでしょうか」
「どうって?」
「ごまかさないでください。先ほどの着物と帯、そしてこのかんざし……これは一体何なのですか!?」
「何って、妻に贈り物をしてはいけないのか」
「……えっ?」
「百合は物欲がないからこれまでねだられたこともなかったし、俺もなかなか京に長居できなかったから機会がなかったが、今回はちょうどよいと思って事前に松島へ頼んでいたんだ」
百合の体調を考慮して商人たちを邸に呼び寄せたと月華は付け加えた。
「で、ですがこんなにたくさん……いくらになると思っているのです?」
「金額? 大した金額じゃないだろう。それにまだ途中じゃないか」
気がつくと確かに呼び寄せられた商人たちはまだ何人も残っている。
「いいからあなたはただ受け取ってくれればいい」
「でも——」
反論しようとする百合をその場に座らせ、月華も隣に腰を下ろした。
次に進み出たのは菓子屋だった。
そして続いて絵師が続き、多少の疲れを見せ始めた百合の前に最後に進み出たのは草履屋だった。
並べられた数々の草履を前に百合は思い出したように言った。
「そう言えば月華様。以前、文に書いた鼻緒を直してくださった方にはあれからお会いになりましたか? 確かお名前は白檀様、とか」
「……あ、ああ、確かにそんなこともあったな。会ってはいない」
「しばらく京を離れるとおっしゃっていましたがどちらに行かれたのでしょう?」
「さ、さあ……よく、知らないな」
「そうですか……月華様に似た雰囲気をお持ちのすてきな方でしたのでまたお会いしたかったのに」
「百合っ! あいつには2度と近づくな」
急に大きな声で迫って来た月華に、百合は一瞬たじろいだ。
実際に百合が会った白檀は、月華とは親しくはないが会ったことはある、と言っていた。
この月華の剣幕から察するに、犬猿の仲なのだろうか。
百合がそんな懸念を抱いているところへ、邸の主が呆れ声で現れた。
「月華——そんな大声を出すでない。姫が驚くではないか」
九条家当主である時華が現れたことで、月華と百合を除くその場にいた全員が深く首を垂れた。
案の定、月華の声で目を覚ました花織は松島の腕の中で泣き始めた。
声は東対全体に響くほどで、手が付けられなくなった松島の腕から娘を引き受けると百合は慌てて華蘭庵へ引き上げていった。
月華もそれに続こうと立ち上がると、その腕を時華に掴まれる。
「お前には話がある」
「…………?」
「草履屋、今日持参したものはすべて置いていってよい。日を改めて呼ぶゆえ、後日、鼻緒の調整を頼む」
時華にそう命じられた草履屋は10足の草履を置いて去っていった。
「ち、父上、話とは? 俺は百合と花織のところに——」
「女中たちがついているのだからお前がいなくても大丈夫だ。いいからついて参れ」
時華の強引な指示に否応なく従わされ、月華は東対を出て渡殿へ向かった。