第13話 憂鬱な朝
蝉の声が鳴りやまない夏の朝。
ぎらぎらとした太陽が照りつける中、今出川楓は邸を出た。
こんなに憂鬱な朝は何年ぶりのことだろうか。
楓は昨夜のことを思い出し、深いため息をついた。
朝廷へ出仕するために邸から一歩踏み出したものの、口からこぼれるため息を止めることができない。
昨夜、帰り道で転んだ楓は着地の際に体を支えた右手を予定外にも負傷してしまい、中指から腕にかけて激痛を感じながら帰宅した。
関節は曲げることができたため、骨折はしていないようだが若干の腫れと動かした時の痛みは一晩寝ても治らなかった。
仕方なく中指に添え木をしてさらしできつく巻いてみたものの、とても筆を持てるような状況ではない。
ただでさえ人手不足に陥っている中務省にあって、筆も持てない自分が何の役に立つというのだろうか。
だが、だからといって出仕しないわけにはいかない。
今は自分にできることをするしかないのだ、楓はそう自分に言い聞かせるのがやっとだった。
暗い顔で袖から少し見えるさらしを巻いた手を隠すようにしていたところ、邸の前で打ち水をしている庭師が楓の姿を見つけ、声をかけてきた。
「おや、楓様。その右手、どうなさいました?」
楓は咄嗟に袖口へ手先を隠したが、時すでに遅しという状況であった。
「……実は昨日、呑んだ帰り道で転んでしまってな」
楓は苦笑しながら足早に庭師の前を去って御所へと向かったが、こんな姿を西園寺李桜に見られたら何と罵られるのか、想像するだけで気が滅入る思いだった。
朝廷には様々な部署があるが、中でも最も多忙を極めると言われるのは中務省である。
楓がその建物の入り口に到着すると、慌ただしく中へ入っていく同僚の官吏たちは声をかけることもなく履物を脱いで入室していった。
その背中を見送りながら、自らも履物を脱ぎ再びため息をついたところで、楓はひとりの男に声をかけられた。
「楓、その右手はいかがした?」
背中にかけられた声の主に驚き、振り返るとそこには会いたくない相手が立っていた。
「だ、弾正尹様」
袖に隠し切れなかった右手を後ろに隠そうとしたところで距離を詰められ、腕を掴まれた。
引っ張られた手首に痛みを感じて顔を歪めると相手はすぐに掴んだ手を離したが、さらに間合いを詰め楓を追及した。
「楓、答えぬか」
「さ、昨夜、帰り道で転びまして右手を少し負傷しただけで……折れてはおりませんのでご心配なく。そんなことよりこんな朝早くからここで何をなさっているのですか」
楓は解放された右手を撫でながら必死で話題を変えようとしていた。
朝廷には綱紀粛正を図るための弾正台という部署がある。
弾正尹とはその長官を指す役職であった。
弾正台は官吏たちの不正を許すまじとする部署だが、中でも弾正尹は恐ろしいことにすべて官吏の家柄から役職、働きに至るまで記憶しているというのだから、官吏たちは何も後ろめたいところがなくても弾正尹を恐れ、近づくことはなかった。
「私の役目は官吏たちを監察することゆえ、いつでもどこでも目を光らせているのは当たり前のこと」
楓の前に立ちはだかる弾正尹の名は誰にも明かされていない。
容姿と役職以外、誰もそれ以上のことを知らない。
深く追求することでその咎が自分に向くのを恐れているからである。
楓もできれば関わりたくないと常日頃から思っており、容姿以外のことは何も知らなかった。
「それでそのような手で筆を持てるのか? 今は中務省も人不足で頭を悩ませていると聞く。中へ入ったところでできることはほとんどないように見えるが」
「それは……」
弾正尹に核心を突かれ、苦虫を嚙み潰しているところへさらに外から慌てて駆け寄ってくる人影があった。
楓はその姿を見るなり、その場を逃げ出したくなった。
「だ、弾正尹、このようなところで何を……探しましたぞ」
「右大臣様、朝から走ると心の蔵に悪いのではないですか」
「っな——」
弾正尹の姿を見つけて駆け寄ってきた右大臣——九条時華は反論しようとしたが、弾正尹がそれを制した。
「たまたま近くを通りかかったら楓が利き手を負傷している様子を見かけたので、その状態で務まるのか問いただしていたところです、右大臣様」
「たとえ筆が握れなくとも書簡の整理などできることはあるはずですので……」
一刻も早くその場を立ち去ろうと背を向けた楓の左腕を弾正尹が掴んだ。
「待て、楓——右大臣様、この状態のままで楓が務めを果たすのは無理でしょうから、事情を李桜へ伝え、しばらく休ませた方がいいのではないでしょうか」
「いや、それはっ!」
楓が反論する間も与えず、右大臣はふたつ返事で近くにいた官吏を使い中務少輔を呼びに行かせた。
ほどなくして入口まで出てきた少輔が眉根を寄せたのは言うまでもなかった。
なぜか腕を組んで仁王立ちしている弾正尹、右手の中指に添え木をした状態でばつが悪そうにしている同僚の楓、ふたりの間でため息をつく右大臣を前にしたからである。
「で、これはどういう状況なの」
中務少輔——西園寺李桜は訝しげに同僚の楓と向き合った。
楓が状況を説明しようと口を開きかけたところで、その間を与えることもなく弾正尹が李桜の疑問に答える。
「李桜、楓は右手を負傷しているらしいからしばらく休ませてはどうか」
「弾正尹様、何があったか知りませんが今の中務省の状況をご存じですよね? ただでさえ人手が足りないのに、ここで楓にまで離脱されては本当に立ち行かなくなりますよ」
「事情はわかっているが、怪我をした者をこき使ったところで状況が改善されるわけではないだろう。楓抜きでも進められる方法を考える方が賢明ではないのか」
「そんな方法があるのなら最初から取り入れていますよ。だいたいどの部署だって人手不足なのは同じではないですか。それとも、誰か優秀な人材を補填してくださるのですか。楓の代わりともなれば、その辺の官吏では務まりませんが」
李桜は日ごろの鬱憤を一気にぶちまけた。
楓はただ居心地悪そうにしている。
弾正尹も何か方法はないかと考えあぐねていたところで、傍観していた時華が思いついたとばかりに手を叩いた。
「その手が治るまでの短期間ということであればうってつけの人材がおるぞ」
「右大臣様、そんな都合のいい人材なんて一体どこに——」
「明日から出仕させることができるかもしれぬ」
時華は弾正尹に向かって言った。
「弾正尹、正式に官吏にすることはできぬが臨時ということで中務省へ入れてはどうだろうか。そなたが承諾してくれるのであれば、朝廷への出入りを許されるよう私が手配する。身元と能力は保証するゆえ」
「私の仕事は官吏の規律を正すことですが、何も監視してあら捜しをすることを主としているわけではありませぬ。官吏たちの身の安全を守るのも私の仕事。得体の知れない者が朝廷へ出入りすることで他の官吏たちに危険が及ぶようであれば許可できませぬが」
「何かあれば私が責任を負うとしよう。そのくらいの信を置ける者だ」
「右大臣様、一体何者なのですか」
「私の息子だ」
「ご子息? あなたのご子息はすでに陰陽頭として朝廷にいるはずですが」
「いや、私が連れてこようとしているのはもうひとりの方だ」
含み笑いをする時華の様子に李桜と楓は目を丸くして互いを見合った。
李桜は慌てて反論する。
「ですが右大臣様、そのようなこと、勝手に決めてよろしいのですか」
「何か問題があるのか? この朝廷で一体何人の官吏が働いていると思っておるのだ。互いの顔など見知ってはおらぬ。すべての官吏を把握している弾正尹と中務省の者が口裏を合わせておれば、臨時の者がひとりおっても誰も気がつかぬはずだ」
そう言って時華だけがひとり、名案だと何度も頷き満足そうにしていた。
ほどなくして中務省を離れた右大臣と弾正尹はともに肩を並べて歩いた。
ふたりのどちらにも目を付けられたくない官吏たちは、すれ違いざまにあからさまに避けるようにして恭しく頭を下げると離れていった。
「——榛紀様、朝から一体何をされているのですか」
時華は周りに聞こえないように弾正尹に耳打ちした。
「何って、官吏たちを監察しているに決まっているではありませんか、叔父上」
声も潜めず普通に答えた相手に時華は思わず口元を押さえた。
「——しっ! こんなところで帝がうろうろされていると知られたらどうなるとお思いか」
あたりをきょろきょろと見回すが、幸いにも近くには誰もいなかった。
「この姿は叔父上しか知らぬのですから、あなたが余計なことを言わなければ誰も気がつきませぬ」
「…………」
「ところでもうひとりの息子というのは月華のことですよね? 今、京にいるのですか」
「ええ。北条鬼灯殿から褒美の代わりにふた月の休暇を得たとかで、昨晩、戻って来たようです」
「月華の噂をしていたのが現実になりそうですね」
「まったくです。ですが、あれは私の頼みを断ることはできないはずですので、すぐにでも申しつけることとしましょう」
「あははっ。月華も気の毒なことだ。でも楽しみだな……月華とこの朝廷で仕事をともにできるのが」
右大臣と弾正尹はにこやかに肩を並べて去っていった。
一方、嵐が去った後の中務省入口では、何ごとが行ったのか知らない官吏たちが続々と出仕していた。
その中、呆然と立ち尽くしていた楓は自分が脱いだ履物を揃えようと膝をついた。
手を伸ばしたその時、横からすっと差し出された李桜の手が履物をきれいに揃えた。
「李桜……手間をかけてすまぬ」
「で、何があったの?」
「昨晩、夜道で転んでしまって……受け身を取ったつもりだったが恥ずかしながら逆効果だったようだ」
「どうせまた紫苑と呑んだくれてたんでしょ」
「……すまぬ」
俯いて言う楓に李桜は平然と答えた。
「起きてしまったことはどうしようもない。あとはこれからどう挽回するかじゃないの?」
「怒っていないのか」
「そんな無駄なこと、僕はしないよ。怒ったって事態は改善しないんだから。それに右大臣様の話が本当なら、明日から月華が応援に来てくれるって言うじゃないか。渡りに船だね」
「…………」
「でもよかったよ、あんたが頭を打って倒れたりしなくてさ。とりあえず今日のところは無理しないこと」
そう言って楓の肩に手を乗せ立ち上がると、李桜は何ごともなかったかのように室内へ入っていった。
楓にとってその言葉はどんな檄よりも心に刺さった。
呑んだ帰りの不注意で負傷したのだから責められて当然なのに、怪我が軽くて良かったなどと言う李桜の優しさに、楓はぐっと涙を堪えた。