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最終話 星月夜の幻

 深夜——。

 九条邸は落ち着かない夜を過ごしていた。

 消えた白椎はくすい榛紀しんきを捜索していた時華ときはな悠蘭ゆうらん、松島が最後に辿り着いたのは門だった。

 門番の話によれば、消えたふたりは邸の前に停まっていた牛車に乗ってどこかへ向かったと言う。

 誰も行先に心当たりはなかった。

 結局、朝を待って捜索することになった九条家の面々はそれまでの間、それぞれの場所へ散開していった。

 朔月の夜。

 蔀や扉のすべてを開け放った寝殿には瞬く星のわずかな明かりが差し込む。

 寝殿に戻った時華は、どうするべきか決めかねて室内を行ったり来たり落ち着きなく闊歩した。

 残された文には「世話になった」とひと言しか書かれていなかった。

 戻ってくるつもりなら世話になったとは記さないだろう。

 一体どこへ行ったというのだろうか。

 白椎はともかく地理に明るくない榛紀が自らの足で目指す場所などあろうはずがない。

 ここから逃れようとした白椎が榛紀を無理やりに連れ出したのだろうか。

 いやそれはないはずである。

 白椎自身が榛紀の看病を頼み込んできたくらいなのだ。

 では榛紀の方が無理やりについて行ったとすればどうか。

 確かにそれはあり得るかもしれない。

 禁書の『橄欖園遊録かんらんえんゆうろく』を無断で持ち出してまで白椎がみやこを追われた理由を探ろうとしていた榛紀である。

 孤独であるがゆえに再会した兄について行くことは大いにあり得る。

 もしそうなら白椎が向かったところとはどこなのだろう。

 よもやかどわかされた百合ゆりを追ったとは思えないが……。

 まさか六波羅ろくはらにいるという月華つきはなの元へ向かったのか?

 だがその目的がわからない以上、それも断定はできない。

 どう考えても時華には見当もつかなかった。

 高熱にうなされていたはずの榛紀は無事なのだろうか。

 時華は気が気ではなかった。

 本心では大々的な捜索隊を結成して京中に放ちたいところだが、大ごとにしては帝が夜な夜な市中を徘徊していることが知れ渡り、朝廷や皇家への信用も失われる可能性がある。

 秘密裏に動くとしても、当てもなく探すのは無意味であると時華も理解していた。

 結局、捜索するとなれば榛紀の顔を見知った者たちの手を借りるしかなく、そうなれば白椎と榛紀が何者なのか勘ぐっている悠蘭をごまかしきれなくなりそうだった。

 消えたふたりを捜索するにはふたりが何者であるかということを知られてしまう覚悟が必要だし、知られないようにこそこそと捜索するとなれば、彼らを見つけることができる保証はないだろう。

 そんな矛盾した問題に頭を悩ませていると、風もないのに寝殿に飾られている亡き妻の打掛がふわりとなびいた。

 時華がふいに気配を感じ辺りを見回した瞬間、そこにはいるはずのない人物が立っていた。

 その人物は庭の池を眺めるように時華に背を向けている。

 美しく長い黒髪に豪奢な打掛を着た後姿には見覚えがある。

 庭を見つめるその背中に時華が声をかけようとすると、相手は振り返った。

(……蘭子らんこ?)

 失ってから1度たりとも忘れたことはない亡き妻、蘭子の姿がそこにはあった。

 現実であろうはずはないと頭ではわかっていても再び会うことは叶わなかったひとを目の当たりにして正気でいられるはずはなかった。

「蘭子っ」

 藁をも掴む想いで蘭子に手を伸ばそうとしたものの、なぜか金縛りにあったかのように腕を動かすことができない。

 何か強い力に押し込められているようだった。

 蘭子を見ると彼女は物憂げな表情をしている。

 何かを訴えているように時華には見えた。

「蘭子、何か伝えたいことがあるのなら言ってくれ」

 時華は必死に訴えたが彼女は目を伏せるだけで何も言葉を発しなかった。

 蘭子は先帝の妹君だった。

 かつてはどんな絶世の美女も彼女の前では恥じ入るほどの美女でしおらしく宮殿に籠る深窓の姫らしいと朝廷ではもっぱら噂が絶えなかった。

 どんな官吏も会うことは叶わない雲の上のひととも言われていた。

 それがひょんなことから先帝の信頼を得た時華が、清涼殿に出入りするようになったある日、蘭子と出逢った。

 確かに噂通りの美人ではあったが、深窓の姫とはかけ離れた活発な女子だった。

 顔を合わせれば必ず蘭子の方から声をかけてくるほど、明るく人当たりがよかった。

 風雅の君の母であった芙蓉ふよう妃と蘭子が親しかったことは知っていた。

 同じ宮中にいるのだから別段、不思議に思うことはなかったが後にそれは蘭子が抱える悩みゆえのことなのだとわかった。

 活発な蘭子が内裏を抜け出し、九条邸に転がり込んできたのも夜のことだった。

 先帝に頼み込まれて妻として娶ったことは果たして彼女にとって本当に幸せなことだったのだろうかと今でも思い悩むことがある。

 懇願されたとて、彼女のことを想えば宮中へ返すべきだったのではないか、と。

 蘭子が亡くなった日のことは今でも忘れることができない。

 あれは秋の始まり——今夜のような美しい星月夜のことだった。

 自ら命を絶った蘭子が思い悩んでいることに気づくことができなかった。

 冷たくなった蘭子の体を抱きしめた時の感覚は未だに手の中に残っている。

 あの日のことを思い出させるように現れた蘭子の幻は何を訴えようとしているのか。

 時華はたとえ幻だとしても、蘭子の言葉でなぜ今現れたのか、何をしてほしいのかを聞きたかった。

「蘭子、答えてくれ。私はどうすればよかったのか……月華と悠蘭の育て方を間違っていただろうか。そなたと約束したとおり、自由な生き方をさせているつもりだがそなたが望んでいたのはこういう形ではなかったのか」

 蘭子は何も答えなかった。

「なぜ今になって現れたのか……何かひと言でもいいから答えてくれないか。そなたの声が、聞きたい」

 もう2度と叶わないことだとわかっていても望んでしまうのは、それだけ彼女のことを心から愛していたからだと改めて思い知らされる。

 体は動かないのに口だけは動くことを不思議にも思わず、時華はさらに蘭子に想いを伝えようとした時、彼女の口元がわずかに動いた。

 声は聞こえない。

 だが確かに何を訴えているのか、時華にはわかった。


『あの子たちを守って』


 蘭子は確かにそう言っていた。

「守って、とはどういう意味だ!? それにあの子たちとは、子どもたちのことを指しているのか——」

 時華がそう声をかけたところで蘭子の姿はうっすらと消えていった。

 その後、夜とは思えない眩しい光が差し込み、時華は思わずその眩しさに目を閉じた。



「——華様っ」

 誰かが呼ぶ声が聞こえる。

「——時華殿っ」

 聞いたことのある声だ。

 だが蘭子の声ではない。

「時華殿っ、しっかりなされよ!」

 鬼灯きとうの声に導かれるように時華は目を開けた。

 何度か瞬きすると、すぐ目の前に心配そうな表情を浮かべる鬼灯と松島がいた。

「時華様、大丈夫でございますかっ」

「大丈夫、とは?」

「棒立ちのまま目を閉じられていて、何度声をおかけしてもお返事がなかったので心配いたしました」

 松島は額の汗を拭う素振りを見せながら言った。

 先刻さっきまで、蘭子の幻を見ていたはずだが、どうやらほんのひととき、意識が別の場所へ行っていたらしい。

「……蘭子?」

 すぐに辺りを見回したがやはり蘭子の姿はなかった。

 幻となって姿を見せてまで訴えたかった彼女の想いは何なのだろう。

 あの子たちとは誰のことなのか。

 最後まで時華には蘭子の意図するところがわからなかった。

 時華は頭を軽く振り、額を押さえながらも現実に戻らなければならなかった。

 たとえ心の整理がついていなかったとしても。

「——鬼灯殿、こんな夜分にどうしたのだ」

「それが、こともあろうか我が邸に帝と風雅の君が現れたゆえ、伏せっておられる帝をお送りしにきたのです。風雅の君が九条邸ここから飛び出して来たのだとおっしゃったものですから」

 急に現実を取り戻した時華は、帝と風雅の君が邸から忽然と消えどのように捜索しようか悩んでいたことを思い出した。

「何だと!? して、榛紀様は今どうされておるというのか」

「時華様、ご安心ください。北条様より丁重にお預かりして、今は再び東対ひがしのたいでお休みでございます」

 時華は松島の返答に胸を撫で下ろした。

「……そうか。ん? 戻られたのは榛紀様だけか? 白椎様はどうされたのだ」

「風雅の君は月華たちとともに百合殿を追いました」

「百合殿を追った? 攫った相手は備中国びっちゅうのくにの武士だと聞いたが、武器もなく武術を使えるわけでもない白椎様がなにゆえ——」

「百合殿が持つ異能を消す方法をご存じだとか」

「異能を、消す? そんなことができるのか」

「そのようです。月華が最近、ずっと彼女の異能を消す方法を探っていたことはご存じでしたか」

「ああ。そんな悩みを吐露していた夜があった。禁書を何冊も読み漁っていたようだったが……その方法、風雅の君が知っていると言われたのか」

「ですが、月華がいくら詰め寄っても決して方法を口になさいませんでした。月華にはできないことだから、と。それで自ら月華とともに行くことを望まれまして」

「…………」

 時華はますます白椎が考えていることがわからなくなっていた。

 世話になったと文を残したのは榛紀ではなく白椎だろう。

 九条邸ここへ戻ってくるつもりもなく、自ら危険を伴うようなところへ飛び込んでいく白椎に、時華は違和感を覚えた。

 ふと幻の蘭子が放った言葉が脳裏をよぎる。


『あの子たちを守って』


 蘭子は生前、親しくしていた芙蓉の子である白椎のことも何かと気にかけていた。

 そのことを打ち明けた白椎は嘘だと否定したが、それは紛れもない真実である。

(蘭子の言うあの子たちとは私たちの子だけを指しているとも思えぬ……)

 危険に身を投じているという白椎や、再び寝込んだ榛紀のことも指しているのではないか、時華にはそう思えてきた。

「時華殿、ここへ来て早々ですが私はこれで失礼します」

「鬼灯殿、もう行かれるのか」

「ええ。私も月華たちを追いますので」

「……これからか?」

「月華は雪柊せっしゅうとともに先刻さっき、六波羅を発ちました。私の愚弟が先に百合殿を追いかけたゆえ、どこかで連れ戻せるとは思っておりますが何しろ相手はあの備中国ですので」

 備中国——それは月華が以前、探りを入れていたという西国のひとつ。

 一体何が目的で百合の異能を必要としているのか。

 突然現れた蘭子の幻といい、意図の見えない白椎の動きといい、時華は不穏な空気を感じずにはいられなかった。

「鬼灯殿——」

「時華殿、何もおっしゃらずともわかっております」

「…………」

花織かおる姫の嫁入り先をお世話する約束を忘れてはおりませぬ。姫が嫁ぐ時、父も母もいないとはあまりに不憫ではありませぬか。必ずふたりのことは私の命に代えても守りますゆえ、心配なさいますな。まあついでに風雅の君の面倒も見ておきましょう」

 薄笑いを浮かべながら鬼灯は颯爽と寝殿を出て行った。

 見送りに追いかける松島と遠ざかる鬼灯の背中を見つめながら、時華は嫌な予感を拭いきれなかった。



 鬼灯が松島の見送りを断って門まで辿り着くと、そこには悠蘭が待ち構えていた。

 馬を2頭引き連れている。

 鬼灯は眉根を寄せて悠蘭に声をかけた。

「悠蘭、そこで何をしている」

「鬼灯様をお待ちしておりました」

「…………」

「申し訳ありません。一度は自分の邸に戻ったのですが、やはり落ち着かなかったものですからこちらの本邸へ戻ってきたところで鬼灯様が弾正尹だんじょういん様を抱えていらしたのを見かけてしまったのです」

「……それで?」

「俺も連れて行ってください。義姉上あねうえの元へ行かれるのですよね?」

 悠蘭が馬を2頭引いて来たのは自分も鬼灯に同行するつもりだったからである。

 信頼して百合を任せると言ってくれていたのに、何の役にも立たなかったことを悠蘭はまだ悔やんでいるのだった。

「お前はあの隻眼の武士にも敵わなかったのではなかったのか」

「足手まといになるかもしれないことはわかっています。でも、やっぱりじっとしているなんてできません」

「百合殿を目の前で連れ去られ責任を感じているのだろうが、これは月華のするべきことだ。お前に何かあれば菊夏きっかはどうなるのだ?」

「それは…………」

「百合殿の元へは月華と雪柊が向かった。私もこれから彼らを追う。だからお前は来なくてもよい。その代わり——」

 鬼灯は悠蘭が用意した馬の手綱を受け取ると、誰にも聞こえないように耳打ちした。

「お前は紫苑しおんたちと協力して朝廷の守りを固めよ」

「……どういう意味、ですか」

「備中の動きはどうも解せない。万が一その備中の魔の手が帝へ伸びないとも限らぬ。大事にならぬように用心せよ」

 優雅に馬に跨ると、鬼灯は馬上から悠蘭を見下ろした。

 納得していない表情をしているものの、帝に危険が迫るかもしれないことは理解したようである。

 複雑な表情で見上げる悠蘭の頭をなでると鬼灯は言った。

「お前も月華と同様、私の大事な息子も同然。だから頼んでいるのだ。他の者には任せられぬ」

「……はい」

「では頼んだぞ、悠蘭」

 巨大な門が開かれ、鬼灯は全力で馬を走らせていった。

 悠蘭が門の外まで駆け出した時にはすでにその姿が見えなくなっていた。

 見上げると月のない星空が広がっている。

 悠蘭にはなぜかその夜空が不気味に見えてならなかった。

長かった『星月夜の幻』もとうとう最終話となりました。

ここまで購読してくださったみなさま、心より感謝申し上げます。

2.5幕にするつもりが、しっかり第3幕の量になってしまいました。

少しずつ世界が広がり、また登場人物も一気に増えたことで、80話程度に収まるつもりがとんでもなく長くなりました。

舞台はついに備中国へ移ります。

いくつもばら撒かれて、回収されなかった伏線を回収する最終幕が完成しましたら、投稿を再開いたします。

途中、番外編を投稿するかもしれません。

その際は活動報告しますので、また覗きにきていただければ幸いです。

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