第103話 夢と現実と
月華は紅蓮の曼殊沙華が咲き誇る花畑で呆然としていた。
季節は葉月の上旬。
曼殊沙華が咲き誇るには早すぎる。
だが一面にはどこまでも紅蓮の華が続いていた。
空は青く、空気も澄んでいる。
遠くには川も流れているようである。
辺りを見渡しながら月華は首を傾げた。
なぜこんなところにいるのだろう。
先刻までいたのは一体どこだっただろうか。
見当もつかないまま、月華は導かれるように遠くの川の方へ足を向けた。
歩き始めると、彼はこの不自然な空間に疑問を抱き始めた。
誰もいない——。
人どころか花畑なのに蝶の1羽も飛んでいない。
それどころか風すらない。
まるで現実世界ではないような紅い花畑を進みながら、川のほとりまで行くと向こう岸に誰かが立っているのが目に入った。
川幅は広く、流れは緩やで透き通っている。
表面は銀色に煌めき、水は流れているように見えるのに音はしなかった。
不気味なことこの上ない。
川岸ぎりぎりまで近づくと、向こう岸に立っている人物の顔がはっきりとわかった。
「あいつ……」
そこに立っていたのはかつて敵対した相手——土御門皐英だった。
すでに他界した男がなぜ川を挟んだ向こうに立っているのか。
そう思った時、ふと前にも同じようなことがあったことを思い出した。
百合によって業を解き放たれた皐英が川の向こうへ行く夢を見たことがある。
これは夢の中なのか。
月華がそう考えていると、皐英の声がふいに聞こえた。
風もなく川の流れる音もしない無音の空間によく響いた。
「九条月華、私はお前に警告したはずだ」
皐英の青白い顔は、大量に出血して命を落とした時のままだった。
だがしっかりとこちらを見据えている。
「警告?」
「そうだ。私はお前との別れ際に『百合殿と悠蘭のことを大事にせよ』と言ったはずだ。あの時、お前が何と答えたか、よもや忘れたわけではあるまいな」
「当り前だ。『お前に言われなくともそうする』と言ったはずだ。それは今も変わらない」
「嘘をつくな」
「嘘?」
「百合殿は今、どうしている?」
「どうって俺の妻として、九条家の嫁として、花織の母としてよくやってくれている」
「本当にそうだと言えるのか」
「土御門、お前は何を言いたい!?」
「よく考えてみることだ。お前は本当の意味で彼女の悩みを理解しているのかを」
「…………」
「彼女は心に深い闇を抱えている。それは異能を持った者にしかわからない闇だ」
皐英の言葉は過去にも同じこの曼殊沙華の庭で聞いたことがある。
——お前に彼女を闇から救える手立てがあるというのか。
そう問われて、わからないが生涯をかけて百合を守り抜くと誓った。
……そうだ。
異能を持っていることが百合を苦しめているのは間違いない。
いつまでも異能を求める悪意に利用され、その力を使えば使うほど自らの命を削っていくことになる。
百合がどこまで真実を知っているのかはわからないが、体が蝕まれていることには気づいているはずなのに、いつも気丈にしてそれを打ち明けてくれることはなかった。
常闇の術と呼ばれるあの忌まわしい異能がある限り、百合はいつまでも救われない。
だからこそ、あの異能を消す方法を探していた。
「土御門、教えてくれ」
「…………」
「お前は百合の——あの異能を消す方法を知っているのか」
「…………」
皐英は答えなかった。
それどころか踵を返して川向こうの奥へ足を向けている。
月華は川に入ろうと足を踏み出したが、なぜが前に進むことができなかった。
何度試しても川に入るどころか自分の意思とは関係なく足を戻されてしまう。
「おい待て、土御門」
月華の問いかけに皐英は1度振り返った。
「頼む! 俺の質問に答えてくれないか。百合を幸せにするにはあの異能を消すしか方法がない。だがその方法はまだ見つかっていない。可能性があるものは何でも試したいと思っている。だから——」
すると皐英はひと言、
「『常闇日記』の原本を持っている方なら知っているかもしれぬ」
そう言って去っていった。
追うことも叶わないまま、皐英の姿は見えなくなった。
月華は絶句し、しばらく動くことができなかった。
確かに以前、悠蘭が土御門皐英は禁書のすべてに目を通したらしいと言っていたことを思い出す。
ということは禁書の棚にあった、途中で記述が終わっている『常闇日記』を読んだということになる。
皐英が言うことが正しいとすれば、やはり朝廷の書庫にあるあれは本物ではないということだろうか。
事情を知っているとすればそれは——。
「——待てっ」
月華はそう叫んだ。
目を開くとそこには青空もなければ紅い花畑もない。
何度も瞬きをしているうちにようやくこれまで見ていた世界が夢で、現実に戻ってきたのだと理解した。
「月華っ、大丈夫か」
月華が目を見開くとそこには榛紀の顔があった。
やはり先刻のは夢か。
すでに亡くなった人物と会話するなど、冷静に考えれば夢以外にあり得ないとわかるはずなのにそう認識できないほどに追い詰められていたのかもしれない。
打開策を提示してくれるのなら、亡き人物だろうと誰だろうと藁にも縋る思いだった。
「榛……」
急に現実に引き戻された月華は少しずつ状況を理解し始めた。
星祭りで百合が連れ去られそうになり、それを追いかけたところまでは覚えている。
その後、棗芽に——。
そこまで思い出したところで、榛紀の後ろに今1番求める相手を見つけて月華は勢いよく起き上がった。
目の前の榛紀を押しのけるようにしてその人物の胸倉を掴む。
「教えろっ、白檀」
榛紀の後ろにいた人物——白檀を押し倒す勢いの月華を榛紀は縋りながら引き留めた。
「月華、何をしているっ」
袖を引っ張られ振り向くと、榛紀が赤い顔をしながら必死で白檀から引き離そうとしていた。
「放せ、榛」
「落ち着かぬか、月華っ」
月華は榛紀を乱暴に振りほどくとさらに踏み込んで白檀に迫った。
「答えろ、白檀。お前は百合の異能を消す方法を知っているのか!?」
「月華——」
白檀が答えようとするとそこへ山吹が割って入った。
月華の手を振りほどくと、肩を強く押し返す。
傾いた月華の体は掴んでいた白檀の襟から手が離れ、呆気なく後ろへ倒れると尻もちをついた。
「乱暴なやつだな」
「お前はっ!」
山吹の顔を見るなり、月華はそれまで抑えていた怒りを爆発させた。
そもそも山吹が百合を連れ去るようなことをしなければこんなことにはならなかった。
兄と慕う棗芽がこの男の肩を持ったことも気に入らない。
自分が無力だったために百合を攫われてしまった。
百合の異能を消すためだったのに、星祭りに百合を連れて行った自分を許せない。
あらゆる負の感情が月華の中に渦巻いた。
そのすべてを山吹にぶつけようとしたところで、
「そこまで」
と決して逆らうことができない厳しい声音が書院の中に響いた。
それはこれまで静観していた六波羅の主——鬼灯の声だった。
我に返った月華が声の主を振り返ると、すぐそばでは具合の悪そうな榛紀を支える雪柊も心配そうに月華を見ていた。
「月華、百合殿を守りきれなかった後悔を他の者にぶつけても何も解決せぬ」
月華の前に歩み寄って来た鬼灯は、乱れた彼の着物を直すとそう言った。
「鬼灯様……」
「お前の焦りもわからぬではないが、慌てたところで百合殿が戻ってくるわけではない。まずは事態を整理してどうするか方針を決めねばな」
鬼灯のひと言で事態は収拾され、彼らは話し合いの席に着くことになった。
再び発熱した榛紀は白檀の膝を枕にしてその場に横たわっていた。
高熱でうなされ、ほとんど意識もないような状態だったが本人の意思でこの場に残りたいと言ったためだった。
これまでの事情を軽く説明された月華は、勢いに任せて体調不良の榛紀の手を振り払ってしまったことを強く後悔した。
「榛……」
赤い顔をして肩で息をする榛紀を見ながらそう月華が呟くと、白檀は月華を見ながら不思議そうに言った。
「月華はなぜこの子のことを榛と呼ぶのですか」
「なぜって、本人がそう名乗ったからだ」
「そうなのですか? でもこの子の本当の名は——」
「知っている」
「…………?」
「『榛紀』だろう?」
「知っていたのですか。それなら——」
「わかっている。お前たちが兄弟であることも、俺と血が繋がっていることも全部」
月華がそう言うと、白檀だけでなくその場にいる全員が目を見張った。
雪柊は朝廷勤めしていた頃から彼らの関係を知っていたが、そのことを口外することはほとんどなかった。
鬼灯と話題になった時くらいのものだろう。
鬼灯は月華の父である時華から打ち明けられて知っていたが、月華にその話をすることはなかったし、高貴な血筋だとわかってもこれまでの態度を変えることはしなかった。
山吹は白檀と月華の血が繋がっていることは知っていたが、白檀は先帝の御子であり、月華は先帝の妹の子であるから血が繋がっているとは言っても白檀の方がより直系なのだと思っていて、何となく月華の血筋を認めたくなかったのだった。
「だが互いに知らない方が都合がいいこともある。だから、榛には俺がすべて知っていることを言うな」
月華が白檀にそう釘を刺すと、彼は含み笑いをしながら頷いた。
「——そうですね。どうかこれからも榛紀の支えになってあげてください」
「……支え?」
「そうです。今後も関係を持とうと思っていなければ、知らない方が都合がいいだなんて思わないでしょう? あなたが榛紀を想ってくれていることはよくわかりました。ありがとう、月華」
白檀が頭を下げるのを見た月華は、言葉を失ってしまった。
これまで人を困らせたり、貶めたりするような性格の悪い人物だと思っていたからである。
できれば関わりたくないとも思っていたし、何より李桜に毒を盛られた時には本当に斬るつもりでいた。
それが今こうして同じ目的に向かって刻を共有しているだけでも信じがたいのに、頼られていると思うと何とも居心地が悪かった。