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第100話 罪の深さは

 これからはいつでも会える——。

 そう伝えた時の榛紀しんきの顔は水を得た魚のように生き生きとしていた。

 それを見た白檀びゃくだんは罪深いことをしてしまったような罪悪感を覚えた。

 これまで文の1通も寄越してこない弟には必要とされていないのだと思い込んでいた。

 まさかすべての文が何者かによって握りつぶされていたとは想像すらしなかった。

 先帝も身罷り、必然的に帝の地位に就いた榛紀の孤独はいかほどのものだったろうか。

 本人の語る言葉以上に辛いときを過ごしてきたに違いない。

 対して自分はどうか。

 父に見放され、宮中を追われ備中国びっちゅうのくにに軟禁状態だったものの、山吹やまぶき紅葉くれはの監視があれば自由に旅をすることができたし、何よりいつでも彼らがそばにいてくれた。

 備中へ渡ったばかりの幼い頃は皐英こうえいもいて、みな友のように育った。

 榛紀に比べれば何と幸せだったことだろう。

 権力を手に入れたがために孤独になった榛紀。

 宮中を追われたからこそ心許せるものを手に入れた白椎はくすい

 同じ帝の子として生まれてもこんなにも道が異なってしまった。

 すべての厄介ごとを弟に押しつけることになってしまったことに白檀は自らの罪深さを感じていたのだった。

「榛紀、最近も倒れたと聞きましたが、まさか病を抱えているのですか」

「い、いいえ。病などではありません。ただ少し働きすぎとでも言いますか……」

「帝としての責務があるのはわかりますが、朝廷は今、そんなに荒れているのですか」

「そうではありません。朝廷は優秀な官吏たちと右大臣の手腕によって平静を保っています。ただ、私がその……個人的な理由で官吏をしているので」

「官吏?」

「……恥ずかしながら、誰かと関りを持ちたくて弾正尹だんじょういんとして官吏の仕事をしているのです。昼間は官吏たちの様子を窺い、夜は帝としての仕事をしています」

「…………?」

「帝として顔をさらしていないので、右大臣である叔父上以外は誰も弾正尹の正体がわたしだと言うことを知りません。叔父上には何度も弾正尹の職を辞するように言われたのですが、これを辞すると、誰とも顔を合わせることがない生活になってしまうから嫌だったのです。みな帝には首を垂れるだけで、目を合わせて話をする者はほとんどおりません。それが一層、孤独を感じさせるものですから」

「呆れた。昼も夜も働くなど、正気の沙汰とは思えませんね。一体いつ休んでいるのですか」

「時々昼夜構わず休んでいますよ」

 榛紀が何でもないことのように言う様子を見て白檀は深くため息をついた。

 ふたつの顔を持ち、どちらも卒なくこなすのは簡単なことではない。

 体だけでなく心にも大きく負担をかける。

 何度も倒れる理由はこれか、と白檀は納得した。

 だが彼は弟を責めることはできない。

 榛紀が別の顔を持とうとするのは、孤独から逃れるための手段だったのだと理解できるからである。

 無謀だということは本人が1番よくわかっていることだろう。

 無理をしながらでも何とか打開しようとする弟を愛しく思った白檀は榛紀の頭を昔のように優しく撫でた。

「あまり無理はしないでください」

「わかっています。それより兄上、私たちはなぜ九条邸ここにいるのでしょうか」

「それは——」

 白檀が答えようとしたところで遠くから人の話し声が聞こえてきた。

 声は少しずつ近づいてくるようである。

「兄上——」

 近づく声に気づいていない榛紀の口元を押さえると、白檀は声を潜めた。

「榛紀、よく聞きなさい。今、私は白椎でもなく風雅の君でもなく、茶人の白檀と名乗っています。あなたが帝であることは九条家当主以外知らないのですね?」

 急に引き締まった表情になった兄にただごとではないものを感じた榛紀は口元を押さえられたまま、何度も頷いた。

「では私たちはただ久我紫苑くがしおんにここへ連れてこられただけ、ということにしておきましょう。どこに目や耳があるかわかりませんから、私たちが兄弟であるということは伏せておく方がよい。少し様子を見てきますからあなたはそこで横になっていなさい」

 白檀は御帳台みちょうだいから出た。

 近づいてくるのは誰なのか。

 それは自分たちの事情を知っている者なのか。

 それがわかるまでは迂闊に素性を明かすことはできない、白檀はそう考えたのだった。



 松島に菊夏きっかを邸宅まで送らせると、悠蘭ゆうらんは回廊を歩き始めた。

 松島の話によれば、少し前に紫苑によって邸に連れられてきた弾正尹と白檀なる人物は東対ひがしのたいにいるという。

 彼らを九条邸へ運ぶように指示したのは月華つきはなだというが、悠蘭にはその理由が全くわからなかった。

 弾正尹は何者なのだろう。

 弾正台だんじょうだいの長官として官吏をしていること、名をしんと名乗ったらしいということ以外、悠蘭は何も知らない。

 月華とどれほど親しいのかもわからないし、なぜあの雨の日、父が彼を邸へ連れて来たのかもわからない。

 ただ、朝廷の官吏として働く以上、睨まれて糾弾されることのないようなるべく関わらない方がいいとこれまで思ってきたことは確かだった。

 一方、茶人の白檀とは会ったこともなければ顔も知らない。

 李桜りおうの友人として彼に毒を盛ったことは許せない思いがあるものの、会ったこともなく人となりがわからない相手に対してそれ以上の感情は持ち合わせていなかった。

 さすがに夜とあって邸の中は静まり返っている。

 回廊を歩いていると行く先からこちらに向かってくる人影が見えた。

 それが父だとわかり、悠蘭は駆け寄った。

「父上っ」

「……悠蘭か。お前も市中の催しとやらに行っておったのか」

「ご存じなのですか?」

「だいたいな。して月華はどうした? 百合ゆり殿が連れ去られ、後を追ったと聞いたが」

「そ、そうなのですが——父上、ずいぶんと事情にお詳しいですね。誰からお聞きになったのですか」

「そんなことはどうでもよい。百合殿は? 彼女は無事なのか」

「それが……父上、大変なことになりました」

 悠蘭は俯いて二の句を継げずにいた。

 もとはと言えば、最初に山吹に連れ去られるのを阻止できていればこんなことにはならなかった、と悠蘭はずっと自分を責めているのだ。

「大変なこととは何だ」

 負傷した肩を時華ときはなに強く掴まれ悠蘭は顔を歪めた。

 その様子に驚いた時華はすぐに手を離す。

「お前、負傷しておるのか」

「いえ、傷はありません。ただ古傷に打ち込まれただけで……」

「悠蘭。私は責めているわけではない。お前たちの力になりたいだけだ。だから何があったのか詳しく話してみよ」

「実は最初に義姉上あねうえを連れ去った者がいてそれを兄上が追っていたようなのですが、先刻さっき、兄上は気を失った状態で六波羅ろくはらに運ばれてきました」

「月華が? 無事なのかっ!?」

「はい、怪我はされていないようです。ですが兄上を運んでこられた雪柊せっしゅう様の話によれば、備中国から来た別の武士に義姉上が連れ去られてしまったようなのです」

「備中国だと……? なぜ彼女が備中国の者に攫われるのだ」

「それは……」

 悠蘭が口ごもっていると怪訝な表情を見せた時華は言った。

「それは、百合殿が持つ異能に関係しているのか?」



 白檀は誰にも見つからないように身を潜めながら邸の門前まで辿り着いた。

 この門を潜れば外へ出ることができる。

 隠れるには都合がいい朔月の夜——東対から何とかここまで誰にも見つからずに辿り着いたのは奇跡だった。

 邸の外へ出ようと白檀が門に手をかけたところで、後ろから強く袖を掴まれた。

 見つかるはずはない。

 見つからないように、人目につかないように抜け出してきたはずだ。

 鼓動が早鐘を打つのを押さえ、白檀は恐る恐る振り向いた。

 するとそこには肩で息をする榛紀の姿があった。

 白檀が思わず声を上げそうになるほど驚いたことは言うまでもない。

 具合が悪くて寝込んでいたはずの弟である。

 夏の夜とはいえ、薄着でうろうろできる体力があるとは思えなかった。

「榛紀っ! ここで何をしているっ。あなたは寝ていないとだめでしょうが」

 周りに聞こえないように榛紀の耳元で叱る白檀だったが、当の榛紀は嬉しそうにしていた。

「何ですか。高熱で頭がおかしくなったのですか」

「嬉しいのです、こうして兄上と一緒にいられることが」

「……は? あなたは熱に浮かされているだけです。いい子だから戻りなさい。戻って九条家の手厚い看護を受けるべきです」

「いいえ、やっと会えたのですから放しませんよ、兄上。一体どこへ行こうというのですか」

 榛紀は白檀を困らせていた。

 御帳台を出た白檀は偶然、回廊で立ち話をする九条家親子の会話を耳にした。

 百合を連れ去ろうとしているという山吹を止めるよう、月華を向かわせたのは他でもない、白檀だった。

 加えてそれだけではこと足りないかもしれないと考えた彼は、面倒くさがった棗芽なつめをも説得して百合の元へ向かわせたのである。

 それが悠蘭の話によれば別の武士の手によって備中国へ連れ去られたという。

 連れ去ったのが山吹ではないとしたら、白檀には考えられる心当たりがひとりいる。

 妹尾敦盛せのおあつもり

 三公の手足となって動くとすれば彼しかいないだろう。

 悠蘭の話からは山吹や棗芽の動向はわからなかった。

 ただわかったのは事実として月華は百合を連れ戻すことができなかったということだけだ。

 それを聞いた時、白檀の体は勝手に動いていた。

 異能を消さない限り百合はこれからもずっと同じ辛い思いをしなければならない。

 その方法を知っているのは白檀だけなのだ。

 何とかして彼らの力になりたい。

 亡くなった友である皐英を丁重に祀ってくれた彼らへの礼でもあり、榛紀を孤独の淵からわずかに救い出してくれた月華への礼でもある。

 最後にこの命を彼らのために役立てたい。

 そんな想いだけが白檀を動かしていた。

 しかしそこに榛紀がついて来たことは誤算だった。

 よくも見つからずに後ろをついて来たものだ。

 もう、子どもの頃の彼ではないのかもしれない。

 彼は兄の後ろをただついて来たのではなく、自らの意思で追って来たのである。

 追い返しても追って来るのは目に見えていた。

「体は本当に大丈夫なのですか」

「兄上と一緒なら、問題ありません」

「はぁ……では一緒に行きますか」

「どこへですか」

「まずは六波羅——月華の元へ行きましょう、私と一緒に」

 白檀が手を差し伸べると、榛紀はこの上なく嬉しそうにその手を取った。

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