第1話 闇夜のはじまり
蝉の声が聞こえるある夏の日。
幼い兄弟は清涼殿の一室で文机を向かい合わせていた。
兄は一見、病弱そうにも見える色白の少年で大人たちからは数々の称賛を得るほど聡明だった。
弟は兄とは反対に活発な性格で周りの大人たちを困らせるようなやんちゃな一面を持っていた。
まるで監視されているかのような大人たちの視線に囲まれながら、夏の暑さで集中力を欠いた弟は両足を投げ出して読書を中断した。
「あぁ~、私にはもう無理です兄上。こんなに暑くては何も手に付きません」
「まだ夏はこれからが本番なのに、先が思いやられますね。しっかりなさい」
「兄上は暑くないのですかぁ」
弟——榛紀の嘆きに兄は微笑を返すだけだった。
榛紀は向かいにいる兄の方へ移動し、すり寄った。
「兄上、先刻から何をされているのですか」
兄の方は1冊の書物を開いている。
筆を走らせていることはわかったが、一体何を書いているのだろう。
「これは、写しているのですよ」
兄は筆を止めることなく答えた。
原本の方は開かれているため、書名が見えない。
榛紀は不思議そうに言った。
「何を写しているのですか。写経……ではないですよね」
「はははっ。これは秘密の書ですから榛紀にも教えることはできないのですよ」
兄は弟に顔を寄せるとその頭を撫でながら耳打ちした。
周りの大人たちには聞かれたくないらしい。
「これは禁書といって書庫から持ち出したり、広く万人に見せてはならないと決められている書なのです」
「ではこれは持ち出し禁止の書ということですか?」
「ええ、内緒ですよ。書庫には禁書の棚があって、これ以外にも禁書は何冊もあるのです」
「で、でもそんな秘密の書を兄上はどうして写されているのですか?」
「必要だからですよ、榛紀」
兄は、話はこれで終わりとばかりにそばにあった1冊の書を弟に手渡した。
受け取った榛紀はぱらぱらとめくってみる。
何だか難しそうな書だった。
「これは?」
「これは古い歴史書です。先人に学ぶべきことはたくさんありますからね。あなたはこれからまだまだたくさんのことを学ばなければなりません」
榛紀は最初の頁に目を通してみる。
文字がいっぱいに詰められており、見ているだけでもめまいがしそうだった。
榛紀にとって兄は憧れの存在であった。
あらゆる知識を身に着ける聡明さに加え、誰からも慕われる性格の良さ、加えてどこか儚さを秘めたような美しさを兼ね備えている自慢の兄である。
時々そんな兄を妬んでいるかのような悪い噂を耳にすることがあっても榛紀は気にしていなかった。
「兄上は書庫の書物をすべてお読みになったと聞いたことがあるのですがそれは本当ですか」
「ええ。本当ですよ、榛紀」
「では……その禁書の棚も?」
榛紀が声を潜めて言うと、兄は黙って頷いた。
「うわぁ。さすがは兄上ですね。官吏たちでさえすべてに目を通した者は少ないと聞きました。やはり難しい書物が多いのですか」
「そうですね。今の榛紀には難しいかもしれませんがすぐに読めるようになります」
「そうでしょうか。私は兄上のように優秀ではありませんので……」
「そんなことはありません。将来、この国を導いていくのはあなたです。だからこれから学んでいけばよい。必ず実る日がきますから努力を怠ってはいけませんよ、榛紀」
兄は弟の頭を撫でた。
誰がどう見ても兄が弟を大事にしていることは明白だった。
「そんな……白椎兄上がいらっしゃるのに私は——」
夏の夜。
強風が障子を揺らす音で白檀は目を覚ました。
うとうとしていた自覚はあったが、どうやらうたた寝をしていたらしい。
文机の上には薄暗い行燈の明かりに照らされた1冊の書物が開かれたままになっている。
それはまだ京にいた頃、自らが写した書の原本だった。
写しの方は朝廷の書庫に保管されている。
誰の目にも留まることはないだろうこの書は自分だけのものにしたくて原本を手元に置いておくために写し、それを書庫の原本とすり替えた。
そのことは誰にも話していない。
しばらくこれを開くこともなかったが、虫の報せとでも言うべきか……何となく開かなければならないような気にさせられたのだった。
『常闇の術。
それはこの世の理を無視した禁忌の術である。
常世の国と現世を行き来することができる人ならざる力。
血で受け継がれることはなく、人から人へと受け継いでいく忌むべき術。
わたしはこの力を受け継いだことを後悔していない。
だが、できれば後世に受け継ぎたくはない。
なぜなら——』
そんな書き出しで始まるこの書を白檀はそっと閉じた。
中身は暗記してしまうほどに何度も読んだ。
続きには何が書かれているか、読まなくてもわかっている。
彼は大事に行李へしまった。
天板を外し誰にも見つからないように天井裏へ隠す。
白檀が障子を少し開けると室内に吹き込む強い風が行燈の中のろうそくを吹き消した。
まるでこれから起こることを暗示しているような分厚い雲が空を覆い、月や星すらも見えないありさまだった。
(まるで闇の中にいるような不吉な空ですね……)
心の中で呟いた白檀は静かに障子を閉めた。
行燈が消え、暗くなった室内にゆっくりと腰を下ろす。
なぜか胸騒ぎがした。
京を追い出され、備中国に身を置くようになってからどのくらいの刻が過ぎただろうか。
父であった先帝が身罷り、弟が帝位を継いだことは知っているが、可愛がっていた弟とは京を出て以来、会ってはいない。
こちらから出した文に返事もなければ、向こうから文が来ることもない。
まるで自分の存在は誰にも必要とされていないようだ。
自分を必要としているのは利用価値があると考える備中国の老人たちだけなのだろうか。
すべてを失った自分とは対照的にすべてを手に入れた弟を疎ましく思ったこともあったが、今は少し違う感情が芽生えている。
ふた月ほど前に京で雪柊に再会したことが心境の変化を生むきっかけになったのかもしれない。
——おいたが過ぎると痛い目に合いますよ。
雪柊に叱られたことを思い出し、白檀はほくそ笑んだ。
何だか懐かしくもあり、嬉しくもあった。
そんなことを思い返していると、襖の外から声が聞こえた。
「風雅の君、ご在室ですか」
白檀が返事をするとゆっくりと開かれた襖からひとりの男が室内へ入り腰を下ろした。
男は妹尾敦盛といって白檀が身を寄せている武家の嫡子であった。
年は白檀よりも少し年上で、礼儀正しい男だった。
切れ長の目はどこか亡くなった土御門皐英を思い出させる。
「明かりを消してどうなさったのですか」
敦盛は消えた行燈に再び明かりを灯した。
ぼんやりと浮かび上がった表情はあまり明るくない。
「先ほど障子を少し開けたら風が吹き込んできて消えてしまったのですよ」
「ああ、今夜は風が強いですからね。障子はお開けにならない方がよいでしょう。あとで誰かに雨戸を閉めるよう伝えておきます」
「雨になると思いますか」
「雨どころか、嵐が来るのではないですか? 用心するに越したことはありません」
敦盛は愚問だとでも言いたげだった。
「ところで敦盛。私に用事があるのでは?」
「ああ、そうでした」
敦盛は白檀に促され、懐から1通の文を取り出した。
文は敦盛の父——妹尾菱盛宛となっている。
「あなたの父上宛のようですが、その文がどうかしたのですか」
「実は風雅の君にお会いしたいという内容の文なのです」
「…………?」
「正確に言うと茶人の白檀殿宛なのですよ」
「ほう……白檀なる茶人が備中にいることを知っている相手、ということですか」
「はい。聞きしに名高い茶人の白檀殿が茶会を催す際はぜひ参加したい、と書かれてありましてね。父がおもしろいから茶会を催すよう頼んで来いと……」
「なるほど。あなたは菱盛に命じられてここへ来たわけですか」
「父は野点で構わないと申しておりますので、何とかお付き合いいただけませんか」
「野点を催すような季節ではありませんが……まあいいでしょう。それで、そんなおかしなことを言ってくる相手というのは一体誰なのですか」
白檀は腕を組みながら訝しげに言った。
白檀という茶人は白椎皇子の隠れ蓑であるがゆえに、その存在を喧伝してはいない。
ふた月ほど前に京で起こった毒殺事件の折も、結局、白檀の存在が記録に残らなかったから追手が来なかったのだろうと彼は理解している。
かつて風雅の君と呼ばれた白椎皇子が京を追放され、備中国へ逃れたことを知っている上に、白檀という茶人と同一人物であることを知っている人物はほとんどいない。
だとすれば、一体何者なのだろうか。
「署名は鷹司杏弥となっております。鷹司と言えば、公家の中でも屈指の名門で摂家5家のうちのひとつですよね? 風雅の君はこの人物とお知合いですか」
「——いいえ、知りませんね」
白檀はさらに首をひねった。
公家の中には厳しい階級があり、貴族と言えど生まれた家によって就ける官位も決まっている。
中でも摂家は近衛家、九条家、一条家、二条家、そして鷹司家の5家しかなく、いずれも大臣などの要職に就く家系である。
そんな摂家の鷹司家が何の権力も持たない風雅の君との接触を望んでいる。
倒幕を目論み、あわよくば朝廷を乗っ取ろうと考えている備中国の老人たちからすれば、近衛家の後釜として利用価値があると思っているのは当然だ。
「敦盛——野点をお引き受けしますと菱盛に伝えてください」
白檀はまた波乱が起こるのではないかと容易に想像がついたが、世話になっている身としては無下に断ることもできなかった。
笑顔で去っていく敦盛の姿が見えなくなると、白檀は途端に深いため息をついた。
(鷹司杏弥……何を考えているのか)
懐まで乗り込んでくるというのだから、何か深い事情があるのだろう。
白檀は探りを入れるべく、薄明りの中で筆を執った。